西国の伊達騒動 3

 天明の土居式部騒動(1)

 これからは小説風に……、

 寛政四年(一七九二)の冬は寒い日が続いた。師走で町人町の本町、魚棚界隈は賑わっていた。 

 鈴木作之進は、横堀の居酒屋「宮長」で熱燗をちびりちびりとやっていた。中見役の作之進は、吉田藩の領内を見廻り、庄屋ら村役人を指導し、領内の治安に当る役人である。

 吉田藩の領地は、宇和海の入り江に陣屋があるが、その中心部から東の山間部へ細長く広がっている。元々は宇和島藩の領地だった山奥組と呼ばれる地区は、日向谷(ひゅうがい)村、上大野村など数か村が点在し、山を越えた隣村は土佐藩領地である。

 日向谷村は、今の愛媛県北宇和郡鬼北町日吉にあり、吉田藩陣屋から十数里は離れており、千メートル級の山々が迫る山峡の地である。

 作之進は、山奥組の百姓らの動きが怪しいという情報があり、一人で偵察して帰って来たばかりだった。

 師走の山間部は吉田表よりずっと寒い。真っすぐ家に帰る気がしない。現代のサラリーマンと同じで、どこかで一杯やらなきゃ身が持たない。

 冷えた体を熱燗の酒で温めながら、作之進は、

(この騒ぎは昔のあの事件と似ているな……)

と記憶をたどっていた。

 話は七年前にさかのぼるが、鈴木作之進はある騒動に係わった。

 その頃は、近世最大といわれる天明の大飢饉が起こり、全国的に打ちこわしなど百姓一揆が頻発していた。

 吉田藩でも飢饉の影響が残る天明七年に「土居式部騒動」と呼ばれる一揆未遂事件が発生した。

 その年、吉田藩三間郷の者が宗家の宇和島藩に越訴するという噂が、代官の耳に入った。早速、作之進は奉行から内々で探るよう申し付けられた。三間郷は、百三十年前に宇和島藩から吉田藩に領地替えになっていた。

 吉田陣屋から三間盆地まで行くには吉田街道という十本松峠を越えるルートと吉田立間村から七曲り峠を越えて三間則村に抜けるルートが有る。

 宇和海の潮の香りがする陣屋町から東の山奥へ入るには四、五里ばかり、人馬がやっと通れる細い道を越えてゆく。

 十本松峠は、吉田湾や陣屋町が望める風光明媚な所で、右手には法華津の山々が青く霞んでみえる。三間郷から吉田へは年貢米など、吉田の魚棚からは魚介類などを運ぶ人馬の往来が盛んであった。

 六月九日夕七つ(午後四時)過ぎ、作之進は馬に乗って吉田立間村から三間村へ向かった。

 七曲り峠まで来た時に、三間務田の顔見知りに出くわした。

この男は長患いをしていると聞いていたが、作之進は、

「どうだ体の具合は、まあ無理はするなよ。少ないがちくわ代にでも致せ、」

と見舞いの小銭を渡した。この男は三間村で何かあればそっと耳打ちしてくれるはずだが、噂のことは知らない様子だった。                                                                    

(先ずは戸雁村庄屋の久右衛門へ参ってみよう)

と庄屋の屋敷に向かった。

作之進は、夕刻久右衛門宅へ着き用向きを話した。

「川筋に用があって参ったが、今晩一宿願いたい」

「何か火急の用事でしょうか?」

と久右衛門が尋ねると、

「実は、三島神社宮司の土居式部に、内々で相談したい事があるのだが、誰かひそかに知らせてもらいたいのだが」

と作之進が言うと、

「何事か存じませんが、すぐ使いをやりましょう」

久右衛門は、ただ事ではないと思った。

 間もなく先方に話が通じて、作之進は宮野下にある三島神社の土居式部方へ参った。神社の本殿までは階段が百段はある。辺りは大分暗くなっており、麓には常夜燈がぼんやり灯っていた。

 宮司の家には見慣れぬ客が一人居たが、式部に内密の話があると言うと、別の部屋へ案内された。作之進は、初めて聞いたようなフリをして、

「今日は三間元宗の満徳寺へ用事があって参った。馬に乗って七曲り峠から入ったが、馬の口取りが聞き捨てならぬことを申した」

と式部に言った。

 口取りは、このように喋った。

(きのう山奥組へ駄賃を取りに行ったところ、三間の者が、何か訴えたいことがあり、宇和島に願い出ると言っていましたぜ)

 作之進は、吉田藩領の三間の百姓が申合わせて、宗藩の宇和島藩に直訴ということは正気の沙汰ではない。越訴は天下の大罪になると大げさに、

「様子次第では長逗留になるが、もしも似たような噂などあればお聞かせ願いたい。さもなければ、百姓たちに探りを入れてもらいたいのだが……」

と式部の顔色を伺いながら言った。

すると式部は、他人事の様に言った。

「口取りが言っている話は、噂で聞いておる。宇和島方へ何か願い出ると言うのは、川筋から村々へ伝わって、浦方にまで聞こえているそうだ。立間村の者は百姓が騒いでいると申している」

作之進は、

「左様であれば今夜でも、話の分かる者を集めて聞いてもらいたい」

と式部に伝え、今夜は庄屋の隠居久右衛門方に一宿するので、様子が分かれば何時でも知らせるようにと頼んだ。

「なあに、ご安心なされよ、取り締まりで来たのではない」

と付け加えて神社を去った。

 作之進が戸雁村に戻った所、久右衛門は面屋へ留守番に来ていた。早速、これまでの話をした所、久右衛門は、

「左様な相談であれば、樽屋與兵衛を呼んで内々で尋ねてみよう」

と隠居は、庄屋の與兵衛へ人をやった。しかし詳しいことは何も聞き出せなかった。また式部からも何の返事もなかった。

 

f:id:oogatasen:20180507120907j:plain
f:id:oogatasen:20180507120948j:plain

宇和島市三間町三嶋神社 2018.5.7ブロガー撮影) 

西国の伊達騒動  2

伊予吉田藩の起こり

 西国もう一つの伊達家、伊予吉田藩は、宇和島藩初代藩主の伊達秀宗が、五男宗純に三万石を分知したのが始まりである。

 宇和島に入部して四十年が過ぎた明暦三年(一六五七)歳老いた秀宗は、徳川幕府御朱印のもと、溺愛する息子宗純に宇和島十万石の内から三万石を分け与えるという大盤振る舞いをした。

これが百数十年後に起こる「吉田騒動」のタネになるとは知る由もない。

 宗純は、父親から宇和島藩領三間郷の豊穣な米処や、和紙の原料である楮(こうぞ)、三椏(みつまた)が採れる山奥に加え、宇和海の豊富な水産物に恵まれた海辺など優良地を与えられた。

伊予吉田藩「御引渡覚」によると、本高三万七石六斗八升、物成一万六千六百十一石四斗、浦分二十九浦、里分五十二か村と記されている。

 分知された領地は、宇和島藩と共有する飛び地もあり、その後両藩の境界をめぐる紛争は絶えなかった。 

 伊予吉田藩は初代宗純から九代宗敬まで二百十五年間藩政を布いたが、その間に藩を揺るがす大事件が寛政五年(一七九三)に起こった。

 寛政年間と云えば、江戸幕府が開かれて百九十年が過ぎて明治維新まで約七十年、江戸後期に差し掛かっていた頃、吉田藩主は五代目伊達村賢(むらやす)、六代目伊達村芳(むらよし)の時代だった。

 この大事件は「吉田騒動」や「武左衛門一揆」といわれる百姓一揆で、藩が御用商人と組んだ紙の専売制が、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)に苦しむ山奥組と呼ばれる山間部の百姓らに負担を強いるものとなり一気に領民たちの怒りを爆発させた。

 だが、背景には三万石分知に絡む宗家宇和島藩の思惑が見え隠れする。元禄九年(一六九六)に七万石が十万石に高直しになったといえ、宇和島十万石の格式を保つために財政難は永年の課題であった。

 吉田藩は、この騒動を穏便に鎮めなければならない。事が大きくなれば江戸幕府に聞こえ、お家の改易か、さもなければ宇和島藩に吸収されかねない。

 この事件に係わる公式文書が、何故か宇和島市や吉田町にはない。町の歴史文献は伝聞や言い伝えで、吉田藩の下級武士鈴木作之進が書き留めていた「庫外禁止録」や、元組頭宅屏風の下張りから発見された文書が史料として残っているだけである。

 藩の危機存亡に吉田藩士はどう立ち向かったのか、史実、伝聞を参考に事件を辿った。

中見役鈴木作之進という男 

 鈴木作之進は、伊予吉田藩奉行所の中見役だった。

 郡奉行所は郡目付を兼ね、領内の行政に当っていた。奉行の下に代官、在目付、郷目付、中見、井川方があり、庄屋は村浦の治安に努めていた。

 伊予吉田藩は街の中央に「横堀」という運河を造り南北を区切った。北の山の手は武家が住む家中町、南は町人町という町割りになっている。北側の石城山麓に殿様が住む陣屋を造り、国安川で家中町と仕切られた。

 町人町の水際には水軍基地の港を造り、参勤交代の御座船を繋いだ。町の東西には山が迫り、三万石の中心部はごく小さな陣屋町だった。

そもそも分知前は、宇和海の潮が入る葦(よし)の原だったが、周りの山を削り湿地帯を埋め立てた。

(思いがけずの新田が出来た 出来た新田に蔵がたつ)

と唄われ「吉田(よしだ)」と命名された。 

 鈴木作之進の住んでいる所は、家中町の本丁を上った突き当り桜馬場の近くにある中見屋敷である。奉行所は国安川の橋を渡った所で、喜佐方村へつながる潮入り水門の上にあった。

 

f:id:oogatasen:20140921175337j:plain

吉田町「横堀」桜橋の向こう側が家中町、手前が町人町

     (ブロガー2016.9.21撮影)

西国の伊達騒動 1


 (はじめに)

 ブロガーの故郷(愛媛県宇和島市)には、伊達宇和島藩と伊達伊予吉田藩の家老を祭神とした神社がある。

 両藩二人の家老は、お家騒動で非業の死を遂げたが、今でも「和霊神社」「安藤神社」として郷里の人々から崇められている。

 我がふるさと伊予吉田藩で寛政年間に起きた「吉田紙騒動」は、家老の安藤継明が切腹して伊達家を護った。

 ブロガーは、伊予吉田藩の中見役・鈴木作之進が遺した「庫外禁止録」という古文書を入手した。これは、お家騒動を下級武士の目から見た事件簿で、興味深く読んだ。

 本日より、今まで書きまとめていた拙文を、ブログにアップする。長編になりますが興味ある方は覗いてください。

 

西国に伊達二藩あり

  昔、西国伊予には二つの伊達藩があった。宇和島藩伊予吉田藩である。

 そもそも伊達家のルーツは東北奥州であるが、遠い西国にも伊達家が存在するのは、戦国武将伊達政宗の思惑が絡んでいた。  

 独眼竜・政宗は幾多の戦いを勝抜き、仙台藩の初代藩主となるが、世は豊臣秀吉の天下だった。政宗は戦国の天下取りレースに大きく出遅れた。

 政宗には、猫御前と云われた側室の子、兵五郎がいた。幼少にして秀吉の人質として差し出され、京都聚楽第大坂城で過ごした。やがて元服すると秀吉から「秀宗」の名を授かり、秀吉の子秀頼の御側小姓となった。だが、戦国の世は少年秀宗に安住の地を与えなかった。

 秀吉亡き後、関ヶ原の戦い石田三成の人質となり、宇喜多秀家のもとに預けられた。やがて徳川家康が天下を取り、秀宗は江戸で暮らすことになる。しかも父政宗は、正室愛姫の子、忠宗を仙台藩二代目としたため、秀宗の将来は暗然たるものだった。

 政宗は、長男秀宗を政略の具としたが、何とかして一国一城の主にしたいと考えていた。

 慶長十九年(一六一四)大坂冬の陣で、政宗は秀宗を戦場に立たせた。秀宗は大坂城を囲む徳川軍勢の中にいたが、目の前の大坂城には幼友達の秀頼が居り、後方の茶臼山には総大将の家康が陣取っている。幼友達は敵味方に分かれて戦うが、その後和議が成立し、彼らは安堵の胸をなでおろした。

 第二代将軍の徳川秀忠は、冬の陣の戦功で、秀宗を西国宇和島の地に十万石の所領を与えた。

秀宗は小藩の主となるが、遠い異国のような宇和島へゆく彼の胸中は如何ばかりであったろう。

 慶長二十年春、政宗は西下する息子に、選りすぐりの家臣五十七騎を与えた。秀宗ら主従を乗せた「南渡丸」は尼崎を出帆、やがて伊予長浜に着いた。

 伊予へ上陸した伊達軍団は、四国山地を縫い大洲、宇和盆地を通り宇和海を望む法華津峠に立った。宇和島城下まであとわずか、秀宗は遥か彼方に浮かぶ日振島を見て、 

(ああ、あれが海賊、藤原純友夢の跡か……)

と呟き眼下に広がる宇和海の絶景に暫し時を忘れた。

 今は昔、西暦九三〇年頃、平安貴族の藤原純友は、瀬戸内海で海賊を退治する役目だったが、反乱を起こし自らが海賊となった。華の京都を捨て、宇和島日振島を拠点に、西国の大海原で海賊となった。純友はさんざん暴れ回ったが、遂には鎮圧軍に敗れ、南海の藻屑と消えた。

 秀宗は、逆賊となって死んだ純友の無念と、西国に落ちてゆく我が身の不運を重ねて宇和島入部を前に漫然としていた。

 ……後年、父政宗は秀宗に和歌を送った。

『曇りなき心の月を先立てて浮世の闇を照らしてぞゆく』

 これに息子秀宗は返歌として、

駿河なる富士の高嶺の雪消えて田子の浦輪にすめる月影』

と詠んだ。

 この年、大坂夏の陣で、憐れ秀頼は母淀殿と共に自害した。花も実もある二十一歳の青年だった。

 秀宗は、宇和島に入部早々で、豊臣家の滅亡に係わらなかったことが、せめてもの救いだった。

 幼友達にとって、花よ蝶よと過ごした大坂の日々は、太閤秀吉が云う“浪速のことも夢のまた夢”であった。 

 これが、宇和島藩十万石の始まりで、伊達秀宗が藩祖である。

 

f:id:oogatasen:20140921161327j:plain

宇和島城にてブロガー自撮り(2014.9.21)

 

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(8)最終回

 明月は波に沈まず昭和16年7月1日)

 

 亀三郎翁は(若き人の為に)と題し、昭和15年を中心に口述しているが、最後の章が、昭和16年7月1日となっている。

 時代は太平洋戦争の直前で、6月には汪兆銘(精衛)が来日し、高輪の山下邸にも来て政府要人を交えて会食している。

前年には亀三郎は、重慶から逃れた汪を自船「北光丸」でハノイから上海に移送しており、汪はその恩に対し感謝を表明した。

亀三郎は刎頸の友秋山真之と共に、中国の革命家・孫文を重要な人物と見込んでいた。孫文が病死して、その遺志を継いだのが汪兆銘だった。

 亀三郎翁は、今後の日支関係はどうなるか。独英の戦争に米国が何時参戦するのか、独逸が英国に上陸作戦を開始する時かその前か?独逸はソビエトに戦争を仕掛けたが、日本はソビエトに対して如何にするのか、全世界的に問題は混乱してきたと危惧していた。

 翁曰く、「我々の大なる禁物は、無暗と取越し苦労をして行き詰った考えをする事で有る。私は茲に於て断言したい。我が日本としても、又我らに関する仕事の範囲に於いても、決して行き詰るなどという事はないと確信して居る。それは何故かと云えば、日本が支那に対しても、英米に対しても、独ソに対しても、蘭印、印度支那其の他に対しても、決して横紙破りの事を考えて居ない。支那に対する聖戦は何事を物語っているか。蘭印に対しては如何なる筋合に於て要求して居るか。日独伊の枢軸はどうして出来たのか。凡て天地に恥じない正道を踏んで居る。

 そして我等は、海運、石炭、造船、築港、植林、皆一つとして国家の基礎工事たらざるなき筋合の仕事に励み、少しも私心を差し挟んで居ないのである。

 天は結論に於て正しきものを佑け、自然は必ずや正しきに終わるものと思って居るから、この断言をなすのである。汪主席が今日在る所以から云ってみても、百万の兵を有する蒋介石に対して、一兵を有せざる汪氏が互角の相撲を取り、而して我が日本朝野の支援を得るに至ったことも、その思慮が東亜全面平和に対する正しき発心から起こったからであると思う。

 私は、もう十日もすれば例年の如く軽井沢ドック入りをする時期に到達するから、その数日間各方面の識者に対して問いを発して見たが、部分的にはいろいろ懸念すべき事実もある。

憂国の士としては、国を憂うる部分のあることも尤もだと思うが、我等は、農夫が田畑を耕し、職工がその職に働くが如く、国家の事業の或る部面に働いて居るものであるから、政治家として国を憂うる人などなど思考行動を共にすることは絶対禁物で、種々なる取越し苦労を避けて、運命は天に任せ、最善の努力をしたいと思う」

 ***

 亀三郎翁は、『沈みつ浮きつ』の自序に「近衛女史が、私の気合をよく呑み込んで、或いは会社に或いは高輪の宅に、或いは夏の軽井沢に、冬の熱海に、よく私に協力して下さった事を感謝したい。若し女史の巧みな誘い出しがなかったならば、私はこの半分も記憶を辿ることは出来なかったであろうと思う」と昭和18年1月30日、湘南大磯野荘にて著者と、書いている。

 

 

f:id:oogatasen:20160427162137j:plain
f:id:oogatasen:20160427162357j:plain
f:id:oogatasen:20160427142607j:plain

愛媛県立吉田高等学校の「吉田三傑資料室」には

『沈みつ浮きつ』(昭和18年発行)の本が陳列されている。 

中央は徳富蘇峰の直筆(2016.4月撮影)

 

 

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(7)

 慌ただしかった此の一年

昭和15年12月21、24日)

  亀三郎翁は慌ただしい昭和15年を辿っていた。2月には台湾へ旅行し、3月末に吉田町に帰省、7月から9月まで軽井沢に移住し、10月に入って上海、南京を旅した。東京には150日しかいなかったが、朝から晩まで電話にかかっているか、人を訪ねたり、会ったりして、会社の用事を聞いている時間がなかった。

「自分はガチャガチャした性質だから別に何も思わないが、他から見て実に可笑しく見える事だろうと思う。来年は、今年以上に変化の多い年ではないかと思われるから、余程気をつけねばなるまい。

 新体制、翼賛会、会社経理令、何々国策会社、何々条例等々、之を批評する者から云えば中々極端な言を為す人もあるが、我々は批評家の側でもなく、議論する側でもないので、政府の命令には服従して働いている。若し批政ありとせば、大なる政治家が出て来て之を矯正して、眞に国民が心服するように指導するのを俟つよりほか仕方ないと思って居る。石の上にも三年という諺があるが、この諺をよく玩味して行くことである」と語っている。

 翁は、近衛文麿内閣の新閣僚、平沼騏一郎内相就任について、新体制で行き過ぎた事を矯正される人事は、近衛公の大達観と評している。

昭和16年、17年は余程困難を覚悟しなければならない年だと思うと共に、一方には非常な面白味もあると思う。風浪怒涛は海上だけの専有物ではない。陸上にも濃霧も有れば風浪怒涛もある。これと闘って後、初めて天気晴朗な時の爽快なる味を嘗めることが出来るのである。

 各関係会社の諸君の多幸なる新年を迎えられることを祈って、御同様来年は一層緊張して働きたいものだと思う。26日の夜はもう一度神戸に行き、28日には例年の吉例たる伊勢大神宮を参拝して、大神楽を上げて諸君の健康を祈ろうと思って居る」と口述した。

 ***

 昭和15年は日本の行方を決める重要な年だった。日独伊三国同盟が締結され、日本軍の南進が決定し、国民の生活物資の配給制が始まった。1月阿部信行(陸軍)内閣が総辞職、米内光政(海軍)内閣成立、7月第2次近衛内閣成立、東条英機陸相になる。

 この年、亀三郎翁は、社内の反対を押し切って陸海軍に1千万円を献金した。 

 海事研究家の住田正一が、昭和16年、第一公論社から出版した「聞くもの見るもの」には、亀三郎翁のことが多く取り上げられている。住田は大正6年、神戸の鈴木商店に入社した。大番頭・金子直吉の秘書として、山下汽船に出入りし亀三郎翁と面談したことがあるのだろう。住田は、亀三郎翁が昭和15年、軍に1千万円を寄付した時の感想を聞いている。

 翁曰く、『寄付というものは必ずしも、金を持って居るから出来るというものではない。寧ろ其の時ありたけのものを出すと云う気持ちにならなければ出来ない。

早い話が、僕が1千万円寄付したということは、1千万円しかないという事である、世間の人は山下は1億円の金ができたから、その1割1千万円を出したと考えるかも知れない。然しそれは間違いである。山下は1千万円しかないということである』

 話題は更に転じて

『元来僕は無一文から出発した、それが私の強みであり、身上である。無一文からその上の財産はプラスであるから、それを増やすとか、失うという事に対しては、気楽に考えることが出来る。

 僕は過去五十年の海運生活を考えてみると、幾度か幾度か難局に遭遇した、鉄道自殺をしようかとさえ考えた事がある。だが、其の時も思った、債権者は沢山に押し寄せて来る、然し何の債権者も金を返せとは言うが、事業を止めろとは言わない。だから自分は船舶業を固守し、持ちこたえて来たのである。債権者が事業を止めろとは言わない、金を返せと言うのであるから、死んでは相済まんではないか。

 人間は生死の境に立って、一番大切な事は心の構え方である。自分が無一文から出発したという事が、斯かる場合に於いても最も力強く働くのである。楽に決心することが出来る」と住田に述べている。

 住田はこの本に“貧乏人の強味”と題して翁の事を書いているが、最後にこのように締めくくっている。

――貧乏の家庭に生まれた事が人間として幸福であるという事はしばしば聞く話である。人世の出発点がマイナスであり、それからプラスに歩み出すのであるから努力に張合いがあると云った事があったが、その言葉がよく分るような気がする。

 考えてみると、やはり神様には目こぼしは無いようである。貧乏人には貧乏でなければ分からない幸福の境地が授けられてあるようである。――

f:id:oogatasen:20200208121228j:plain

昭和17年出征兵士を吉田港桟橋で多くの人達が見送っている。

夫、息子を送るのであろうか、婦人の姿が多く見える。

(写真:河野哲夫氏提供)

 

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(6)

 社員の採用方法昭和15年8月28日) 

 亀三郎翁は、明治28年頃、伊藤好三郎、中村定安を最初の小僧として雇った。彼らはその後、山下鉱業の取締役になった。それから窪田操、林武平、大藤友松を採り、船をやるようになって、竹原宗太郎、鋳谷正輔、玉井周吉等を採用した。

 明治43年、神戸支店が出来て初めて大卒を採った。京都大学・末廣教授の推挙で、今西興三郎、内藤正太郎外一名を採用。

 明治45年ロンドンへ初めて社員を置いた。一ツ橋高等商業の高野進で、その頃、同郷の伊東米治郎が郵船会社ロンドン支店長だったので、他社の人間であっても伊東の事を頼んでいたそうである。

 今日こそ(昭和15年頃)毎年、大学、専門学校、甲種商業学校から50人、60人採用するが、明治42,3年頃は、山下が学校出を採ると云っても希望者は少なかった。

 亀三郎翁の採用する信念は、創業以来変わらず、一顔一見主義で、両親があるか無いかを聞き、その父と母を思い浮かべて採否を決する。早いのは2,3分遅くなっても5分で決まる。不採用の人から「よく我等を見もしないで採る採らぬを決める、人を馬鹿にしている」という非難も一向に耳を傾けなかった。

 翁は、「私は書物は眼鏡なしでは一行も読めないけれど、人間を見る目は眼鏡など必要としないつもりだ。学校の成績など、その課目を記憶していたか、いなかったと云うだけの話であって、人間としての神経が間違って居ったら、如何に立派な成績表でも役に立つものではないものと信じて居る」と語っている。

***

 ここに登場する郵船会社ロンドン支店長・伊東米治郎は、宇和島の出身で、亀三郎翁より4歳年上、19歳で上海から米大陸に移り、苦学してミシガン大学を卒業した。その後日本郵船に入社、上海支店長、ロンドン支店長を務め、後年、大社長近藤廉平の後を引き継いで4代目の社長に就任した。

 大正6年京都帝国大学大学院の田中正之輔は、冷やかしで山下汽船を覗いた。就職を紹介した教授の顔を立てるつもりだった。当時の帝大生の半分が総合商社、貿易商を就職先とした。その次が銀行、損保生命だったそうである。亀三郎翁は一眼、田中を見て「君は何時から来るかね」と握手を求めて来たという。

田中はその後、頭角を現しロンドン支店で大戦後の不況時に5隻の船を購入した。しかし、昭和5年(1930)山下を離れ大同海運を設立した。

 吉田町白浦出身の浜田喜佐雄は、大正7年に店童として山下汽船に入社した。田中は店童の教育係りだった。浜田は田中に従い大同海運に移った。(後に、ジャパン近海社長となった。ブロガーを採用してくれた恩人で、母の親戚にあたる)

  時は過ぎ1989年、山下、大同は合従連衡の末にナビックスラインとして再統合される。

f:id:oogatasen:20200207110007p:plain
f:id:oogatasen:20200207110141p:plain

   (田中正之輔と店童時代の浜田喜佐雄 出典:トランパー)

 

「沈みつ浮きつ」若き人の為に(5)

 夏は炎暑と闘ふべし昭和15年8月3日)

 

 亀三郎翁は、冬は熱海で寒さを避け、夏は有馬または軽井沢の避暑地で過ごした。だが、決して働き盛りの人のすることではないという、翁は年老いたこともあるが、避寒を覚え避暑を味わってから、寒暑に耐える抵抗力が非常に薄くなったと嘆いている。

 「現に、今年7月10日に軽井沢に来て以来、その中頃に5、6日間帰京して、よんどころなき用を達したが、その暑さから受ける苦痛の為に、静かにものを考え、静かに筆をとることが出来なかった。今後我々は、南方の熱度に対して大いに計画を立てなくてはならない時に於いて、壮年者は先ず熱に耐ゆるの鍛錬をする必要があると思う。それで、夏は炎暑と闘う、こう言う行き方にしなくてはなるまい」と語っている。

***

 翁は、逗子、須磨、筋(郷里)、小田原、大磯、熱海、玉川、軽井沢に別荘を建てた。

 囲碁・将棋は知らず、ゴルフ、トランプにも一切興味を持たない男は、気持ちの転換を図るため別荘を転々とした。そこで気の合った人と話すのが読書の代わりになり、碁将棋の代用になると言っていた。

 下の写真は孫の山下眞一郎氏から頂いたビデオで、BS11局「経済人バイオグラフィー3枚の写真」から引用した。

 眞一郎氏が3歳の頃、軽井沢の別荘で撮ったもので、亀三郎翁はとてもやさしいお爺さんだったと語っていた。

 

f:id:oogatasen:20151029202127j:plain