せ、き生の正体

ブロガーは、恩師・渡部先生からの情報を得て、早速吉次郎の親族に問い合わせた
大洲市に居られる曾孫にあたる方と話ができたが
吉次郎の孫、三四子さんは既に亡くなられていた
広島、松山と引っ越すたびに吉次郎の遺品は整理され日記などの資料は皆無と言われた
今、わずかな遺品は吉田高等学校「吉田三傑資料室」に残っている
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「せ、き生」と匿名で投稿した吉次郎の意図はどのようなものだったのか…
視学の彼は、国の役人たちが讃える隣県(高知県)の学校に興味があった、
その校長が修学旅行の帰りに宇和島か城辺に居た彼を尋ね、有益な話をして意気投合したという
2年後、彼は土佐柏島に仁尾校長を訪ねた、その時、見学したところ学校の粗末な設備、ささやかな予算ながら、校長の教育(教え子と苦楽を共にし水産業を教えた)を知り、これが「真の教育」と恐れ入った
これは世の中に知らしむべきと考え地元の海南新聞(現・愛媛新聞)に見聞記を投稿した
しかし愛媛県の視学(教育行政官)という立場上、他県の教育についてとやかく言えない、それで姓名の頭文字「せ、き」を匿名にしたものと推測される
それが、東京の「日本新聞」に連載する子規の随筆に取り上げられようとは夢にも思わなかった…
「病牀六尺」第1回の冒頭を飾る挿話で、真の教育者たる仁尾校長と文豪子規を結びつけたのは清家吉次郎の教育家魂である
病牀の子規を癒し、励ましたのは「せ、き生」の投稿記事であり、書くことで命を繋いできた子規を救ったのは吉次郎だ!と、恩師はいう
日本政府は再来年の明治維新150年記念事業を企画しているというが、この校長、子規、吉次郎の教育魂を後世に伝えることが明治を生きた先人への供養となる


一句
せき生が根津に参るか獺祭忌

 明治の快男児「吉田三傑」