住田海事奨励賞を受賞

 今年4月18日付ブログに掲載した『日本の海のレジェンドたち』(海文堂出版)が、第53 回「住田海事賞三賞」の住田海事奨励賞を受賞しました。

住田三賞というのは、一般社団法人日本海運集会所が管理運営するもので、海事文化の発展に寄与した住田正一氏を記念して創設されたものです。

 住田正一氏は松山市の出身で、大正7年東京帝国大学を卒業後、鈴木商店に入社し叩き上げ番頭のカリスマ・金子直吉の秘書を務めた。その折、山下汽船社長の山下亀三郎と接点があり、住田は亀三郎を取材して後日のエッセイ集に多く取り上げている。(2020.2.3付ブログ参照)

 12月1日、日本海運集会所発表のサイトには、下記のようにアップされている。

 今回も日本海運集会所の住田海事奨励賞管理委員会で各賞の候補作について検討を重ねた結果、「住田海事奨励賞」に『日本の海のレジェンドたち』(山縣記念財団80 周年記念出版編集委員会 編)、「住田海事史奨励賞」に『日本近代造船の礎 ヘダ号の建造』(伊藤稔著)が選ばれた。

◆住田海事奨励賞

  山縣記念財団80 周年記念出版編集委員会

  『日本の海のレジェンドたち』

  体裁:A5判/ 288 頁  定価:2,750円(税込)  発行:海文堂出版株式会社

 本書は、日本の江戸時代から昭和に至る海運・造船・海上保険など海事産業に大きな足跡を残した23 人余の物語性豊かな評伝集である。海事に深い知見を持つ研究者や対象とする人物に詳しい著者など21 人によって執筆され、山縣記念財団の80 周年を記念して編まれた。

 登場人物は、歴史好きなら誰でも知っている勝海舟坂本龍馬などから、江戸時代に稀有な体験をした有名無名の漂流者、現代の海事産業界の人がよく知る偉大な先達まで多彩に取り上げられている。

 一編は平均12 ページ前後と海事に詳しくない読者も容易に読み切れる構成となっており、それぞれのエピソードは“ いいとこどり” ではなく実際に生きた人間のリアルな姿を描いている。日本の海のレジェンドたちをほぼ網羅しつつ、誰にでも読みやすい本にして社会に発信する、という海事広報的な企画の素晴らしさが評価された。

***

 ブロガーは、今までのブログ記事を編集して『吉田三傑2021(完)』を12月1日付で発行しました。田舎の愛郷家や同級生などに進呈する予定です。

その中に山下亀三郎評伝を載せています。『日本の海のレジェンドたち』には亀三郎は、海事産業中興の祖として内田信也勝田銀次郎などの大正船成金と共に日本海運の発展に寄与したと位置づけられています。

(山縣財団、海文堂にはブログ本への転載の許可を頂いている)

 今回の受賞は、我がブログ本出版に花を添えていただきました。当ブログを見ていただいている方々には、『日本の海のレジェンドたち』を購入いただければ幸いです。

 

f:id:oogatasen:20211113145945j:plain
f:id:oogatasen:20211113145711j:plain
山下亀三郎評伝(ブロガー撮影)

 

 

 

西国の伊達騒動 23(完)

 高輪 東禅寺を訪ねて

 11月5日、伊予吉田藩・歴代藩主の墓がある港区高輪の「東禅寺」を訪れた。

 コロナ感染も激減し、ブログ「西国の伊達騒動」の締めに久しぶり東京へ出かけた。昨年開業した新駅「高輪ゲートウェイ駅」で降り、第一京浜を渡って桂坂、洞坂をアップダウンすると東禅寺の山門に着いた。

 東禅寺は高輪3丁目にあり、臨済宗妙心寺派で江戸四箇寺の1つとして、国指定史跡になっている。江戸幕府は、安政6年、品川に近い高輪の東禅寺を英国公使館としてイギリスに提供した。ラザフォード・オールコック初代英国公使は、尊王攘夷派の水戸藩、松本藩の浪士に2回も襲撃された。

 東禅寺は宮崎の飫肥藩主伊東祐慶が赤坂に創建し、寛永13年(1636)高輪に再建された。本寺を菩提寺にしている大名は13藩にも及ぶ。昔、目の前は品川の海だった。西国の藩主は、ふる里につながる海に想いを馳せたのだろう。

 伊達家は、宇和島藩伊予吉田藩陸奥仙台藩が江戸の菩提寺としている。

 宇和島藩は藩祖・伊達秀宗墓所があり、伊予吉田藩は、2代宗保から江戸で亡くなった歴代の藩主ら(下記参照)のお墓がある。

 海運王・山下亀三郎は、高輪南町に邸宅を構え、毎朝、東禅寺辺りを散歩した。

 

f:id:oogatasen:20211105103119j:plain
f:id:oogatasen:20211105104459j:plain
東禅寺山門(2021.11.5)
f:id:oogatasen:20211105103436j:plain
f:id:oogatasen:20211105103415j:plain
東禅寺本堂と三重塔

 幕末の宇和島藩伊予吉田藩

 山下亀三郎に縁のある伊達宗城と伊達宗孝は、そもそも旗本山口家の兄弟で、幕末は勤王派、佐幕派に分かれて動乱の時代を生きた。

 旗本家の厄介者は(総領ではない)伊達家の世継ぎ問題で一国一城の主となった。

 兄の宗城は宇和島藩8代目藩主、実弟の宗孝は、伊予吉田藩8代目藩主となった。

 旗本山口氏は、清和源氏の流れをくみ、信濃国山口を領し山口と名乗った。

 1585年、山口直之の子、直友が徳川家康の家来となり、代々徳川家に仕えた。

 1704年、徳川家宣の時代、山口直安(初代)は旗本八万騎となり三千石を知行した。

 時代は下り、1789年、3代目山口直承の婿養子、直清は31歳で4代目を相続した。

彼は、宇和島藩5代目伊達村候の次男で、宗城・宗孝兄弟の祖父にあたる。

 伊達家の血を引く直清は、天明大飢饉の頃、大坂町奉行の要職にあったが、幕府から莫大な御用金を課せられた。疲弊困窮している領民に課税は出来ないと、老中に再三願い出たが聞き入れられず、ついに一命をもって窮状を訴えた。1798年没、享年39歳だった。吉田騒動の家老・安藤義太夫は、5年前(1793)八幡河原で切腹し御家を護ったが、直清は自刃して領民を救った。

 5代目直勝は、父直清が幕府に逆らったにも関わらず跡目を相続し、直信、宗城、宗孝の3兄弟を育てた。

 1825年、直勝は、長男の直信に家督を継がせた。その後、宗城、宗孝を父・直清ゆかりの伊達家へ養子に出した。ちなみに直信の次男は、弟宗孝の養子となり吉田藩9代目の宗敬という最後の藩主になる。

 いろいろと縁の深い山口家であるが、宗城、宗孝は互いに相反するところがあった。

 宗城は、文政元年(1818)江戸、牛込逢坂の旗本屋敷で生まれた。幼名は亀三郎で、母は蒔田河内守広朝の娘である。

 さて、宇和島藩の7代目藩主宗紀(6代村壽の長子、直勝の従兄)には、跡継ぎがいなかった。伊達家に血縁のある男子を模索していたところ、白羽の矢が当たったのが、山口家の次男亀三郎だった。文政十年、亀三郎は先ず伊達弾正の養子になり、知次郎と改名し、宇和島藩邸の家老屋敷に移り住んだ。

 天保5年(1834)17歳の知次郎は、義父の宗紀に連れられ将軍家斉に謁見した。

 天保6年18歳で元服、諱を宗城とし宇和島に初めてお国入りした。

 宗城一行は箱根から東海道山陽道と往き、兵庫の室津港から船に乗った。港は北前船、菱垣廻船、樽廻船など多くの船で賑わっていた。瀬戸内海をゆくと千石船が行き交い、物流の大動脈たる船を見て胸が躍った。

 やがて船は伊予国佐田岬を回って宇和海に入った。波の高い豊後水道を南に下ると日振島などの島々が見える。宇和島湾に入ると、目の前に宇和島城が鬼ケ城山脈に映えて華麗な姿を現した。宗城は「ここが宇和島十万石の我が伊達藩か」と目を輝かせた。小早船に乗換えた若殿は、多くの藩士、領民の大歓迎を受けて宇和島の地を踏んだ。

 その後、宗城は名君宗紀から帝王学を教えられ勉学に励んだ。特に西洋事情に興味を持ち世界の情勢を研究した。

 宗城は、海外の大勢を知るためには蘭学が大事と、高野長明を招き藩士を教育をした。更に、長州から招いた村田蔵六に提灯屋の嘉蔵と一緒に蒸気船の建造を命じた。

 宗城は、若いころ宗紀の紹介で、水戸斉昭から尊王思想を植え付けられていた。

 宗城は、わずか十万石の小藩なれども、薩摩藩などの大名と肩を並べ「四賢侯」と呼ばれるまでになり、混迷する幕末で政治指導力を発揮した。

 慶応2年に、2代目の英国公使ハリー・パークスが、イギリス東洋艦隊で宇和島を訪れた。宗城は、汽船サラミス号に乗ってきたパークスを義父宗紀、その子宗徳の三代で迎えた。後日、パークスの部下、アーネスト・サトウは「四国の片田舎にはもったいない優秀な大名がいる、宗城公は日本一の知恵者」と褒め称えている。

 宗城は、公武合体を唱えたが、戊辰戦争が始まると薩長に同調せず新政府参謀を辞任した。

 一方の弟・宗孝は、文政4年(1821)山口直勝の三男として生まれた。幼名を鍋之助といった。

 天保10年(1839)18歳の時に、伊予吉田藩の第7代藩主・伊達宗翰の養子となり伊織と名乗った。宗翰は、宇藩7代宗紀の実弟であるが、子宝に恵まれず跡継ぎに頭を悩ましていたが、兄と同じく旗本山口家から養子をとった。

 天保14年、伊織18歳の時に、8代藩主宗孝となり、従五位下和泉守に就任した。

 弘化2年(1845)34歳で若狭守となり日向佐土原藩島津家から嫁を迎えた。

 同年7月義父宗翰が吉田で逝去、50歳だった。宗翰は兄宗紀と同じく英邁な藩主で、文武両道を奨励し吉田藩の財政改革、産業振興に務めた。

 弘化3年5月、宗孝は吉田藩に初めてお国入りした。すでに宇和島には11年前、兄宗城がお国入りして、義父宗紀と藩政の改革に取り組んでいた。

しかし宗孝は、江戸育ちで旗本家の暮らしが長く、僻村の地に馴染めなかった。

 宗孝の家臣・甲斐順宜が著作した『落葉のはきよせ』によると、殿様は「好東厭西の性僻」と評し、江戸で評判のいい板前を御料理方に登用し、小唄や端唄を好むなど、江戸風に浸り贅沢な暮らしで藩政を疎かにしたと批判している。

 この御料理人は、石井治兵衛という四條山蔭中納言卿の流れを汲む職人で、京都で生まれ江戸に行き、先祖伝来の古實料理法を研究した。彼は幕府より仕官を求められたが、(徳川の百石より伊達の三人扶持が有難い)と、宗孝の招きに応じ御料理人頭となった。吉田陣屋街の河見の丁に住んだが、暇さえあれば小豆一桝を板の間に撒いて直魚箸でこれを拾った。当時、御上の料理は、すべて直魚箸を使い直接手で触れなかったという。維新後は宮中に奉仕して大膳職となり、料理人「石井治兵衛」の名跡は今も脈々と続いている。

 このような派手な暮らしで、在府の年に掛かった経費は、吉田在所の年の2倍となり、江戸滞在の3年間は莫大な出費となった。宗孝は吉田に帰国するのを嫌がり、進んで公儀の仕事を請け、更に虚勢をむさぼり交際を盛んにして財政を圧迫した。

 吉田陣屋では、安政の大地震で御殿の修復工事を行い、側室の住まいを新築、安政4年(1857)、名工二宮長六の手で総ヒノキ造りの大玄関を造り大広間も改築した。

 宗孝の浪費で藩の財政は困難を極め、ついに七段掛りという重税を領民に課した。

豪商、豪農には強いて献金を促し、大阪商人の鴻池などから6,000両を借金した。

 文久3年(1863)宗孝は、側室の保野(ほの)と茂(しげ)と、その子女、江戸屋敷の女中などを連れ大行列でお国入りした。その道中に多くの足軽衆が付き添い、女中共の腰添まで勤めさせられ、後日、足軽衆から指弾を受けることになった。

 これに反し実兄の宗城は、宇和島藩のため財政を整理し士民を休養させた。それゆえ吉田の有様を聞いて大いに憂い、しばしば書をもって宗孝に忠告した。

 しかし、それ以上に宗城を困らせたのは、宗孝の佐幕志向である。旗本出身ゆえに徳川家擁護の意志は固く、吉田藩は存亡の危機に晒されてゆく。

 宗孝は、日ごろ「予は大名にあらず、何時かは十万石以上の大名になる」と兄宗城に対抗心を燃やしていたが、江戸城柳之間の触頭として自ら佐幕論の首謀となり、70余藩を纏め西国の倒幕派である三大強藩に対抗しようとした。

 これを知った宗城は、家老の郷六と物頭の今橋、今村の三士を江戸へ向かわせ、大義名分をもって忠諌させた。すると宗孝は「汝らの知るところに非ず」と家臣は一蹴され帰国した。

 宗城が尊王派として活動している時、宗孝は佐幕派の立場をとり、鳥羽伏見の戦でも動かず朝廷の疑惑を招いた。吉田藩の老職たちは、空前絶後の一大事を救うには、藩主を迎護して京都に参勤するしか道はないと、60名の藩士を選んで江戸に向かわせた。

家臣の甲斐順宜も重病を押して東行に加わった。途中、東征の官軍を通過したが辛くも江戸屋敷に到着した。

 さすがの宗孝も、事ここに至っては大いに悔悟し、諸士に感謝して速やかに退身を決意した。養嗣子宗敬に家督を相続すべく願書を朝廷に奉呈することになった。

 宗孝は、慶応4年(1868)6月上京、宗城のとりなしで朝廷に陳謝し、7月23日宗敬に封を譲った。

 維新後、宗孝は老齢ながら選ばれて侍従となった。陛下の覚えは格別であったが、特に馬術が達者なので常に御陪乗を命じられた。

 山下亀三郎は自伝『沈みつ浮きつ』で、宗孝公は馬に乗りウサギ狩りなどして、庄屋の山下家に立ち寄り、母敬のお茶漬けを食べたと書いている。殿様は酒を余り飲まない、味噌漬けで飯を食うという質素なものだったらしいが、伝聞の乱行については自伝には記されていない。

 隠居した楽堂翁は、明治32年5月20日死去、享年78歳。同日付けで従三位に叙せられた。法名は、總宜院殿楽堂達孝大居士で、高輪の東禅寺に葬られた。

 余談だが、宗孝は、3人の側室に20人の子を産ませている。宗孝の七男健吉は、側室茂(大畑伊兵衛の娘)の4番目の子で、明治3年9月24日吉田陣屋で生まれた。

 宗孝は、明治4年6月廃藩置県により陣屋を引き払い、側室らと共に佐武丸に乗船して東京に転居した。成人した息子の健吉は、旧仙台藩家老・白石片倉家の婿養子となり、札幌白石村の開拓地に住んだ。その後仙台に帰り、伊達政宗を祀る仙台「青葉神社」の宮司となった。

 昔、片倉小十郎景綱は、伊達政宗の守役で軍師として名を馳せた。政宗は小十郎に一万三千石所領の白石城を与えた。機縁とはいえ、政宗の子孫・伊達健吉が、家来だった片倉小十郎子孫の養子となり、今でもその子孫は、政宗の神名「武振彦命」を祀った神社で宮司を務めている。

 ブロガーは、この度の東禅寺訪問で、宗孝公のお墓に線香をあげようとしたが、伊達家関係者以外は墓地に立ち入ることは許されず、墓地の方に向かって合掌した。

  

伊予吉田藩伊達家の系譜

①宗純(むねずみ) 宇和島藩主秀宗の五男(政宗の孫)吉田藩の藩祖享年73歳、墓は大乗寺

②宗保(むねやす) 宗純の次男 江戸で逝去20歳没、墓は東禅寺

③村豊(むらとよ)  秀宗の七男宗職の次男、松之廊下事件に遭遇、54歳没、墓は東禅寺

④村信(むらのぶ) 村豊の次男、在任26年間、病弱46歳吉田で没、墓は大乗寺

⑤村賢(むらやす)  村信の次男、天明大飢饉に見舞われる、45歳没、墓は東禅寺

⑥村芳(むらよし)  村賢の次男、吉田紙騒動に遭う、時観堂創設42歳没、墓は東禅寺

⑦宗翰(むねもと)  宇和島藩主村壽の四男、宗紀の弟49歳没、墓は大乗寺

⑧宗孝(むねみち)  山口直勝の三男、放蕩三昧、佐幕派で隠居78歳没、墓は東禅寺

⑨宗敬(むねよし) 山口直信の次男、宗孝の養嗣子、藩知事25歳没、墓は東禅寺

⑩宗定(むねさだ) 明治3年生まれ、子爵、昭和18年74歳没、墓は東禅寺

⑪宗起 明治34年生まれ、昭和15年没 子爵、墓は東禅寺

 定宗、定清、定継

***

 長々と「西国の伊達騒動」を掲載したが、江戸幕府の崩壊で伊達二藩も消滅した。

宇和島市には宇和島城があり、伊達博物館などに歴史文化の史料が遺されている。

我が吉田町は、かつての陣屋は姿を消し、幕末の騒動で関係書類は燃やされた。

史料は、わずかに簡野道明・吉田図書館で保存されているという。

 やがて日本の近代化に尽力する「吉田三傑」の時代がやってくる。

                                 

西国の伊達騒動 22

吉田藩紙騒動 (15) (最終回) 六代伊達村芳お国入り

 寛政五年の山奥組を発端とした百姓一揆は、宇和島藩の八幡河原に集結するという騒ぎに発展した。家老安藤義太夫は、一揆を鎮めるため河原で自刃した。やがて農民らは歎願書を出し、概ね願いが叶い百姓衆は嬉々として帰村した。

 在府中の幼君伊達村芳は、安藤義太夫忠死の報に涙したという。

 吉田藩は、越訴は天下の御法度と、一揆の首謀者らを逮捕して厳罰に処した。

 村芳が江戸上屋敷で生まれたのは安永七年、父村賢の病が重くなった寛政二年に、六代目の藩主となった。弱冠十三歳の若殿だった。

 吉田藩の騒動も鎮まった寛政六年、十六歳の村芳は、江戸詰め家老の加藤文左衛門らを従え四月二十七日江戸を発ち、六月三日に吉田港に到着した。約四十日の長旅は、若殿の見聞を広めた。

 村芳は、御座船から降り、初めてわが伊予吉田藩の土を踏んだ時に(ここが夢にまで見た吉田であるか)と感動した。

 初めてお国入りした若殿は、我が領地を巡見する村の先々で、領民から万歳、万歳で迎えられた。警固の作之進は、その光景をみて「下々はみんな幼君の仁風に服し万歳を唱え申した」と語っている。

 村芳は、諸事に倹約をして、日夜、聖賢の道を学んだ。論語など四書五経を読んで自らを磨き高めた。

 また我が藩には藩校がないことを知り、この年の十一月、横堀番所の先、桜丁に「時観堂」を創設し、儒者の森崇を教授として士分の子弟に、漢籍などを学ばせた。

午前中は漢籍国学・習字を学習し、夕方は槍術場、撃剣場で鍛錬が行われ、文武両道の精神を叩きこんだ。

 明けて寛政七年、藩政のノウハウを修得した村芳は、参勤で江戸に向かった。

 四月七日、江戸に到着した村芳は、直ぐ徳川家斉に参勤御礼のため参上、公方様と若君に太刀、紗綾、馬代銀を献上した。その折、国元へ初入部のこと、吉田騒動の顛末を申し上げ深謝した。

 家斉は、村芳から家老・安藤義太夫一揆を収めるため切腹したと聞き、

「今どきそのような忠義なもののふが居るのだな」と呟いた。

 在府中に村芳は、下総関宿藩主・久世広明の娘、満喜子と婚姻した。

八月九日、関宿藩上屋敷がある江戸城近くの大名小路から、南八十堀まで入輿の長い行列が続いた。持参金は五百両で、共に十七歳の若きカップルだった。

 この夫婦は教養豊かで、和歌などを詠い文芸に秀でていた。

 村芳は、江戸詰めの藩医国学者でもある本間游淸から、歌道の指南を受けた。

 ある日、村芳は巡見で国境の蕨生村(松野町)を訪れた。名所の(雨か瀧)を見て、

  高知山ふもとは曇り空は晴れふらぬ日も降る雨か瀧つせ

と短冊にすらすらと認めた。当地の庄屋伊藤某は、若殿からこれを賜り家の宝とした。

 奥方の満喜子も歌道に熱心だった。三間郷・内深田村の大本神社で開かれた観桜の宴で詠んだ一首がある。

  老いぬれど変わらぬものは年毎に花見て遊ぶ心なりけり

 村芳が、文政三年、四十二歳で没した後も、満喜子は侍女の横山三千子(のちの桂子)と共に本間游淸から和歌を学んだ。作歌の数は五千首にもおよび、七十賀の記念に、游清が歌を選んで歌集『袖の香』を出版した。その一首

  水の上にしなひしなはぬ影みえて底まで匂ふ山吹の花

 また、侍女の三千子は、游清から文学の薫陶を受けた。

  あかぬかな月澄む夜半に散る紅葉桂の花のここちのみして

という題詠歌「月前紅葉」が、仁孝天皇の目にとまり「桂子」の名を賜り、のちに女官となった。

 本間游淸は、吉田の豪商、両法華津屋とも交流があった。

 叶高月屋の高月長徳は、吉田騒動の時の当主だったが、和歌、漢詩をたしなむ文化人だった。

 三引高月屋の九代目高月甚十郎は、雅号を「虹器」という。和歌、俳諧、書画、生花に造詣が深く、生花の吉田千家を起した。文化九年の還暦記念として『虹器年賀集』を出版した。

 家老安藤義太夫に重用された町年寄の岩城覚兵衛は、安藤に町方の後事を託された。その孫、七代目の岩城覚兵衛は、魚棚の岩城屋を大きくしたが、五十四歳で、引退し俳句の道に進んだ。

俳号を蟾居(せんきょ)といい、芭蕉に心酔し、「俳諧は芸にあらず道なり」と句作に励んだ。句文集『波留冨久路(はるぶくろ)』を、六十歳から書き始め七十六歳で没するまで全五巻を刊行した。

ここに納められた句数は、九千八百九十四句に達する。その中に、

  しる人の先に来て居る花見哉

という最晩年の句があり、光明山長福寺の墓所にこの句碑がある。

 ***

 安藤義太夫の墓は、菩提寺海蔵寺」にある。

 義太夫は卯の年卯の月卯の日(二月十四日)卯の刻に誕生し、二月十四日に逝去した。伝説では、六十一年目に当る嘉永六年二月十四日、発光があったという。

 豊後の国、保土が島(佐伯市保戸島のことか)の漁師が五神島(日振島近くの御五神島のことか)で汐待していると夢枕に神人が現れ、「われは吉田の安藤義太夫である。つむじ風が来るから直ぐに避難せよ」といわれ目が覚めた。

 半信半疑の漁師は、大急ぎで錨を揚げ近くの港に避難した。すると空は一転かき曇り海は荒れ狂った。白日夢のようであったが、命拾いをした漁師は、吉田港にあがり海蔵寺で、義太夫の墓を探しあて、自分の髪を切って奉納した。

 この霊験が、西国一円に伝わり、その後、海上安全、五穀豊穣、商売繁盛を祈願する参詣者が後を絶たず、多くの露店が出て門前市を成した。

 翌、嘉永七年、海蔵寺山内に名工二宮長六の手で廟所が造営された。土佐、九州など遠来の参拝客が押し寄せ、町人町にある二百軒ほどの旅籠が潤った。

 明治六年、信者有志は桜丁の安藤邸跡に継明神社を建立、後に安藤神社と改称された。この神殿も大工町の二宮長六が建立した。

 昭和六年、吉田新報が、

……四月十四日、安藤神社祭礼。一時神輿出、午後四時御幸所祭。神輿渡り各種練り物等午後一時より繰り出し好天気にて人出約一万人を以て埋められ、魚二下の丁辻では練りと牛鬼と群衆との三つ巴入り乱れの大喧嘩もあって喚声しきりに上がり慇懃を極め、夜に入っても群衆は盛り場より退散せず……

と春祭りの賑わいを報じている。

 中見役・鈴木作之進の墓は、最上山一乗寺にある。この寺は、藩祖宗純が建立、御内室於松の墓がある。作之進の墓は小高い丘にあり、眼下には吉田藩を救った安藤義太夫と郷六惣左衛門の菩提を弔う海蔵寺が見える。

 呑兵衛作之進は、「宮長」のある町人町を眺め、領民の弥栄(いやさか)を願いながらここに眠っている。

 

(エピローグ)

 一揆の首謀者・武左衛門の拠点である元日吉村の初代村長・井谷正命は、

昭和二年十一月、「庫外禁止録」を元吉田町長の清家吉次郎から借り受けて写し取った。この古文書は、作之進が寛政七年春、閑暇に任せて記述したもので、

「これは物語として残すのではなく、庫中に納めて他へ漏らすことの無いようにするものである」と記されている。

 平成七年、日吉村長・山本光男氏は、武左衛門の二百回忌にあたり、研究者の手により「庫外禁止録」(井谷本)を翻刻し発刊した。

 その中で、井谷正命は、村に伝わる話として、

(武左衛門は一揆の首唱者にして所謂頭取と認められ、藩吏の憎悪甚だしく逮捕の夜、清水村筒井坂にて斬首せられ、直ちに上大野村堀切坂に梟首せられたりと云う説真なりせば、目付所へ渡されたりと云うは、誤りなるべし。筒井坂の斬首せられたる跡には郷民等が、それとなく建立したる一字一石塔〈広見町下大野筒井坂にある明治十二年銘の塔〉が現存し在るなり)と記述している。

 

f:id:oogatasen:20150506125833j:plain
f:id:oogatasen:20160428104459j:plain
    安藤神社            海蔵寺 (2015.5.6 ブロガー撮影)

 

西国の伊達騒動 21

吉田藩紙騒動 (14) 一揆の頭取たちを逮捕

 吉田藩の領民が帰村した後、二月二十三日、代官たちは各村で、八幡河原で申し渡した十一か条に加え、具体化した内容の十二か条を言い渡した。

 代官らはこの申し渡しに村浦を回り、漸く二十六日に陣屋へ帰ってきた。

しかし、百姓側にはまだ納得しない者もおり、いざこざはその後も続いた。

 作之進は、三月六日、三間郷でまた願い事があるというので、奉行横田、代官岩下らと出かけた。三間、川筋まで村々が数か条に渡って願い出たので、作之進は、その対応に孤軍奮闘した。

 さて、四月になって江戸表から岡伴右衛門、越川勘平が帰国した。

大早の二人は、二月十三日夜吉田を出て、二十四日に大阪北浜の藩邸に着いた。お届けの後すぐに立ち、三月四日江戸に到着した。

 江戸南八十堀の吉田藩上屋敷は、第一報で百姓どもの不穏な動きを知ったが、大早の注進で百姓一揆が起きたと聞き、蜂の巣をつついたような騒ぎとなった。

家老の松田六右衛門は、幼君伊達村芳に国元で重大事件が発生したことを伝えた。まだ十五歳の殿様は、遠い西国で何が起きているのか想像もつかなかった。

 その後の大早二便で、家老安藤義太夫切腹、百姓どもが帰村したことを聞き、事態の急展開に上屋敷は右往左往した。

 松田六右衛門は、藩を揺るがす大事件の対応に、麻布龍土町宇和島藩上屋敷を訪ね、藩主伊達村候のご高配を仰いだ。

 村候は、吉田藩の家老に推挙した安藤義太夫が藩のために割腹したと知り、

「まことに残念至極であるが、義太夫は一死をもって吉田藩を救った!」

と、これこそ武士の鑑だと落涙した。

 また、宇和島藩と吉田藩が協力して一揆を収めたことを褒め称えた。

だが、強訴、逃散は天下の御法度、一揆の首謀者を召捕るように助言した。

 宗家の伊達村候は、吉田藩の百姓どもが、我が藩に越訴するとは青天の霹靂だった。ご公儀は、既にこの騒動を情報で掴んでいるだろう。だが家老の切腹一揆を収めた。今後、首謀者の断罪を行うことで、分家の改易は免れるだろうと考えた。

 四月一日、江戸から帰った二人は、すぐ重役たちに江戸表の藩命を伝えた。

 勇猛果敢な中老郷六惣左衛門は、「直ぐに捕り方を集めろ!」と号令した。

宇和島藩の役人は、頭取の吟味はしないと百姓どもに約束していたが、吉田藩は、家老安藤の犠牲もあり武家としての面目がある。まして強訴は天下の御法度で、頭取たちを逮捕、処罰しないと藩の存亡にかかわる。

 やがて捕手人が陣屋屋敷に呼び出され、秘密裡に戦略が練られた。

いよいよ、一揆のリーダーたちの大捕り物の始まりである。

 さて、作之進は騒動が一段落して、いつもの「宮長」で一杯やっていた。翌日、上役から招集がかかり、(また一仕事やるか~)と鼻をすすって奉行所へ向かった。 

 作之進は、今度の騒動は山奥組から始まっており、上大野村に強力な頭取が潜んでいると目を付けていた。山奥川筋の情報は、普請方の岡部八左衛門から聞いていた。

岡部は、洪水で荒れた土地の井手川普請で、二月二十日から足軽たちを連れて、修築工事の監督に来ていた。岡部は藩命もあり部下を使って騒動の首謀者を詮索していた。

 ある日、岡部は井手川で働く人夫たちに夫食米を多めに支給し、酒肴を振舞い一緒に酒を飲んでよもやま話をした。ほどなく岡部は、一揆を扇動した頭取のことを、大した男だとえらく褒めた。

「そのような人物であれば我が藩も士分に取り立てるだろう」というと、大酒を呑まされ酔っぱらった人夫は、

「一番がいな頭取は、この村の武座衛門様だあ、この人のお陰でわしらは何とか喰っていけるんや」と調子に乗って喋りだした。岡部は、上大野村の頭取に鉄五郎らが居ることも突き止めた。

 四月十一日、郷六惣左衛門は、岡部らの情報から山奥組が一番の標的と見て、百二十人ほどの精鋭な部下を集め、武座衛門ら頭取たちの逮捕に乗り出した。

 十三日昼九つ時(十二時)に御中間ら六人が出発した。黒井地の庄屋が案内し宇和通りで高野子村へ向かった。後続隊の山本友右衛門、今城古兵衛ら十五名も八つ時(十四時)に立った。これらは背後の高野子村から上大野村へ入る段取りだった。

 すでに山奥の奥組へは、この辺の土地に詳しい岡部八左衛門と御徒士目付の西村善右衛門が、銀札持参で忍び込んでいた。変装した坊主、小頭、足軽、御小人の十六人に弁当を渡して高野子村の捕り手を待った。

 作之進は、夕七つ時(十六時)に出発した。山奥の口組へ、村目付の二関古吉に付いて平田伴之亟、檜垣甚内ら三十名近くと、夜通しで三間郷を通り川筋村へ向かった。

その後から土居勇八、高木勝蔵など十五人がゾロゾロ付いて来た。作之進は銀札を持参して弁当を銘々に渡した。

 三間郷の宮野下村、興野々村などには、平井多右衛門など代官四名が出張し役人ら数十名で警備に当たった。

 このような大捜査網で、十四日明け方から昼過ぎにかけて、騒動の首謀者らを一斉に召捕った。

 逮捕された者は、上大野村の武左衛門、勇之進、鉄五郎。小松村は徳蔵、延川村は清蔵、川上村は彦吉庄右衛門、彦之亟、藤三郎であった。

これらの囚人は、十四日夕七つ時過ぎに吉田表の奉行所へ引出され入牢した。

 郡奉行は、囚人の取り調べで各村のリーダーたちの全貌が分かってきた。

 それにより、四月十七日から次々にリーダーが逮捕された。

小松村・藤吉、澤松村・藤六、延川村・清蔵、三四郎、高野子村・幸右衛門。

六月に入って、国遠村・ 幾之助、興野々村・彦右衛門。

七月、兼近村の 金之進、六右衛門、久兵衛、辰之進が最後の召捕りとなった。

その後、参考人として十七か村、八十二人が呼び出され吟味された。

 長い吟味の末、目付所に引き渡されたのは、次の九人だった。

上大野村・ 武左衛門、鐵五郎

延川村・清蔵

澤松村・藤六

兼近村・金之進、六右衛門

國遠村・幾之助

興野々村・彦右衛門

上川原渕村・與吉 

他の参考人は釈放され、各村へ帰って行った。

 吟味の結果、百姓一揆の中心人物は武座衛門だった。この男が詳しい事情を知っており山奥組の願書を取り計らい、各村から闘争資金をもらっていたことが判明した。

沢松村・藤六、国遠村・幾之助の二人は副頭取で、武座衛門のような切れ者ではなかった。これらの連中が、吉田藩の役人や豪商の悪説を言いふらし、吉田藩の百姓らを扇動し、いざという時には、皆が立ち上がるように巧妙に仕組んだものと分かった。

 作之進は、この一揆を起こし扇動したのは、山奥、川筋と三間の連中と分かり、やはり吉田郷や浦方は、仕方なく労働争議に駆り出されたのだと推察した。

 この年の九月十五日、吉田陣屋町は、南山八幡神社神幸祭で賑わっていた。

 作之進は、(御用お練り)に駆り出され、街をひと回りして「宮長」で酒を飲んでいた。そこへ同僚の兵頭敬蔵、岡部八左衛門が、(御船お練り)の先導役を終えて店に入ってきた。外は、塔堂車、武内宿禰などの練車が通って見物人が大勢出ている。

 「いや~ご両人ご苦労で御座った。まあ今宵はゆっくり飲みましょうや」と呑兵衛作之進は、ご機嫌である。

 兵頭敬蔵は、「秋のお祭りは大したものだのう。江戸の若殿さまもこの祭りをご覧になるとタマゲらい」

 すると岡部八左衛門は、情報通らしく、

「上司の話では、村芳公は来年には御初入するらしい」と得意げにリークした。

周りの酔客が騒がしいことを良いことに、作之進は、極刑に処せられた武座衛門の話をした。

「実はのう、武座衛門の家捜しの折、こんな書き物が出たのよ」といって、二人に戯れ歌の書を見せた。

  どうぞがなとすがる小島の袖きれて宇城の袖にすがる三萬

「小島とは奉行のことで、宇城は宇和島藩、三萬は吉田藩のことか」と兵頭は中々うまいこと書くなと感心した。

  冬春の狸を見たか鈴木どのばけあらはして笑止千萬

「鈴木どのとは作之進のことよのう、貴殿は山奥組に縁が深いからこんなことを書かれるのじゃ」と岡部は茶化した。

作之進は、まだ外にも一杯あるが憚り多いので仕舞っている、といって、

「だがのう、わしは、武座衛門のことを知らんのじゃ。奉行所で見たのが初めてで余程、隠密で動いていたのであろう」さらに、

「この男は本当に百姓であろうか、吉田藩すべての百姓を一揆に駆り出し、願書をしたため宇和島藩に訴えた。さらにいろいろ戯れ歌も詠む。こういうことは、百姓にはできまい、土佐あたりの浪人崩れではないか」と吞兵衛はしみじみと言った。

 お祭りの夜、町人町は遅くまで賑やかだった。三人の役人は、中秋の名月を見ながら桜橋を渡って、家中町に消えて行った。

 

f:id:oogatasen:20211001164444p:plain

(吉田秋祭り・お練り)

西国の伊達騒動 20

吉田藩紙騒動 (13) 歎願書が出て帰村する

 家老安藤の切腹は、一揆勢の知るところとなった。潔い死に一揆の闘争心が失われ、百姓の中には、「なんと天晴な武士」と感涙する者も現れた。

 十五日になって、やっと一揆のリーダーたちは、家老の自刃にショックを受け、鉾を収めることになった。

 全村の意見をまとめて、歎願書を宇和島藩の庄屋に提出した。宇和島藩の役人は頭取の吟味はしないと約束したが、リーダーは吟味を恐れ、歎願書は庄屋を介して役人に渡された。

「御願書覚」には十一条の要求が記されていた。要すれば、宇和島藩と同じ年貢の扱いにすることや、楮元銀や紙すき農家の問題、浦方の要望などで、百姓の生活が立ちいくようにすることである。

 十五日の昼、郡奉行横田茂右衛門は、急な報せがあり船で吉田へ戻った。夕刻七つ過ぎ(午後四時)吉田湾の鶴間に到着し、裏通りから黒門に入って書院へ駆け込んだ。

横田は、すぐに家老、中老、目付と密談に入ったが、お家の一大事に関することで、遅くまで評定が続いた。

 この日、安藤の切腹を聞いた宇和島藩の家老、櫻田数馬と松根図書が吉田陣屋に乗り込んできた。

 櫻田数馬は、「安藤義太夫のことは残念である。しかしそのお陰で百姓どもがやっと歎願書を出してきた。年貢を宇和島藩に上納したいというが、貴藩の存念を聞きたい」

 中老の郷六惣佐衛門は、老中の尾田を差し置いて、

「年貢を貴藩に納めるのであれば、吉田藩は成り立たない。百姓の言い分に一々応じていたのでは武家としての面目がなくなる」と声を荒げていった。

 すると櫻田数馬は、

「百姓どもが我が藩に入ったのは、ご法度の逃散ではないか。これがご公儀に知れると吉田藩は改易となろう」と厳しく叱るようにいった。

 さらに松根図書が、耳を疑うようなことを言った。

「貴殿らでは藩を安寧に存続さすことは出来ない。この事態を宗家として見過ごすことは、江戸に居られる村候公に申し訳が立たない。貴藩にご公儀の書状、御朱印状があるはずだが、それを我が藩で預かる。このままではお家取つぶしとなるであろう」というと、郷六はすごい形相となり、

「殿の出府中に御朱印状を渡すことは断じてない。強いてご所望であれば、槍先にてお渡し申そう」と大喝した。

 陣屋は険悪な雰囲気となったが、やがて櫻田は、

「藩をつぶしたくなければ、年貢のことを十分吟味して返答を頂きたい。百姓どもに申し聞かせて早く帰村させねばなるまい」といって宇和島に帰って行った。

 横田が宇和島に戻って来たのは、夜遅くだった。吉田での内談について作之進らに話があった。

 吉田藩としては、(年貢を吉田藩の蔵に納める時に、当分の間は宇和島藩の役人を立ち会わせる)と妥協案を示すが、宇和島藩へ上納することは、絶対に阻止するということであった。

 翌日、吉田藩の家老尾田は、宇和島に行って家老櫻田と会談した。年貢は宇和島藩監視のもとで吉田上納にしてもらいたいと頼み込んだ。

 櫻田は、部下の鈴木忠右衛門と徳弘弘人を河原に使わして、百姓のリーダーたちと歎願書、年貢の上納先について話すように指示をした。

早速、鈴木らは八幡河原へ急ぎ談判した。結局、百姓衆の願いをすべて聞くが、年貢は宇和島藩監視の上で吉田藩に上納することで話が付いた。

 吉田藩は郡奉行を招集し、十六日から、百姓どもを一斉に帰村させる準備をした。

 二月十六日朝六つ時、作之進は、郷六恵左衛門、横田茂右衛門に従って河原へ行った。すでに宇和島藩の役人徳弘弘人、目付須藤彈右衛門、代官二宮和右衛門、中見の鹿村覺左衛門が来ていた。河原では各村の庄屋が百姓どもを集合させていた。

 まず、宇和島藩の徳弘弘人が申し渡しを伝えた。

「その方どもの願いを、宇和島藩と吉田藩の家老らで協議のうえ決定したことを今から申し渡す。この上は、諸事をつつしみ、帰村には警固の者に無礼のないよう、家に帰った後は農業に精を出すようにいたせ」といって、さらに鹿村覺左衛門が十一条の裁決を読み上げた。

一、紙役所が相止められた去冬の楮元銀は、当春の漉出紙賣渡の代銀を以て返上申し付けられた。

一、楮売買の事は前々の通り申付けられた。

一、大豆銀上直段の事。

一、大豆乾欠指入の事。

一小物成納物升目の事。

一、青引納方掛目の事。

右四点の事も聞き届けられそれぞれ申し付けた。

一、津出(年貢納付)の節、逗留の事。

これも聞き届けられ左様の事が有ればその都度郡所へ申し出て、その訳を糾明する事。

一、紙方借銀古借年賦の事。五か年の間延引、その後相対なるべき事。

一、夫食米(出役の食料)の事。これは斟酌し申し付けるべき事。

一、為登米の事。これは吟味する事。

一、当分禁酒の事。これは山奥川筋の事。

 鹿村は、このように裁決を申し付けて、この書付を庄屋へ渡した。

 吉田藩の奉行横田は、申し渡しをもう一度読み聞かせ、「これは我が藩の家老にも相談しお聞き届け頂いた。そのことを心得て帰村し家業に精励すべし」と、藩の面子もあったのか、徳弘と同じことを百姓らに言い渡した。

 作之進は、(三間中・立間・喜佐方)(浦方)(山奥川筋)の三地区に分け、それぞれの庄屋たちに書付を渡した。

 この裁許書は百姓衆の歎願をすべて叶えたものだった。喜んだ百姓は、

「わしらの願い事はすべて聞いてもらった。早く村に帰ろうじゃないか」と叫ぶと、誰もが異議はないと、帰り支度を始めた。

 帰村に当たって、宇和島藩より五十名、吉田藩より十名の警固が付けられ、奉行やほかの役人も付き添い、この日のうちに全員が各村へ帰っていった。

 宇和島藩奉行・徳弘弘人も帰村を見届け、三間の務田村を通り吉田表にまわった。

夜に入り陣屋の屋敷に上がり、吉田藩のもてなしを受け、帰りは藩が用意した舟に乗って宇和島に帰って行った。

 横田ら一行と作之進は、三間郷を回り夜になってやっと吉田陣屋町に戻ってきた。

作之進は、まっすぐ家に帰らず中見の兵頭敬蔵を誘って、居酒屋「宮長」に寄った。

「いや~長かったのう御同輩、まあ一献いこう」と、二人はこの度の騒動を振りかえり深夜まで痛飲した。

 この日、百姓衆の出訴に付き、大洲藩新谷藩土佐藩より見舞の使者と書状が来ていた。この対応もぬかりなく、町宿にて一汁三菜の膳肴と酒を出した。一宿にて翌日昼弁当も用意し、正銀二両を礼金として渡した。

 江戸表への百姓衆帰村の御注進は、高木勝蔵、岩本丈之進が、二月十六日夜に出立した。

f:id:oogatasen:20180507152540j:plain

宇和島城 (ブロガー撮影)

西国の伊達騒動 19

吉田藩紙騒動 (12)安藤義太夫切腹

 山奥組や川筋の連中は、九日夜の出立から四日目となり疲労困ぱいの様子だった。 武左衛門は、山奥、川筋の楮・紙すき農民の願書を出しているので、あとは三間郷、吉田郷の百姓衆の出番と考えていた。

 八幡河原には、全村の百姓衆が揃うことになったが、一揆のリーダーたちは、歎願書のことでもめていた。筆の立つ武左衛門は、清書は引き受けるが表に立っての行動は控えたい、と同志に伝えていた。一揆の頭取は藩の処罰を受けるのは必至である。誰も表に立つことを拒んでいた。

しかしこれだけの群衆が集まっての争議である。長年の恨みつらみがあり、言いたいことは山ほどある。歎願書は出さねばならない。

 そもそも吉田藩は、「百姓は生かさず殺さず」というやり方で苛斂誅求した。

 藩は年貢米を、米一表の中に四斗六升、大豆一俵に五斗を詰めさせた。これは他の藩より量が多く農民は強く反発した。枡の量り方にも藩の有利なように卑劣なものだった。さらに雨天は湿気でかさが増えるとして、米俵を地面に置くことは許されなかった。雨が続くと何日も逗留しなければならなかった。

 リーダーたちは、願い事の整理を行っていた。山奥川筋の紙役所の廃止や借金の棒引き、また浦方の要求を聞き、三間郷など穀倉地帯の年貢米など不当な扱いを止めるよう箇条書きにしていた。

 吉田藩中見役の鈴木作之進に、三間の澤松村、吉田の立間村・喜佐方村、浦方の庄屋から内々の申し出があった。庄屋たちは、百姓衆を説得して直ぐにでも連れ帰ることが出来るというのである。作之進は自分の一存で云々できるものではないので、宇和島藩の役人や吉田藩の奉行らに相談したが、(それは一部の村で、吉田藩の全村が帰村するというのではないだろう)と一蹴された。そういう話が出るほど、一揆勢の中から寒さと飢えで、里心がついた百姓が出てきたのであろう。

 作之進はいつになったら雨が止むのだろうかと菜種梅雨の空を見ていた。百姓どもは、村毎の仮小屋で焚火をしてガヤガヤ騒いでいる。

 三間郷のリーダーたちは、一揆勢のタガが緩まぬよう各村の頭取格に、

(これからが勝負だ!わしらは今から願書を出す。各村の要望をすべて書いている。この願い事が叶うまでここを一歩も動かんぞ!)と大声で結束を呼びかけた。

 十三日夜九つ(午前〇時)吉田藩はこの緊急事態に、御用場掛りの岡伴左衛門、奥物頭兼小姓頭の越川勘平を大早飛脚として、江戸南八十堀の上屋敷に向かわせた。

十日夜には、百姓一揆の兆候有りと一報を発していたが、両名直々の御注進となった。江戸には家老の松田六右衛門が若殿の補佐役で出府していた。

 その頃、吉田陣屋の御船手に一隻の小舟がつながれていた。舟に乗っているのは、末席家老の安藤義太夫継明である。船着場に町年寄の岩城覚兵衛を呼んで、「これから宇和島へ参る。町内のことは頼んだぞ」と神妙な顔で云い渡した。

安藤の信任を受けている岩城は、只ならぬ家老の様子に「かしこまりました」と頭をさげ、無事のお帰りを祈った。

 明けて十四日未明、宇和島港に着いた安藤義太夫は、吉田藩定宿の伏見屋へ向かった。宿に詰めていた奉行の横田、小嶋に八幡河原の様子を尋ねた。

「未だ、農民らの歎願書が出てまいりません。昨日は中老の郷六惣佐衛門殿も参られて説得するも、なしのつぶてです」と横田茂右衛門が答え、(宇和島藩から安藤殿にすぐに登城せよ)との伝言があったことを告げた。

「相分かった。登城の前に中間村庄屋所で、宇和島藩の徳弘弘人殿に会っておこう」といって、若党の渡辺定右衛門を連れ、伏見屋の駕籠で出て行った。

横田は、興野々村の庄屋新次郎が町會所へ来るというので、役人衆と出かけて行った。

小嶋と中見の沢田儀右衛門は、御用につき吉田へ帰っていった。

 中間村についた安藤義太夫は、陣頭指揮をしている奉行の徳弘弘人に会った。

「我が藩の百姓どもの強訴で、貴藩の領地に踏み入ったのは誠に申し訳ない。お詫びのしようが御座らん。百姓どもの願書が出ていないようなので、今一度早く願い事を出して帰村するように説得いたす」といって八幡河原に向かった。

 安藤は途中で駕籠を降りた。田んぼから歩いて河原へ向かった。雨の中を駕籠で駆けつけたのでは、申し訳ないと思ったのであろう。

 河原に行くと、百姓どもが(また吉田陣屋の重役が見物に来たぞ)と囃し立てた。

それでも安藤は、百姓の数十名を呼び寄せて胸の内を吐露した。

「先月の山奥組の歎願は聞き入れ、紙方役所は廃止した。しかしその他の願い事は藩の窮乏でやむを得ぬ処置となったが、すべては巳共の不徳の致すところで陳謝する。

だが、皆が宗家に越訴に及んでは、江戸にいる殿様村芳公に申し訳が立たない。早急に歎願書を出し裁許を受け、各々の家に帰り農事に励んではくれぬか」

 この話を聞いていた百姓のひとり武左衛門は、(ご家老はお家のことばかり考えているが、百姓衆の生活が立ちいくことが、お家安泰になるのではないか)と不満に思ったが口には出さなかった。

 武左衛門は、そろそろ潮時だと思った。吉田藩の重役が河原にやってきて帰村を呼びかけている。百姓衆も疲労困窮で闘争意欲が減退している。早く藩への要求を纏めなければいけない。

 武左衛門は、河原の集会場所へ帰りながら、家老安藤の心内を推し図った。あの真剣な眼差しに嘘はない、あの人物なら改革を出来るのではないだろうか……。

 安藤義太夫継明は、堤の上で櫻田監物と尾田隼人宛てに書状をしたため、静かに煙草を四五服吸った。それから、かねて用意していた挟箱より白無垢の小袖と麻裃に着替えて、家来の定右衛門に、「心して介錯せよ」と命じて割腹した。

 この時、安藤四十七歳、覚悟の切腹だった。この騒動が長引くと公儀に聞こえ、お家断絶になるやも知れない。江戸の若き藩主や恩のある宇和島藩主の村候様に会わす顔がない。一命をもってこの事態を収拾できればこれに勝るものはない。……と決心したのであろう。

 そのような家老の崇高な精神に考えが及ばない役人たちは、安藤の切腹に右往左往していた。

 変事を知った奉行の横田茂右衛門は、御郡渡一人を河原へやり、養生所を借り受けるよう指図した。吉田から帰っていた奉行小嶋源太夫は、宗家の徳弘弘人と面談し、安藤の切腹は病死として処置するよう話が決まった。

 作之進は横田の指示で河原に行った。すでに並河順安という町医師が伏見屋から頼まれ川縁の養生所に来ていた。作之進は、来る途中で中老鈴村弥兵衛の家来に出会い、「ご養生はお控えなされよ」といわれた。これは変な話だと小嶋源太夫へ伺うと、

「徳弘殿と申し合わせのことである。医師も参っているので早く養生にかけよ」といって町宿に帰ってしまった。

 だが、並河順安は、「この様なご変病はお墨付が無くては療治に掛かれませぬ」というので、御郡方の與次右衛門、作右衛門を養生所に残し、伏見屋へ帰り相談することになった。帰り路、順安は作之進に、「安藤殿は立派に往生された」とすでに手の施し様はないと告げた。

 伏見屋で小嶋源太夫順安から安藤の死を知り、作之進に河原へ戻って亡骸の始末をするようにいった。作之進が河原に戻ると、すでに宇和島藩の検視役と中老鈴村弥兵衛が来ていた。亡骸を田んぼに残した伏見屋の粗末な駕籠に納めた。

 作之進は、家老の大小の刀も改まり、白無垢も御持参していたので、覚悟の上の切腹と推察した。

だが安藤様は、なぜ格式の高い家老用の駕籠を使わなかったか、その心底を計り知れなかった。また小嶋源太夫殿は、家老のご遺体を伏見屋の駕籠に戻し、病死に見せかけ様としたのはどういう訳なのか……)春雨の中で作之進は、暫く考え込んでいた。

 安藤義太夫は、百姓衆の前で腹を切った。吉田藩の役人が、家老は病死といっても、それは隠し通せるものではなかった。

 安藤の熱き血は、水嵩の増えた須賀川をくだり、宇和島藩家老・山家清兵衛を祀る和霊神社の下を通り宇和海に流れていった。

 後に、安藤義太夫の忠誠心に感動した人たちは詩歌を手向けた。

  ながれても後をぞさそな願ふらん身は河水の泡ときへても

  あは雪と身は消えゆきて一国をかためし名こそ世々に朽ちせず

  惜しからず花はちりての操かな

 この日の夜半、村目付の二関古吉は、家老安藤義太夫切腹を伝えるために江戸表へ出立した。

f:id:oogatasen:20180322145913j:plain

安藤義太夫忠死の碑(2018.3.22 宇和島市伊吹町で撮影)

 

 

西国の伊達騒動 18

吉田藩紙騒動 (11)八幡河原へ集結

 二月十二日、ついに百姓一揆の群れは、宇和島藩領に流れ込んだ。

三間に来ていた目付の久徳半左衛門は、この事態に急いで吉田藩陣屋へ帰った。

 郡奉行・小嶋源太夫は、中見の沢田儀右衛門を従え宇和島へ向かった。その後から、草履取りなどの下役や、陣屋近くの河内、白浦等の庄屋連中もぞろぞろ付いて行った。 

 もう一人の郡奉行・横田茂右衛門は部下の兵頭敬蔵らと山奥組などが足止めを食っている近永村近辺の清延村に引き返した。

 武座衛門が近永で踏みとどまっている時に、三間の幾之助から、

(我々は宇和島に出る、早々に合流するように)と伝言が届いた。

 武座衛門は、山奥、川筋の願書を代官友岡に差し出しながら、楮・紙すき農民の苦境を訴え、豪商・法華津屋の強欲ぶりを批判した。また三間郷に集まった同志と行動を共にするため宇和島に向かいたいと申し出た。

 友岡栄治は、すでに吉田藩が紙新法を廃止したこと、三間の集団が窓峠を越えたことを知っていた。近永に集まった百姓衆が吉野川筋の村なども含め、千人ほどに達していたのでこの勢いは止めることは出来ないと判断した。

 しかし友岡は、宇和島藩の吟味役鹿村覚右衛門らと協議し、百姓どもを一旦、出目村まで引き下がるように申し付けた。

 やがて友岡は、吉田藩奉行の横田を呼び、

「我らは百姓どもの願書を預かっているが、今から宇和島へ向う。よって貴殿は後から百姓どもに奈良通りを宇和島へ出るよう指図されたし」といった。

 横田は、友岡が他藩の領民を宇和島に誘引することに不信感を抱いたが、百姓どもの勢いを止めるすべもなく友岡の指示に従った。

 武座衛門は、近永あたりで足止めになったが、代官友岡の思惑により宇和島への道が開けていた。

 武座衛門は、これまでの動きを振りかえっていた。

(申し次ぎは吉田藩八十三か村に届いている。飛び地の浦方も宇和島番所を通って集まるだろう。三間に集結した仲間はすでに窓峠から光満村に入っている頃だ。幾之介には八幡河原で合流することを伝えている。三間、近永、浦方の三方から一揆勢は、八幡河原を目指している)

須賀川を下りながら、この闘争は半ば成功したと思った。

 一方で、作之進は宮野下に残っていたが、奉行横田から宇和島に参るように言われたため、一旦、吉田陣屋町へ戻った。家で休んでいる暇はない、すぐに髪月代を直し郡奉行所へ必要書類を取りに行った。書類をまとめるのに時間がかかったが、夜九つ(午前0時)雨の中を出発した。

 横堀番所から町人町へ出て様子を見たが、法華津屋の主人たちは大洲藩の方へ避難したらしく店はひっそりしている。知永に出て大浦通りを夜通しで歩いて宇和島に向かった。十一日朝から降り出した雨は、十二日深夜には大雨となった。不休不眠の日々であるが、今が一番大事な時だと気合を入れた。

作之進は、普段、居酒屋で飲んだくれていたが、事件があると俄然張り切った。

 明けて十三日、一揆勢は次々と八幡河原に集まってきたが、五千人ほどに膨らんだ群衆は、ずぶ濡れになって寒さと空腹に耐えながら草むらに佇んでいた。

 これを見かねた宇和島藩の豪商たちが、河原に大釜をすえ粥の調達をした。

 当時の宇和島藩主は、五代目伊達村候で名君と讃えられ、特に農政に力をいれ農政改革、農業振興を図った。吉田騒動の時、村候は江戸詰めで息子の村壽(むらなが)に藩の治世を任せていた。村壽は、父親譲りの人徳家で、吉田藩の百姓衆が雨に打たれているのを見て居れず、雨露をしのぐ苫を出し仮小屋をしつらえた。更に米俵を運ばせ粥を食べさせた。

 八幡河原は多くの百姓で一杯になり、八幡神社の大イブキの周りや軒下で雨露をしのいだ。このイブキは、大昔、伊予守源義経が家来に植樹させたものである。

 作之進は宇和島に詰めていたが、百姓どもは宇和島藩に訴えるといっており、取りつく島がなかった。吉田藩の目付、郡奉行、代官、庄屋は日々、八幡河原へ行って百姓どもの様子を窺ったが、どうすることも出来なかった。

 宇和島藩の役人は、八幡河原の近くにある中間村庄屋所で、近永村代官の友岡栄治が受取った願書を吟味中であった。

 御郡奉行の徳弘弘人は、友岡の差し出す願書を見ながら、

「これは山奥組、川筋の願書ではないか。吉田藩全体の願書はどうなっているのか」と役人どもに聞いた。

 すると吟味役の鹿村覚右衛門は、

「各村の百姓どもに願書を出し速やかに帰村するように申し付けましたが、百姓どもは吉田藩の全村が揃ってから、歎願書を提出すると申しています」と説明をした。

 一方で伊予吉田藩は、藩主の不在中に百姓一揆が起き大騒ぎになっていた。筆頭家老の飯淵庄左衛門は病気で臥せっており、急遽、次席家老の尾田隼人が八幡河原に乗り込んで行った。

部下の役人たちを群衆の中にいれて、

(ご家老がお見えである。願いの筋あれば申し出よ)というと、百姓どもは、

(吉田の役人には用がない、吉田に用があればここに来るわけがない)と誰も相手にしなかった。それでも役人たちは、数か村の百姓どもを尾田の前に連れてきて、このまま帰村すればお咎めはないなどと説得を試みたが、効果はなかった。

 中見役の作之進は雨の降る中、河原で三間郷の連中から噂話を聞いた。それは、

(今後は年貢を宇和島に納めるようになる)と言いふらす者が居るとのことで、それが歎願書に付け加えられるというのである。

 作之進は、昔、上司から吉田藩分知の話を聞いたことがあるが、それにはいろいろと複雑な事情があり分らないことが多かった。

 宇和島藩祖の伊達秀宗は最晩年、五男の宗純に三万石を分け与えた。

 吉田藩設立には秀宗の末弟、伊達兵部が絡んでいるというが、そもそも十万石級の大名が分知するには、せいぜい一、二万石が適当といわれるが、なぜか秀宗の遺言状に(宗純に三万石を分知せよ)と明記されていた。

 そのために、米所の三間郷に、山奥・川筋地区、立間郷(吉田)と、浦方の飛び地を加え三万石をひねり出した。

 その結果、宇和島藩は、宇和海沿岸部から土佐藩近くの山奥まで領地の中央部分を分断して吉田藩へ分知することになった。

 西国の伊達二藩は、お互いに目と鼻の先にあるが、幕藩体制で参勤交代にはそれぞれ莫大な費用がかかった。

 二藩は海を渡るのに千石級の御座船を建造した。殿様たちは、船団を率いて鉦や太鼓を叩き、舟歌を唄い賑やかに出港したという。御座船は宇和海、瀬戸内海を航海、十日から二十日をかけて大坂へ着いた。その後、東海道大名行列し十五日程で江戸表に到着した。

これら大移動の莫大な経費もさることながら、江戸詰めする藩邸の出費も相当なものだった。このコストが伊達二藩の領民の年貢などで賄われている。

 近世において、宇和島、吉田の百姓一揆の数が異常に多かったのも、このような西国伊達藩のいわば二重経費に遠因が有るかも知れない。

 幕藩体制も寛政年間になると各藩は財政難となり、幕府の老中松平定信は、質素倹約を奨励し「寛政の改革」を行った。

 吉田藩は慢性的な財政難に対処するため、紙などに専売制を導入し、百姓衆から過度に年貢を徴収した。

だが、我慢の限界を超えた百姓衆はとうとう一揆を起こした。

 作之進は、吉田藩の百姓どもが宇和島藩に越訴、逃散を企てていることに懸念を示した。宇和島藩はこの機に乗じて、米所の三間郷を取り戻すことも考えられる。

一揆を扇動する誰かが宇和島藩と結託しているかも知れない。この度の騒動は余りにも手際が良い。これだけの群衆を集めて百姓どもは何を歎願するのか……)

f:id:oogatasen:20180322144743j:plain
f:id:oogatasen:20180322145507j:plain
八幡神社のいぶき     八幡河原(2018.3.22ブロガー撮影)