吉田三傑「村井保固傳」を読む 15
第一の渡米 (2)
村井は紐育の店から渡米の際には、米国富豪の家庭で珍しがられた日本の抻を、4、5頭携へて來るやう云われていた。1頭百円の価値があり4、5頭も持參すれば百円以上の運賃を償って余りある。しかし村井は性来嫌ひな動物を然も三等客として携帶する困難を思い、森村に向かって『今度はグラント將軍の乘船で、動物は一切積まぬことになつたそうです』と體よく胡麻化して成功はしたが、此時の噓は後々まで村井の心の隅ッコに刺の如く殘つたそうである。
横濱桑港間の船賃50円で米国の鐵道工夫として半奴隸的に送られる支那人1,200人とー虬に詰め込まれた。
此の時の手記が「太平洋月夜の記」として残っている。
晩餐既に畢り談聲笑語四面に起り、同語相寄り同情相集まる。各々屯聚を異にし或いは頭上の長毛を振つてケンケンチャンチャンと叫ぶあり、或は赤髯を撫してプープーペーペーと話し笑ふあり、恰も是れ一庭内に数國の人を集め壇ままに談話せしむるが如く、實に是れ内地に於て見んと欲して能はざる所、大いに我が旅情の慰なりと我を忘れて聽くこと數時、時に一友人左手に洋瓶を携へ右手に一肴を挾み来つて余に言って曰く、君この良夜を空消するや須らく共に甲板に上り此夜一樂を買ふの意なきか、則ち相與に甲板に昇り座を檣下に占め対座酬酌、談或いは古今に亘り興益積り切歯慷慨自国の不振を嘆じ、或は大業の拳らざる名誉の顯れざるを嘆く、或は東都の舟遊、西都の觀桜、談は變轉極りなし献酬數時與方さに酣なるの時、四面の笑聲漸く靜かに燈影寂として殘る、友人空瓶を枕として正にゴーゴー然たり、恰も良し月頭上に昇り天涯無影、風は檣上を拂って清音弄すべし、波靜にして船動かず、獨り船欄に倚りて四面を望めば一天水の如く濛々として一物を見ず、心靜かに気和し精神恍惚疑ふらくは身は是れ仙境に遊ぶに非ざるか。又想ふ仙人の與夫れ又此の如き乎。虚心昊霊気我を知らざる數時、偶々聞く鐘聲チャンチャンたるを、驚き起きて之を見れば時正に四更、月は波濤に臨んで半輪既に水中に沒す。乃ち友人を起し相共に牀に就く。
船が桑港に着いて金門湾を入るころ、陸上には幾万とも知れぬ米国人がグラント将軍を歓迎している。米国西海岸の一小都市桑港は、まだ繁栄を誇るほどでもなかったが、高層建築や道路の舗装や、交通機関といい生活様式といい東京と比べると雲泥の差で、国力の差は明瞭だった。唯一つ日本では西洋人を偉いもの扱いに考えていたが、此処に来て六尺豊かな大男に五仙で靴を磨かせた時には、金さえあれば西洋人を眼下にコギ使ってやれると、何だか痛快で留飲を下げた思いをしたものである。
桑港に滯在3日の後、同行の日本人数名とパン、チース果物類を買ひ整え、再び東行の旅に就いた。山嶽重畳するロッキーの峻嶮を縫ふやうにして蜿蜒駛走する汽車と云ひ、太平洋の荒波を凌いで安全に航海して来た汽船の機關と云ひ、何れも複雑微妙な科學の進步に負う所ならざるはないと、しみじみ文明の有難さを思ふと共に、何時かは日本人も斯ういふ文化の施設を創造し、運営するやうにならねばならぬ。と痛感したものである。