清家吉次郎伝 4

(小学校長から群視学へ)
吉次郎の勤めていた小学校は南宇和郡城辺という町で、住んでいたのは近くの平城、
何時も大きな弁当箱を提げてコツコツ歩いて通った
その姿は手織りのゴツゴツした木綿着物に木綿羽織で、肩幅の広いがっちりした体で
町を闊歩したのだ
校長時代は質実剛健主義に徹し、自ら「綿服会」というものを組織し宣伝奨励したが
吉次郎は南群の人たちと、このように深く結ばれていったのである
南宇和郡は、その後政界に身を転じる吉次郎にとって強固な選挙地盤となるのである
さて、校長先生は南宇和に腰を据えるかに思われたが、明治31年2月北宇和郡
明治尋常高等小学校訓導兼校長を命じられこの地を去った
明治校は明治33年まで勤めたが、遂に5月には視学(教育行政官)に抜擢され、
またまた南宇和郡に赴任した
吉次郎にとって南宇和はよくよく因縁の深い土地である、此の地に明治35年5月まで
視学として南宇和郡の学校を見て回った
この頃、吉次郎は隣の県、土佐の西端にある柏島の水産学校を訪れた
視学の吉次郎は、ほとほと、この学校の校長に関心させられ、見聞記を海南新聞に投稿した(という)
それが、正岡子規の「病床六尺」の冒頭に出てくる校長の話に繋がるのである
その情報をもたらしたのは、ブロガーの中学時代の国語の先生だったが
今から115年前の話である、次回より吉次郎と子規の機縁を解き明かしたい…

一句
いにしえの南予の果ての椿かな

(吉田高校校門脇の清家邸跡)