1927年『欧米独断』第四章 伊太利(イタリア)論

 我明治維新と相前後し殆んど同時に建国統一の大業を成したるものは北に独逸があり南に伊太利がある、孰れも新興の勢いを以って躍動し列強の仲間入りをした、特に独逸はフレデリック大王が教育立国の高遠なる大策を取った百年の効果が現れ来たり、国家主義智強健なる国民性と相俟って隆々として旭日昇天の勢いを以って進歩し、遂に世界を對手として争うに至った、敗戦の後と雖、復興の望みは第一位に置かれて居るが伊太利は日独とは往方を異にして居るようである。(中略)独逸は聯邦で皇帝は日本の征夷将軍と同じく諸王侯の雄たるに過ぎなかったけれども、名君賢相が水漁相依って帝位の隆昌他の及ぶなきに迄至った。前帝がその強大を自恃し過ぎ、天分を自信した餘にビスマークの欧州政策を捨てて世界に乗り出して失敗はしたもののその国力の偉大さは驚嘆すべきである。伊太利は建国の三傑としてカブール、マジニー、ガルバルジーを有したけれども、固よりビスマークに比較すべきでもなく、国王はサルジニア王が推載せられて君臨したもので普王が皇帝となりカイゼルの威光赫奕たるが如きには至らぬ、加之日独は教育を国策第一に置いたのに伊太利は両国の如くには往かなんだ、國本の培養に一籌を輸した譯である。教育の効果の現れるのは遅いけれども急がば回れで、如何しても基礎を築き上げるに他の方法はないから之に由るの外はない、今から顧みると我国維新の当時は實に憐れなもので如何にして万国併立の基を立てるかというのが題目であった、そうして武家などの小数特権階級では駄目だ国民一致の協力に由らねばならぬということに賢く気が付いて、政治上は万機公論に決すの大旨義を行い、護国の為には国民皆兵と言うことに爲り、社会的には階級を打破して上御一人下万民とした、而かして国民の責任負擔を全うし得る為に早く明治五年に学制を頒布して大規模なる大中小学区を設けその実現を期して、小学八か年の教育を義務とし、家に無学の子なきを実現することに努めた、今日の国勢は全くその効果の然らしむる所であるが、伊太利には其點に懈怠があった、それが亦今日の国情あるを致した、国情は後に説くとして、吾々の如く南北米の移民状態を視察したものには地中海民族や東欧人の無教育者の多いには誰もが驚かされる次第である、欧州とて眞に教育の普及したのは激甚の競争を続けた仏独と丁瑞で近頃になって英国が仲間入り希望と言う位なものだ、これは余所のことだがソヴィエットが共産の理想を実現しようだの、支那が共和制を採るなど、国民教育のない所に理想は行いやうがなく結局は専制政治に復するのが落ちだ、事実がその通りでないか。(中略)
 古羅馬建築物の城址広大なのには何人も驚くネロの宮殿が二千幾百あったそうだがまだ埋まっている部分も多いが大したものだ、法王が住みもし牢獄にも使った宮殿も少なくバチカンから通った煉瓦の孔道など何だ馬鹿馬鹿しいといひたい、ロムラスの宮址其他枚挙に遑もないが有名な公衆浴場や闘獣地など、能くもこんなものを建てようと思い付いたものだ、誰が設計したのか大膽な奴もあったものだと三嘆を禁め得ぬ。
羅馬の名建築に富める事は昔の遺物だからと抛つて置けぬのは、貧乏国の癖に官廳などの立派過ぎることだ。これが名建築に引きずられてのことで、司法省大蔵省など既成のものでも出来上がりかけの海軍省でも一種の冷笑が自然に起きる。建国記念館が九分九厘まで竣工したが何のことだ、千歳逭史を照らす建国に記念館は無用だ、天壌無窮動きなき我国にはそんなものはない、国家そのもので沢山だムッソリニでも打ち毀しは出来ぬものか知らん。外形じゃないよ内容だよ、物質じゃない精神だよ。
美術の國沸伊に遺された古人の傑作は偉観だが、今は模倣時代で新味は出ぬ独創はない紛本に依るのみだ。羅馬の美少女が地獄の神に擔がれた大理石像と、サンソシー宮庭の冩しとを較べて天地の差を見出した時、糟粕を甞めるものは糟粕だと感じたが国情の行き詰まりは美術に迄及んだ、斯界亦ムッソリニを要求する。

***これやかれや***

7月14日朝食前に公園を散歩し領事館に至りドーモージを観る
  ドーモーの屋根高くして日の遠くなつもあつしと思はざりけり15日レッコに近き村の製糸場を視コモたる電信機発明百年記念博覧会に往きて諸機械及び蠶糸織物と操業とを観る
  アルプスの雪の雫のあつまりて湖となりぬるコモの玉水17日朝羅馬着巴里にて知り合いし人々と共に見物す
  のみと筆にこめし力にひかれ来て羅馬につどふ外国のひと(博物館)
  牛乳の湯にひたりつロマ人は見をも國をもわすれつるとよ(浴場)
18日万国農事協会にぺリルス氏と会談後また市内を見物し夜汽車に乗りて維納(ウイーン)ブレーグを経て伯林に出づることとしたるに折しも維納には騒動あり音信交通も絶えたり側杖喰らうなと糟谷中佐の忠告に随い瑞西中通りを独逸に出づることに変更せり
  ロムラスが都剏めしころさへや羅馬は石の殿作りせり
  吾往かん道塞がればアルプスのたかね仰ぎてまたも過ぎなん
20日朝九時伯林着留学中なる息美材に着を告げ頓がて来り、父子相逢ふて悦べり
  さはりなくめぐりあひにし親と子の一と目語りつくさず

(無逸伝には清家代議士の長男美材氏は広島高等師範学校教授と記されている)