吉次郎の投稿 2

故・和田克司氏(元・大阪成蹊短期大学名誉教授)の遺稿から、せ、き生(吉次郎)の投稿を繙く
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柏島水産補習学校を観る         せ、き 生

柏島といふ所は土佐の幡多郡最西の凸角で昔は陸つづきであつたのが応永十一年の地震に岬の一部が陥落して島となつたのである ソレまでは戸口も大分あつたさうなが土地が海水に蝕はれて徃くと共に次第と減つて寛永の頃に五十八戸あつたげな 海南の偉人野中兼山翁はここを最良の漁場で格好の碇泊場と考へて島の五分の二に渉る防護堤と凸堤を四十尋の深い底から築上げて其中に縄張をして整然とした漁村を開いた 今で二百戸あるが漁期にでもなると出稼人が千も這入るであらう 何様土佐海漁場の中心だ
 茲に土佐名物として鰹節と共に遠く天下にきこえた水産補習学校がある(中略)何が天下の名物ぞ 学校といふたら教室が僅に十二坪で事務所兼校長の寝室兼寄宿が三畳敷で実習所が五六坪経費が四百二十円備品費が二十二円で消耗費が十七円とは恐れ入る訳ではないか 斯う外形を見た計りなら成程名物は名物たがお粗末といふことを代表した名物である 然るに真はさうでなくて矢張り正銘の名物なのだ 何が名物ぞ校長の仁尾重実君!(中略)今日此頃仁尾君は四年間昇給なしの廿円に安んじて居るのである 充分に教育事業にインテレストを持つて居るのである
 十七円の消耗費と廿二円の備品費では泳げぬ訳だが仁尾君は猶余るといつて居る 元来必要は発明の母だ 種々なる網類の標本を始め魚貝海藻なと皆手製で出来製造器械や漁場図や其他のものも金を出して拵へたといふものはないのである 悉く教師と生徒の手で造られてゐる 設備々々と口癖のやうに云ふ人々よチト暇をこしらへて此学校へ徃つて御覧な 誰でも其昔スタンツに於けるペスタロツヂーの学校を回想するであらう
 実習から得る所の利益は亦大いもので金の融通はどうでもなる 罐詰などは総ての原料が五六銭で廿銭の品が出来る 烏賊一匹二毛づつ呉れて実業家から製造を学校へ頼んで来る 校費の不足も多少補はれようが今で一千円の基本財産がそれから作られてある 生徒等が網を結て三人で一人前八十銭宛の資金を得る これは皆郵便貯金として平生は引出しを許さぬ 何分辺鄙のことだから修学旅行がもつとも必要であるといふので其旅費になら引出させる 一昨年の馬関に開かれた水産博覧会の時など校長は生徒を連れて大坂へ出て靭の魚問屋やら商品陳列場などを見せ山陽鉄道で馬関へ出で博覧会を観せ海峡で電燈の試験なとをさせ門司から大分へ廻はり宇和島を経て陸路帰島した 其帰るさに吾輩を訪ねられて種々有益な話をせられたのが実に吾輩の仁尾君を知るの初めであつた(中略)日々皆然りだ
 吾輩も沢山実業学校を参観したが補習学校など皆宜しくない(中略)独り此学校計りは真実の補習学校である 廿八年に生徒が十一名であつたのが今は六十五人となり 校舎も十一月には新築が出来る 成可く今の内に徃つて見て貰いたい(下略)
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和田氏の講演…この記事は「海南新聞」の明治三十五年四月三十日の二面に報告されたもので、筆者「せ、き生」は清家吉次郎である
清家吉次郎は慶応二年(1866年)九月十四日、愛媛県北宇和郡喜佐方村河内(現吉田町)生まれ、
愛媛師範学校を卒業後、小学校教員、視学を経て県会議員、吉田町長、衆議院議員となり、吉田町の学校や病院の設立に努力し、
郷土吉田町のために終生尽力した人であった。昭和九年二月二十三日六十七才にて没した。
明治三十五年晩春には視学として南予地方を視察中で、当時評判になっていた柏島の水産補習学校を訪ね、
その見聞記を「海南新聞」に投稿したのであった。
 柏島は、面積〇・五七キロ平米、周囲三・九キロ米の小島である。昭和三十二年木製の、昭和四十二年には鉄筋の架橋があり、
現今は地続きになっている。前述の兼山の大長堤は高さ二米、幅平均三・六米で、柏島石堤として史跡になっている。
仁尾重実は元治元年九月十五日生れ、当時三十九歳であった。一方水産補習学校は、明治二十八年末、県内では、
室戸とともに創設され、大正二年水産科が廃止され、その歴史的使命を終えた。その地は柏島南部の居住区の北側山麓
近い所にあって、土居町地区道の北側の地に石垣造りで、石段を設けた地にあった。
現今その石段を残し、老人憩の家、大月町立柏島診療所が設けられている。
もっとも子規は清家吉次郎のことや、「海南新聞」の記事内容以上に、さらに立ち入った事柄は知らなかったが、
(以下の本文は『子規選集』1子規の随筆による)

 ○土佐の西の端に柏島という小さな島があって二百戸の漁村に水産補習学校が一つある。教室が十二坪、事務所とも校長の寝室とも兼帯で三畳敷、実習所が五、六坪、経費が四百二十円、備品費が二十二円、消耗品費が十七円、生徒が六十五人、校長の月給が二十円、しかも四年間昇給なしの二十円じゃそうな。そのほかには実習から得る利益があって五銭の原料で二十銭の缶詰が出来る。生徒が網を結ぶと八十銭くらいの賃銀を得る。それらは皆郵便貯金にしておいて修学旅行でなけりゃ引出させない、ということである。この小規模の学校がその道の人にはこの頃有名になったそうじゃが、世の中の人はもちろん知りはすまい。余はこの話を聞いて涙が出るほど嬉しかった。我々に大きな国家の料理が出来んとならば、この水産学校へ這入って松魚を切ったり、烏賊を乾したり網を結んだりしてかような校長の下に教育せられたら楽しいことであろう。(五月五日) 

…とその感激を述べている。病苦の中にあっての、この嬉しさ、楽しさが、
子規に文章を書かせ、句を作らせ、歌を詠ませる源となった。
   (和田氏は講演の最後にこのように締めくくった)

一句
志士来り紅梅香る宇和の風


(吉次郎は「無逸」と号した健筆家だった)