清家吉次郎伝 5

吉次郎の南宇和時代は明治35年5月までで、6月には伊予郡視学に転じた
その後は各地を転々として南宇和時代のように1カ所に4、5年留まるようなことはなかった
36年西宇和、39年温泉郡に転任し、40年にまた郷里北宇和郡に帰ってきた
当時の郡長は宇和島出身の土井辨次郎で、吉次郎と同様の豪傑で二人で酒を飲み
、魚釣りに行ったりする肝胆相照らす一身同体の間柄だった
教育以外の事も吉次郎の意見を取り入れ、吉次郎は腰を据えて郷里に
44年4月まで勤務することができた
しかし突如として遠く離れた周桑郡に転任の辞令が来た、
これは左遷の意味が含まれていると、熱血漢の彼は憤然として教育界を去ったのである
明治22年師範卒業以来、実に23年間の長い教育家生活だった
吉次郎は以前から政治家になろうと志を立てていたが、これを好機に同年10月の
愛媛県会議員選挙に立候補し見事当選した
教育界から政界に身を投じ、いよいよ吉次郎の真価が発揮されるのである

一方の山下亀三郎明治37年から始まった日露戦争で石炭、海運で儲け、飛ぶ鳥を落とす勢いであった
明治39年1月には初めての持ち船「喜佐方丸」に乗り、妻子と共に故郷の吉田港に凱旋寄港した、
竹馬の友が故郷に錦を飾ったとき、吉次郎は温泉郡に赴任していたが亀三郎の船を見たのだろうか
しかし戦争が終わると不況が襲い、北海道の材木会社などに投資していた戦争の儲けはすべて吹っ飛び、逆に100万円の負債を抱えていた、亀三郎苦難の時代であった
故郷で安穏と暮らしていた吉次郎は、親友の苦境をどう見ていたのであろうか
だが、亀三郎は逆風に堪え、明治44年東京日本橋に山下汽船合名会社を興した
吉次郎は政界に乗り出し明治最後の年は二人にとって忘れることのできない年となった
両雄は44歳の働き盛り、その後、我が国の近代化のために誠心誠意、尽力するのである

二句
吉田湾喜佐方丸に鶴が舞う
初春や名残惜しむは母の海
(帰省した亀三郎)