秋山好古生誕160年祭

ブロガーは今年1月6日、松山市の秋山兄弟生誕地で開催された、秋山好古陸軍大将の生誕160年祭に参加した。郷里吉田町から山下亀三郎翁を偲ぶ会の皆さん、東京からは山下家、秋山家のご親族が来られた。来賓の中村時広愛媛県知事の祝辞は「秋山大将は退任後、いろいろなお誘いがあった中で、北豫中学校長に望んで就任した。在任中は6年間一日の休みもなく馬で通い子弟の教育に尽くした。晩年はすべての遺産を松山常磐会に寄附をして何も残さず静かに逝った」と語った。
この生誕地は、旧松山藩主久松家の当主・久松定謨、山下亀三郎、新田長次郎らが資金を集め遺邸として残したもので、昭和12年7月、秋山両将遺邸保存會の井上要が石碑に刻んでいる。
 この会には松山子規会の烏谷照雄会長、吉田中学時代の恩師で副会長の渡部平人先生も出席されていた。正岡子規は好古大将がかつて監督をしていた常磐会寄宿舎に明治21年から24年まで在舎していた。子規は好古の弟、眞之と松山中学、東京大学予備門で同級だった。
松山子規会が正岡子規生誕150年記念として発行した「松山子規辞典」には、秋山眞之は、東京では子規と同室で、無銭旅行、寄席通いや徹夜の勉強を競い、共に青春を謳歌した。眞之は海軍兵学校で4年間首席をとおすが、海軍将校になっても子規との交友は続いた。明治30年、海軍大尉の眞之は異例の若さで米国留学が決定。子規に別れを告げる。子規は「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」と詠む。留学中、根岸の子規に毛布を贈り、子規は生涯布団に掛けた。と記されている。
 この度「松山 子規辞典」が第34回愛媛出版文化賞の第一部門「研究・評論」で部門賞を受賞した。恩師の渡部平人先生ら会員が永年、ご友人の故・和田克司氏と執筆、編纂していたが、渡部先生は中高生ら若い世代にも分かりやすい文章にしたそうで、子規を愛する松山市民の熱い思いが伝わる。
それにつけても吉田三傑の一人、清家吉次郎翁が当時の海南新聞に寄稿した高知県柏島水産補習学校見聞記の事である。
子規が「病牀六尺」第一話に取上げたという、故・和田克司氏の遺稿は、今、渡部先生の手元にある。「せ、き生」という匿名で投稿した主が、清家吉次郎という確証を今後の子規研究者の手で明らかにされんことを期待してやまない。
 ブロガーはこの日、生誕祭に参加された母校の校長、同窓会長に秋山好古大将銅像の下で、昨年の豪雨被害カンパ金をお渡しした。ささやかなお年玉代わりだが、母校の生徒たちを元気づけられれば殊の外うれしい。

初春や明治をしのぶ昭和びと