吉次郎の投稿 1

恩師渡部先生の友人、故和田克司氏は、2009年(H21)西予市で「子規と仰臥漫録」というテーマで講演を行った
その中で「病床六尺」について語った
 「病牀六尺」は子規の最晩年の随筆で、明治三十五年五月五日、新聞「日本」に発表した
  ○病牀六尺、これが我世界である。しかもこの六尺の病牀が余には広過ぎるのである、僅かに手を延ばして畳に触れる事はあるが蒲団の外へまで足を延ばして体をくつろぐことも出来ない。甚しい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も体の動けないことがある。苦痛、煩悶、号泣、麻痺剤、僅かに一条の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貪る果敢なさ、それでも生きて居ればいひたいことはいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限つて居れど、それさへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくてために病苦を忘るるやうな事がないでもない。
年が年中、しかも六年の間世間も知らずに寐て居た病人の感じは先づこんなものです。と前書きして…  

子規は、病床生活を六尺、すなわち畳一枚分の空間世界として捉え、身動きままならぬ我が身を力一杯救済する道を
筆墨に求めたのである。前述の文章に続く内容は、土佐の国の柏島(現高知県大月町)の水産補習学校の教育問題である。
その機縁は故郷の「海南新聞」明治三十五年四月三十日の二面の記事であった。
「海南新聞」には子規の友人柳原極堂が編集に携わっていたために、毎日東京の子規庵へ送られて来ていたのである。

とあるが、いよいよ吉次郎の投稿文解析は次回へ…

***
ブロガーは恩師から「病牀六尺」の本を知った、子規のことをあまり知らないが
3年前、松山の「子規庵」に行ったことがある、その折のムービーをアップする

〜俳句が好きなブロガーは松山の子規、宇和島芭蕉の母を偲んだ〜