西国の伊達騒動 17

吉田藩紙騒動 (10) 一揆勢が宇和島

 宮野下村に集結した一揆勢のリーダーは、吉田郷や浦方へ誘い出しのため仲間を十人ほど走らせた。

 吉田藩お膝元の立間村、喜佐方村、立間尻や浦方の俵津浦(現明浜町)、白浦、南君、浅川、鶴間などの百姓衆や漁民らが、(それー行くぞ―)と家を飛び出した。

武左衛門らが企てた百姓一揆の申し次ぎは、吉田藩の津々浦々まで伝わっていた。

 奉行の横田茂右衛門は、各村の住職たちを呼び、百姓どもの取り鎮めを頼んだ。三間郷では宮野下の白業寺など六つの寺や、俵津浦の地蔵院の和尚が動員された。

和尚たちは、多くの百姓衆が蜂起したことに驚き狼狽した。

しかし檀家の百姓衆を止めないと、村に罪人が出て大変なことになる。

 和尚たちは、地元の百姓衆に、

(願書を出せば藩に聞き届けてもらうように図るのでここで留まってくれ)というと、

 百姓衆は(紙方新御法は取消し、紙役所を廃止する。一揆の頭取を詮索しない)この二点が通れば、ここに留まるというので、寺側はこの旨を奉行の横田に伝えた。

 横田は、紙役所のことは一存では決められないと、村目付の二関古吉を吉田表に向かわせた。陣屋に着いた二関は、目付・郡奉行に百姓共の願いは、新御法の廃止であると説明した。直ぐに目付久徳半左エ門と郡奉行小嶋源太夫は、重鎮に報告し重役会議が開かれた。

 末席家老の安藤義太夫継明は、この騒動に困惑していた。安藤は宇和島藩主伊達村候(むらとき)の推挙で家老の列に加わった偉才だった。

去る一月の紙すき百姓衆の願書を評議した折、安藤は重税と紙新法に困窮する農民の要求を無視できないと藩政改革を主張した。一方で中老・郷六恵左衛門ら多くの重役は万事従来通りということで、百姓衆の願いは叶わなかった。

 だが早馬で次々と一揆勃発の報せが入ると、(これは一大事だ!)と紙役所の廃止云々はいって居れなくなった。安藤は紙方新御法を取りやめ、直ぐに目付、奉行を宮野下に差し向けるように家老たちへ建言した。

しかし百姓の強訴で新御法を廃止すると藩の威厳を損なう等、中々結論が出なかった。

 この様子を御坊主から聞いた郡奉行の小嶋源太夫は、

(そもそも紙方新御法の発令は郡奉行に何も知らされていなかった。横田茂右衛門が取り鎮めることが出来ないのに、巳どもが今更出張っていっても仕方がない)と席を立って帰って行った。安藤は、御坊主に直ぐ小嶋を呼び戻すよう指示をした。

「児島殿、ただいま新御法の取りやめが決まった。すべてを貴殿に任すので三間に行ってくれ」と安藤は申し付けた。

 早速、久徳半左エ門と小嶋源太夫は、馬で宮野下に行き紙方新御法の廃止を和尚らに伝えた。十一日の夜、この話を聞いた各寺の和尚たちは、早く百姓衆に、(願いがかなった)と伝えねばならない。

しかし百姓衆は、夜分に光満(現宇和島市)方面に出たという報せがあった。近永で留まっている連中にも伝える必要があるが、結局、藩の回答は一揆勢に届かなかった。

 作之進は、宮野下に戻って顔見知りの百姓衆に、

「徒党を組んでの狼藉は大罪だぞ」と説得したが、百姓共は、啞(おし)のように黙って一言もいわず見向きもしなかった。さらに近寄れば、田畑の中へ避けて通るというありさまだった。

 作之進は一揆の主謀者とされている武左衛門を知らない。一揆を企んだ者が、山奥の百姓であれば紙仕法が緩和されたばかりである。あえて騒動を起こすことはないのではと、作之進は思った。

(では山奥の主謀者を此処まで駆り立てているのは何故であろうか)

 作之進は一揆の狙いは何であるか推し量った。

=山奥組のリーダーは、吉田藩すべての百姓衆を一揆に動員するために、申し次ぎを各村に伝え行動を開始した。穀倉地帯・三間郷の百姓衆や、吉田近郊の村々、また飛び地となっている浦方などの同志は一斉に蜂起した。

これは相当前から準備して、八三カ村の総意に基づいて一揆を起こしたのであろう。

すると寺側が聞いた願い事は、山奥組の不満のみで、吉田藩の目付・奉行が紙役所を廃止すると言っても、これでは一揆が収まるわけはない。もっと年貢のことなど深刻な要求があるのではないか?=

 百姓衆は、昨夜から三間郷の宮野下で決起集会を開いていた。吉田や浦方の連中は、七曲峠や十本松峠を越え、村名を書いたむしろ旗を掲げて続々と集まってきた。

連中は酒の勢いもあって、日頃の鬱憤を晴らすためか、やりたい放題となり収拾がつかなくなった。

「吉田役人はうそつきじゃ、灯燈を見よ、あの通りじゃ宇和島へ行って根を抜け狸坊主にばかされな」と大声で囃し立てた。

 三間郷のリーダー国遠村の幾之助と沢松村の藤六は、山奥、川筋の同志と宮野下で合流する段取りだったが、二千人以上集まった群衆をここに留めるのは難しいと思った。

このうえは山奥組の連中を待って居れない、このまま宇和島になだれ込むしかない。

リーダーの幾之助は、「わしらは今から窓峠(まどんとう)を越えて宇和島に向かう!」と群衆に呼びかけた。

 如月の寒い雨が降る中、宮野下に終結した一揆勢は、三島神社一揆の願いが成就するよう祈願し、大縄などを残して、宇和島に向け出立した。とうとう吉田藩の百姓たちは、となりの宇和島藩に越訴となった。

 翌十二日明六つ過ぎ(午前六時)、吉田藩の小嶋ら二奉行は宮野下にて申し渡しをする手筈になっていたが、一揆勢はすでに宇和島に向かっていた。吉田藩発足以来、最悪の事態に役人や僧侶らはなすすべがなく呆然としていた。

 作之進はこの展開に、(やはり百姓どもの狙いは宇和島藩への直訴か、近永村で待機している別動隊もいずれ宇和島に向かうだろう)と事の重大さを改めて感じた。

 作之進は、大規模な百姓一揆に拡大する気配に、六年前の土居式部騒動のことが記憶に蘇った。

(あの時に一揆未遂の原因を突き止めるべきだった)

 三島神社宮司の土居式部は、藩の強硬な追及にも頑として口を割らなかった。

寛政年間、江戸幕府は十一代将軍・徳川家斉の治世で、吉田藩主は、六代目の伊達村芳だったが、殿様は、江戸生まれ江戸育ちの弱冠十六歳だった。

 まだお国入りをしていない藩主は、遠い伊予吉田の領地で吉田藩の存亡に係わる大騒動が起きているとは知る由もなかった。

 

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武座衛門か?

 

西国の伊達騒動 16


吉田藩紙騒動 (9)一揆のゆくえ

(ブログ、「西国の伊達騒動」吉田藩紙騒動を再開する)

2020年4月から中断していたブログを始めます。伊予吉田藩百姓一揆の勃発からその後のストーリーを創作するのに随分と時間がかかりました。2019年11月の頸椎の手術、コロナ禍と執筆意欲をなくしていましたが、百姓一揆の結末をみないとブログが中途半端になると思い、私なりに書きあげました。

 

 鈴木作之進は、十日夜五つ過(午後八時)頃に、出目村に着いた。

早速、興野々川原へ行った所、すでに代官の平井多右衛門が到着していた。

平井は、

「百姓共は、一旦は願いを差出すべき様子だったが、大声ばかりあげて立ち去った」

と怒っていた。願いが差し出されば、一揆の首謀者が分かると考えていたのである。

 だが多勢の百姓どもは代官平井のいう事など聞かず川筋を下って行った。作之進は、代官が出動しても、一揆の流れを止めることが出来ないのであれば、相当な人数が蜂起したものと恐れを感じた。

 その後、平井は部下を連れ百姓どもの後を追って川を下って行ったが、作之進は興野々川原で待機していると山奥組や川筋の庄屋が次々にやって来た。

庄屋のひとりが言った。

(山奥組の百姓衆は、自分で拵えた大縄を氏神様の社に掛けて引き倒し、‶願望成就して帰村の後はすぐに建立なし奉らん”と申して祈願していた。百姓衆の数はがいなもんで、竹やり、鎌、鍬を持って、とてもわしらの言うことは聞くものではない)

庄屋共は、恐る恐る百姓共の後を追いかけてゆく情けない姿だった。

 作之進は、百姓共が何処へ向かっているのか、見当がついていた。

(大縄を拵えて吉田に押寄せ、法華津屋を打ち壊すと噂を流す者がいるが、そういう大それたことはやらないだろう……)

 一方、奉行の横田茂右衛門は、一揆勢が宇和島藩に訴えることに危惧し、一揆の先手に向かい、

(願い事が有るなら今すぐに申し出ろ)と諭すように言ったが、多勢に無勢で百姓共の耳には入らず、奉行は、部下に先立つ者を捕縛するように命じた。

しかし、暴徒化した百姓共に逆に追い返され、這う這うの体で出目庄屋所に逃げ込んだ。暫くすると出目の役人が、奥ノ川・蕨生が怪しいと報せるので、横田は、出目に戻っていた作之進に吉野村へ行くように指示した。

 だが、作之進が庄屋と吉野村へ着いたときは、至って静かで人の気配がない。村役人が奥ノ川・蕨生から戻ってきたが、二つの村も静かで何事もないという。

作之進はやはり百姓共は、山奥組、川筋組と申し合わせて既に、三間方面まで達しているのではと推測した。

 十一日の夜明けになり、出目村より使者がきた。

(既に一揆勢は三間へ出立しました)

 これを聞いた作之進は、

「案の定だ、これは連中にかく乱された。直ぐに出目に向かうぞ」と云って出目村に戻ったが、一揆のほとんどは、すでに宇和島藩の近永村へ達していた。他の者たちは吉田藩領の三間郷方面に向かったという。

 近永村は出目村の隣にあり、交通の要所で以前は吉田藩領だったが、宇和島藩に領地替えとなり代官所が置かれていた。

作之進が近永村に着いた時に、代官の平井多右衛門は、

「山奥組が宇和島藩・近永村の代官友岡栄治に願書を出すのではないか」

と心配したが、作之進は、宇和島藩の領地に一揆勢が安々と入れたことに疑念を抱いた。

平井多右衛門は、山奥組が川筋衆と合流し大勢で宇和島藩領の近永村へ向かうのを止めようがなかった。蜂起した百姓共の勢いには、どうすることも出来なかったのである。

 一揆の主謀者、上大野村の武左衛門は、集結場所としている三間郷に入るには、宇和島藩近永村を通らなければならない。当初は、吉田表の法華津屋を襲撃すると檄を飛ばしたが、それは勢いをつけるためで、実は別の考えがあった。

武左衛門は、近永を通過する許可を代官に願い、百姓らが蜂起した事情を宇和島藩に訴えようと考えた。

宇和島藩の代官友岡栄治は、吉田藩の百姓衆が騒いでいる情報は早くから知っていた。近永村に乱入した一揆勢に向かって、

「徒党を組んで我が領地に侵入するとは尋常の沙汰ではない。願い事があるのであれば一揆の頭領は、その旨を申出るがよい」と言い放った。

武左衛門は、正直に一揆の闘争方針を説明した。

「我らは吉田藩に願いがあり三間の宮野下に向かっています。何卒、ここを通してもらいたい。願書は、八十三か村の総意をもって藩に出すつもりでおります」と頭を下げ、そっと代官の顔色を伺った。

 代官友岡栄治は、武左衛門を見て中々話が分かる男と思い、山奥組、川筋分の願い事でもよいから書付を出すようにと申し付けた。

友岡栄治は、一揆勢の書付を待つために吉田藩の平井多右衛門と近くの酒屋に入った。

友岡は平井に、(他藩ながら百姓共の振舞いは捨ててはおけない、詳しい事情を聴かせ願いたい)というと、平井は、

(我が藩は天明の飢饉、町内の大火事、幕府の普請等で藩の財政が苦しく、領民への年貢が増え、百姓共の不満が爆発したものと思う。しかし昨年暮れには、紙の規制を緩め、紙漉きの農民は静かになっていたが、今年になって又蒸し返してきた)

と苦々しく吉田藩の内情を漏らした。

 しかし友岡は、山奥川筋の紙すき百姓だけの騒動ではなく、この一揆は、吉田藩全体の百姓衆の怒りとみていた。

 武左衛門は、山奥川筋分の願書をどうするか頭をひねった。(三間郷にはまだ吉田の百姓や、浦方の連中が集まっていないだろう。ここは時間稼ぎで近永にしばし留まろう)と、友岡の許しを得て一揆勢を吉田藩領の国遠、清延辺りに分散させて一夜を明かした。

 一方の作之進は、方々に出向いたが、十一日昼九つ時分(十二時)に三間郷の宮野下村へ入っていた。

 三間郷は土地が広大で、武左衛門と別の一揆勢は三手に別れて、三間の百姓衆と合流し各村を一揆に駆り立てた。どこの村も松明を振り立て、竹貝を吹き鳴らし、鉄砲を打ち雄たけびを上げていた。中には暴徒と化し法華津屋の出店の酒樽を持ち出し酒を飲み、肴を食い荒らした。

 三間郷は、広大な穀倉地帯で、米、大豆の生産地である。村も三十カ村あり、吉田藩年貢の大半は三間郷が担っている。村の中心は「三島神社」の下にある宮野下村である。六年前の天明七年に起きた土居式部騒動で、神主の式部は連綿と続いた名門土居家を断絶させた。

一揆勢はその因縁のある三島神社に結集して鬨の声を上げた。

 

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 (3年前、同級会で帰省の折、三間町三嶋神社に参る)

ブログ再開 『日本の海のレジェンドたち』

1年ぶりのブログです。

 この期間中に『日本の海のレジェンドたち』という本で、トランパー「山下亀三郎」の評伝を書きました。一般財団法人山縣記念財団の創立80周年記念出版で海事産業に貢献した先人たちの評伝集です。

 山縣記念財団は1940年に辰馬汽船の援助で財団が設立されました。

辰馬汽船のルーツは、1662年創業の辰馬本家酒造で、灘の生一本「白鹿」を醸造しました。辰馬本家はこの酒を「樽廻船」で江戸まで運びました。

 亀三郎は昭和初期に、第13代当主の辰馬吉左衛門に特注の清酒「天下の白鹿」を頼み、門外不出の贈答用としました。今の「天下の春」の原型でしょうか。

 亀三郎の山下汽船と辰馬汽船は大正の大戦バブルで巨万の富を得ました。辰馬汽船は新日本汽船と社名が変わり、1964年の海運再編で「山下新日本汽船」に集約されます。

 本書では、亀三郎は海事産業の発展に寄与したレジェンドとして大正の三大船成金として位置づけられています。ブロガーは『トランパー』の筋書きに沿って書きました。 

 評伝集の執筆者は、大学教授、学芸員、海事研究家など錚々たる方たちで、小生は、評伝という大それたことは申せませんが、郷土の偉人の足跡を自分流で書きました。

この財団の創設者・山縣勝見は、戦後、GHQの統制で外航船が国外に就航できない時に、吉田茂内閣の下で日本の海運を国際社会に復帰させます。

この本は2020年に出る予定がコロナ禍で大幅に遅れました。今月12日、海文堂出版㈱から書店販売され、ネット書店でも扱っております。お代は¥2,500です。

 この本に協力してもらった方々に贈ると嬉しい返信が届きました。地元白井の読書家にも見てもらい喜んでもらいました。

 さて、「西国の伊達騒動」は永の中断でしたが、そろそろ続きをアップしたいと思いますので、よろしくお願いいたします。

 ついでに申し上げると、この1年間に某新聞社の〇〇賞に応募する為、小説を執筆しておりました。山下亀三郎のストーリーですが15万字の長編です。12月結果発表ですが、難関突破を夢見ております。

 いつまでも「吉田三傑」を追いかける老もの書きです。

 

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撮影:木野本かな子氏FBより引用

輝かし染井吉野に亀三郎 (しげる句)

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郷古達也財団理事長のFBより引用



ブログ終了

気ままにブログを書いてきましたが

コロナ対策の為、暫し休みとします。

長きにわたりご芳情ありがとうございました。

 

                                                      The End

 

追記

本ブログ再開まで下記のブログを

見て頂ければ幸甚です 

トランパーいいかも

 

西国の伊達騒動 15

吉田藩紙騒動 (8)武左衛門

  近世において百姓一揆の発生件数は、全国で三二〇〇件あったが、伊予国(えひめ)は一五五件あり第四位の上位である。中でも南予地方は宇和島藩六五、大洲藩一九、吉田藩一五と何故か集中して多い。

 インターネットを検索していると、『南予史探訪』・内ノ子一揆を紹介している(じゅんのつぶやき)というブログを見つけた。ブロガーはすでに亡くなっておられるが、娘さんの意向でブログはそのまま残っている。

 莫大な数の更新記録があるが、カテゴリー(愛媛の歴史)から貴重な記録を引用させて頂きます。

 この方は宇和町のご出身で、寛延三年(一七五〇)に大洲藩で起こった内ノ子一揆を紹介している。

 この内ノ子一揆は、四十三年後に起きた武左衛門一揆に影響を与えたという。

 この一揆は、喜多郡の小田郷薄木村の農民が起こした騒動が発端となった。

 村の農民が、年貢の重さと村役人の横暴に立ち上がり、たちまち喜多・浮穴の農民一万八千人は、内子・山中地区の庄屋・豊農・豊商を打ち壊し内ノ子河原に集結した。

 この時、農民たちは、村々の庄屋・組頭・特権商人宅などと大綱などを用いて次々と引き倒しながら大洲城下を目指した。

 農民たちは、年貢の四割免除、農民による公役の減免、年貢徴収時の計りの不正使用の廃止、悪質な村役人の排除など二十九ヶ条を要求した。

 大洲藩では、支藩新谷藩の調停を受け入れ、一揆が起こって八日目には農民の要求をほとんど認めるという回答を、新谷藩を通じて農民に伝えた。

 内ノ子一揆は、発生から十一日目には一揆の指導者への処罰を不問にさせるという交渉をし、それを大洲藩に受け入れさせた。

 だが、一揆指導者の処分を不問にするという約束は一ヵ月後に破られ、一揆後、小田筋の村々で十四、五人が召し捕られ、拷問の末に入牢や追放、閉居の刑に処せられたという記録が残っている。

 このブロガーは、吉田藩の武左衛門一揆にも触れており、

「武左衛門と共に捕縛された者の中に、大洲藩出身のものが二名居たといいます。それを綿密に研究なさった方がいます。その当時は他の藩に移動することなど出来なかった時代です。それでも、大洲藩の出身者が一揆の指導者の中に入っていたという事実。これが、四十三年前に起こった大洲藩の内ノ子一揆とを結びつける鍵です」

と記述されている。

**

 さて、話を吉田騒動に戻すと、

 一揆の首領・武左衛門は、吉田藩の家老など権力者が、御用商人らと癒着する悪政に憤慨していた。年々百姓衆が困窮するのを見て、自らが身を挺して救済をしなければと決意した。

 しかし、七年前の土居式部事件の失敗も有り、内密に信頼のおける同志を見つけることに専念した。

 武左衛門は三年に亘って吉田藩の山奥、川筋、三間盆地の山間部から、吉田陣屋に近い立間、喜佐方、白浦、はたまた海浜部の飛び地、津々浦々まで八十三ヶ村を回り、意思の固い農民二十四名を集めた。 

 藩内の百姓全てを実力行使に参加さすために、入念な準備をしたのである。

 武左衛門は、集団蜂起のタイミングを計っていた。

 藩の苛斂誅求に対し、度々の租税減免の願いも空しく、いよいよ百姓衆の鬱気も最高潮に達していた。

 武左衛門は、機まさに熟したと、遂に立ち上がり各村の同志に檄を飛ばした。

(我等は法華津屋ら奸悪な商人の為に餓死寸前まで追い込められた。早くやつらをぶっ倒して、自活の道を開かねばならん、皆一同起て!)

 戸祇御前山に狼煙が上がったのは十日朝である。狼煙は事前の打ち合わせで川筋、三間、立間へリレーされた。立間の山から上がった狼煙は、海岸端の漁村に一揆決行が伝わった。

 二月九日の夜、戸祇御前山に集結していた百姓は、日向谷(現日吉)・高野子(現城川町)の奥へ廻り申次の通りに村々の皆を誘い出した。

 十日昼頃、山奥十ヵ村から屯集した百姓衆は、鉄砲を放ち法螺貝を吹き、鬨の声を上げた。その道筋で、

(大声を出せ!出さなければ戻って礼をするぞ!)

と示威運動を開始した。

 一揆集団は、(法華津屋を打ち壊せ!)と、麻苧の中に神社の護符、女の髪の毛を綯いこんだ大縄を携え、村の名を書いたムシロ旗を押立て、一気に広見川を下った。

 各村では、武左衛門の見込んだ同士共が手筈通りに行動した。

 興野々村・彦右衛門、延川村・清蔵、国遠村・幾之助、沢松村・藤六、兼近村・金之進、六右衛門、上川原渕村・與吉が、武左衛門の指示通りに百姓衆を束ねて気勢を上げていた。

 一揆の連中は、途中で各自が持ってきた大綱を、大木や大岩に引っかけ引き倒した。勇気付けに茶碗酒をあおり大声を発した。夜になると松明を振りかざし時々銃声も発した。

 大勢の百姓が山から下りる姿は、まるで大蛇がくねくねと身をよじっている異様な光景であった。

 一方の作之進は、これまでの一連の動きから一揆勃発の恐れがあると感じていた。

 二月九日夜、川上村の庄屋清左衛門は、百姓共の急変を見て手下の者に、代官岩下萬右衛門へ急ぎ報せた。しかし代官は病気で、中見の鈴木作之進へすぐに申し越すようにと言われた。

 その一報を聞いた作之進は、来るべきものが来たと、奉行所へ急いだ。

 作之進は、一揆の連中は出目村に集結すると読んでいた。出目は山奥組、川筋と吉野、奥野川などが合流する要の場所である。

 郡奉行の役人は急な事で狼狽したが、取り急ぎ代官・平井多右衛門、星名善左衛門、江口圓左衛門、二関古吉、鈴木作左衛門は次々と出郷した。岩下萬右衛門は病気につき出郷出来なかった。

 奉行・横田茂右衛門、簡野伊兵衛、中見助敬蔵、御郡渡の四人も急に出立した。

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(2018.3.22日吉にて、蜂起する百姓と紙の原料ミツマタの花)

 

 

西国の伊達騒動 14

吉田藩紙騒動 (7)一揆の始まり

 紙方役所の岡っ引き、提灯屋栄蔵は新法の下で、やりたい放題だった。その手下に遍路や乞食のように変装させ、百姓共の家へ改めと言って押し入り、どさくさに紛れて盗みを働いた。

 作之進は、昨年十二月二十一日に延川村で、夜中松明を振立て鉄砲を放って鹿狩りのように暴れている手下どもを見た。

(これは何事だ、周りを威圧するような大声を上げ、目に余る仕業ではないか)と郡奉行所につぶさに報告した。

 札付きの栄蔵は、百姓の憎みが多く、役所は栄蔵に吉田から出ないように申し渡した。しかし何かの間違いで栄蔵は出郷し、吉田に戻らなかった。 

 目付の江口円左衛門は井川御用廻りの折、山奥組に栄蔵がいなくなった事をそれとなく伝えた。村は別に何もない様子なので二月九日吉田に帰った。

 しかし悪い事は重なるもので、正月二十三日、紙方役所の中見役格、吟右衛門が、紙漉き村へ出向いて、紙は藩が残らずお買い上げすると申し渡した。吟右衛門は御測長柄組の足軽だったが、最近紙役所に取り立てられた。この男が喋ったのは、代官や作之進が百姓共に申渡した内容と違うので、益々百姓共の役人に対する不安がつのることになった。

 さて、吉田藩の山奥組は土佐藩と隣接している。日向谷村からひと山超えると土佐の梼原村である。梼原は土佐のチベットといわれたが、高知市から西に四十キロ程の距離である。千メートル級の高研山が国境の山である。

 梼原から多くの幕末の志士が輩出された。天誅組の首領格だった吉村寅太郎も庄屋の出である。

 彼の坂本龍馬土佐藩郷士で脱藩の折、この梼原を経由して伊予に入った。所謂「脱藩のみち」の名所である。

 作家・司馬遼太郎は「歴史上、梼原は僻地とは言えない。むしろ室町初期までは土佐を代表していた」と語っている。

 この地を領有していたのは梼原を開墾した津野氏で、室町中期の当主は津野孫次郎で、戦国時代は土佐守護代細川氏、土佐幡多郡一条家から攻められ、遂に戦国末期には長宗我部元親に滅ぼされたという。

 宝暦五年(一七五五)梼原の近くで起こった「津野山一揆」は伊予吉田藩紙騒動の先鞭をつけたものではないだろうか。

 この騒動の原因は、藩と御用商人が組んで木材、紙、鰹節などを専売制にして藩が金儲けをする。まるで吉田騒動と同じ構図である。農民の副業である紙や茶の利益を横取りする藩に、村々の百姓が怒り一揆が企てられた。

 土佐藩は商品ごとに問屋を指定した。吉田藩が行った楮の入山と同じで、藩はその問屋から運上金をとり御用商人に寄生する。商人は農民を支配し農民のくらしは凄惨なものになった。

 高知城下の通町に店を持つ御用商人の蔵屋利左衛門は、藩から津野山八ヵ村の商品買付け権と販売権を任され、侍分の資格が与えられていた。吉田藩の法華津屋のようなものである。

 蔵屋は、楮など山の産物を買い叩き百姓共を苦しませた。百姓共は蔵屋の専売権を停止してほしいと藩に訴えた。藩はこれを無視、むしろ百姓を弾圧した。これも吉田騒動と全く同じである。

 ここに梼原村の庄屋、中平善之丞が登場する。命を捨てる覚悟で一揆の中に入り百姓衆を指導した。

 時に高知城下に、

――津野山の一揆が城下まで押し寄せて蔵屋を襲撃する。

という噂が立った。

 藩は、先手を打って足軽隊を出して善之丞を捕縛した。その他二十数人が縛に付いたが善之丞が罪は自分一人にあると言い張り、彼らは釈放された。

 津野山一揆はムシロ旗を押し立てたのではなく、農民たちが幾度も寄り合い、いっそ幕府に直訴するか、他藩へ逃散するか談合を重ねていたのである。

これも吉田藩の土居式部の一揆未遂事件と似ている。

 所が土佐藩は、中平善之丞を密かに殺すようなことはせず、蔵屋利左衛門と公式に対決させた。

 善之丞はいちいち実証をあげ、蔵屋の暴利と私欲を糾弾した。弁解に窮した利左衛門はこれによって死罪となった。

 善之丞も法を破って一揆を集合させた罪で斬首の刑に処せられた。

 善之丞が刑死した日は風が強かった。やがて暴風雨となり地震が起こり津波まで伴なった。地元の人々はこれを善之丞のたたりとして「善之丞時化」と呼んだ。

(参考文献:司馬遼太郎. 街道をゆく 27 因幡伯耆のみち、檮原街道 ) 

 この事件の四十年後に吉田騒動が起きる。

 事件の発端は楮生産地、紙漉き村がある吉田藩の山奥組。

隣国土佐藩で起きた「津野山一揆」の梼原村までわずか十数キロの非常に近い所で発生している。しかも、藩、御用商人、百姓と登場人物もそっくりである。

 伊予吉田藩を揺るがす百姓一揆の首謀者は、土佐藩で起きた百姓一揆を真似たものか、はたまた土佐から吉田藩山奥に移り住んだ者が企てたものなのか220年経った今でも断定されていない。

 吉田藩上大野村に武左衛門という百姓が住んでいた。

 この男が、リーダーとなって一揆を主導した。これがいろいろな史実から定説とされている。しかし、この男の人と成り、事件の背景が明らかにされていない。

 上大野村は山奥組に属して現在の鬼北町日吉である。土佐に最も近いのは日向谷村で父野川、下鍵山村、上大野村などが土佐と行き来していた。

 日向谷からは高研山を越え梼原に、紙の原料の楮、三椏を運んでいた。

 この地に、土佐和紙の祖といわれた紙漉きの名人新之丞という職人が居た。

 彼は山伏の格好をして四国行脚の旅に出たが、土佐で病に倒れた。新之丞は長宗我部一族に助けられたが、そのお礼に抄紙法の秘法を伝え、更に一族らと共同で七色紙の製造に成功した。

 だが、理不尽な事件が起きる。新之丞が日向谷へ帰る途中、仁淀川を見下ろす仏ヶ峠で一族に斬殺された。土佐紙の起源となる七色紙の秘法が外に漏れるのを防ぐためだった。

 戦国時代とはいえ、藩の利益を守るため、隣国伊予の新之丞が犠牲になるとは惨い。紙の村、日向谷にはこの様な悲話が残っている。

 明治二十二年、父野川・上大野・下鍵山・上鍵山・日向谷の五ヶ村が合併して日吉村が誕生した。初代村長の井谷生命は上大野の武左衛門について古文書や村の故老からの聞き取り調査をもとに大正六年、『嗚呼武左衛門翁及宇和史ノ概要』を発行した。

 武左衛門は日吉の義農として崇敬顕彰されている。

 寛政五年二月九日夕刻、戸祇御前山に集結した百姓六、七十名は、父野川方面へ乗り出した。いよいよ百姓一揆の始まりである。

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      (日吉夢産地にて 2018.3.22撮影) 

 

 

 

 

西国の伊達騒動 13

 


 吉田藩紙騒動 (6)百姓願い事

 十一月の御仕法が発令されて以降、十二月四日に紙方役所は、紙の運搬方法など細則を出した。さらに楮の値段を決め、役人が出向いたときの賄事を定めた。

 だが、百姓衆を激怒させたのは、役所が御小人組の栄蔵など数名を用い、紙漉き村の抜け売などを厳しく捜索させ、その手下に忍びの者を使い、盗人のよう百姓の家に立ち入れさせたことだった。

 栄蔵という男は、元土佐者との噂であるが、吉田裡町の職人長屋で提灯張をやっていた。最近は上方から、安い紙で作られた安価の提灯に押され商売を止めていた。

 今度の御仕法で、何故か紙役人から声が掛かり、長屋の浪人や無頼の者を引連れ、役所に召し抱えられていた。

 ***

 さて、これまで紙騒動のネタを延々と書いてきたが、いよいよ、伊予吉田藩三万石を揺るがす大事件が勃発する。

 寛政四年師走半ばに、鈴木作之進が山奥組へ出向いたのは、紙漉き百姓共の不穏な動きを確かめるためだった。

 山から帰った作之進と入れ違いに、代官・岩下萬右衛門が部下を引連れ吉田を発った。二十一日より三間の音地村で様子を探り、更に広見川の川筋村から山奥組の村へ入った。

 二十六日、在目付江口円左衛門と渡り方の二人も音地村へ出向いた。

 もう一人の代官・平井多右衛門は、代渡り方と足軽二人を従い、内深田村を捜索して川筋へ入った。在目付助役の二関古吉は足軽二人と出立した。

 吉田陣屋町の者は、郡奉行所から二人の代官や多くの藩士が次々に出立するのを見て、何事が起ったのかと、役人たちの姿を心配げに見送った。

 二十九日夜半過ぎ、山奥の川上村で警戒する岩下萬右衛門から書状が到来した。それによると、

(正月元日に、百姓共一統は出立すると、延川とどろへ申し次ぐ者がある、直に作之進は山奥へ参るよう)との仰せである。

作之進は、

(まさか、元旦に事を起こすとはどうしたことか)

と驚いたが、急いで大晦日早朝に出発した。

 平井多右衛門、二関古吉は報告の為一旦、二十六日に吉田へ帰ったが、その外の足軽たちは村々に残った。

 川上村へ到着した作之進に、岩下萬右衛門は、

「昨夜川上村の者を入念に取り調べたが、利根酒屋より上には申し次ぎを聞いたものはいない。川下も同様に知らないという、申し次ぎは噂かもしれない」

と、語ったが、作之進は多くの役人が長逗留しているので、百姓共はじっと息を潜めていると思った。

 結局、山奥は何の異変もなく静かな大晦日となり元旦を迎えた。しかし作之進は警戒のため暫く止宿せざるを得なかった。

 年が明け寛政五年の元日、作之進は、庄屋らとの挨拶もそこそこに上鍵山村の光徳院へ行った。修験者が何か情報をもっていると思いこの村に止宿した。

 作之進は、この山で修行する山伏から耳寄りな話を聞いた。

 山奥組は上大野村、下鍵山村、上鍵山村、父野川村、日向谷村、高野子村など十カ村がある。

 山伏は、修行でそれらの山村を通るが、百姓共がなにやら藁を打って大綱を作っている。それも端には輪っか、一方は節として拵えている物を見たという。

(どうも村人の様子がおかしい、鎌や斧を持って何か事を始めようとしている。これに従わないものは家を焼き払う、打ち壊すと申し合わせているようだ)

と山伏は作之進にそっと耳打ちした。

 作之進は、以前山に来たときは平穏だったが、この話を聞いてやはり一揆の噂は本当だったのかと、山奥の急変に驚いた。

 五日、三間川之内村の庄屋勇左衛門が、慌てた様子で内深田村へ来た。

 集まっている各村の庄屋に語ったのは、

(百姓衆から願い事があると聞いたので、早く願書を出せと申したら何処からもその申し出がない)

これは何かあると思って相談に来たのだという。

 内深田村の庄屋竹葉蔵之進は、この村に来ている代官の平井多右衛門へ、この情報を早急に知らせた。

 翌六日、平井多右衛門よりの書状が作之進へ届いた。それによると、

(六日明け六つ時、百姓共は山越にて山奥より奥野川へ出立すると小頭権蔵へ知らせた者があり、作之進は川筋通りを見張るように)と書かれている。

 作之進は、一揆の動きが方々で聞かれるので、何とかして首謀者を見つけたかった。日頃声をかけている百姓も知らぬ存ぜぬで、糠に釘、取りつく島がない。

 作之進が、川筋通りを探索している時、「ちょんがり」という門付け芸人が、この度の様な悪説を門々に語り歩いている情報を得た。

 このちょんがりは、虚説を流している土佐者かどうか分らぬが、作之進はこの男を早々に村から出るよう部下へ指図した。

 七日朝六つ時、中見役敬蔵の書状が、代官岩下、中見鈴木の居る小松村へ届いた。

 それは、郡奉行の小島源太夫、目付の簡野伊兵衛が三間音地村にきて、山奥組の百姓共の願い事を聞くという内容だった。

 鈴木作之進は、奉行が直々に百姓共の願いを聞くとは、事の重大性に改めて気を引き締めた。

 奉行らは、庄屋衆から百姓共の願い事を聞き、後日、沙汰すると申渡し吉田に帰って行った。

 早速、藩で評議が始まったが、家老の面々は山奥組、川筋の百姓の不穏の動きを奉行から聞いて知っている。騒動が起きることは避けたいと考えていた。

 特に、末席家老の安藤義太夫は、百姓共の度重なる陳情を奉行らから聞いており、疲弊した百姓共の民力休養が必要と力説した。

 しかし重役の中には、今まで百姓共が法華津屋と売買したのは商売上の取引で罪とはならぬ、紙役人の厳しい処置は各々の職責を全うしたまで、年貢についても今になって堪えられぬ道理はない、という強硬論もあり評議は難航した。

 だが、本当に百姓一揆が起ればお家の大事となる、宇和島藩に吸収される口実をつけることになる。ここは、百姓共の願いに譲歩するしかないとの結論が出た。

 正月二十三日、代官岩下萬右衛門、目付補佐二関古吉、中見鈴木作之進、下代その外数名が申渡しのため吉田を発った。

代官は百姓共へ概ね次のような回答を申し伝えた。

・楮紙の他所売り、値段も自由にやってよい。

・紙買町人(法華津屋)は指定商人「入山」から引離す。

・楮元金は藩から拝借できる。

・紙買町人は多人数に申し付ける。

 更に願書の数か条、つまり大豆の値段、大豆乾欠、米の計量方などについては、改めて回答する旨申し伝えた。

 二十六日、二関古吉と作之進は川筋へ向かい百姓共に、数か条の願いは相立たず、万事従前通りと申し伝えた。

 藩はこの時期になって、紙に関しては御仕法を緩めたが、肝心の年貢については改めなかった。これでは百姓共の怒りは収まらず、いよいよ緊迫感を深めていった。

 

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(武左衛門一揆記念館・2018.3.22撮影)