吉田名所大観(昭和19年)家中町の絵

  町人町と家中町を分けているのが、横堀川。そこに架かるのが櫻橋と三輪橋である。川の傍に警察署、町役場、朝家罐詰、裁判所とあるが、裁判所があった事は知らない。罐詰工場も愛媛食品と記憶するが、サザエの殻が山盛りに積んでいたことを思い出す。簡野図書館も見えるが今は御殿内に移っている。

 横堀川は潮入り川、満ち引きで河原の遊びが違ってくる。干潮には糸うなぎ採り、シャコ採り、石ころ投げ、草野球、相撲をやり、満ちてくるとサヨリ、ボラが大群で昇ってくる。チヌは引きが強いので興奮して竿を上げてみるとちっさい。小フグも釣れて腹をさすって膨らまし足で潰して遊んでいた。残酷なことをしたものだあ。この川で溺れた事がある、遊びで夢中になり、あっと云う間に潮が満ちて危うく溺死する所だった。今でも思い出すが、必死でもがいていると水面から潜ってくる月光仮面?のお兄さんが現れた。

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 家中町は伊達3万石の武家が住む街で町人町とは趣が違う。昔、石城山の麓に藩主が住む陣屋があった。今では御殿内という、御殿前には山下高等女学校がありその上に県立工業高校がある。山女と工業が統合して吉田高校になった。左奥には蜜柑発祥地の立間、左下の川平は喜佐方地区になり、山下亀三郎が大金を散じた立間喜佐方隧道がある。昨年の豪雨で、立間川と国安川が喜佐方の河内川と合流、簡野道明図書館辺りが氾濫し吉田家中町の殆どが浸水した。同級生が住む御殿内は1階が水に浸かった。

 吉田大観の案内文には「立間川と国安川とで抱かれて居る所が旧武家屋敷でそれ以南は町方所謂三小路三か町お船手組の三段構えである。これ等川々お堤防を點綴する老松は古城跡と相俟って封建の歴史を物語り、城下町の香を濃くする」とある。

 この絵を見ると松の木が多い、魚棚浜通りの松は一部あったがブロガーの幼年期には殆どなくなっていた。国道56号線などの道路整備で切られたのだろうか?昔の面影がない。

  野口雨情の歌

   吉田三万石昔は城下山にゃ黄金の蜜柑畑

   吉田千軒八幡様の秋のまつりは鹿おどり

   武士の鑑は安藤神社末の世までも名は朽ちぬ

吉田名所大観(昭和19年)吉田港、町人町の絵

 5月の同級会に幹事が古い資料を配った。この「吉田名所大観」は吉田町商工会が作った観光鳥瞰図で昭和19年頃の吉田町と思われる。吉田港の港湾設備、船舶が凄い。桟橋が二つある、2本デリックの貨物船が2,3隻が着桟しているのが見える。汽船待合所があるので、貨客船か?宇和島、御荘、宿毛行きと有るので昔は土佐まで定期船が運航されていたということか。吉田町が海運大国だったとはこの絵で分る。小船がたくさん見えるのは魚市場があるからか。宇和蜜柑組合があるので周辺のミカン産地から小舟で運んで貨物船に積み替えるのだろう。港の喧騒が感じられる。

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 知永の先に海水浴場があるがレーターの浜か?左の町人町を見ると、今はない自動車営業所、金光教会、かささぎ楼、闘牛場も画いている。浜通りの雁木がある場所に屋形舟が繋がれている。長栄橋の下をくぐれるのだろうか?

吉田大観に説明文がある「吉田町は由来南海の文化街と称され各種の設備が完備され…交通運輸の途拓け海上阪神瀬戸内海九州土佐方面とも毎日数回汽船の定期便があり。最近竣成したる築港と大桟橋は吉田関門の面目を一新し云々」とある。

 野口雨情はよく吉田に来たという

  こひしよしだへくろのせとうげ

    いくよなみだでこしたやら

 吉井勇

  いそのかみふりしやなみを

    なつかしみよしだのまちに

     いくよねにけむ

と詠んだ。

著書『吉田三傑2019』で感じたこと

 今日は令和元年10月22日「即位礼正殿の儀」が行われ国民の祝日である。即位に伴う祝賀パレードは、台風19号の被害に配慮し延期された。

 早いもので、令和になって半年になろうとしている。

令和の発足に際し5月1日『吉田三傑2019』~吉田町の歴史と文化~を出版した。

代金の一部(500円/冊)とブロガーの地元からの支援金を合せて9月30日宇和島市に豪雨災害義援金として寄付した。

 6月のある日、ブログ本を買って頂いた地元高齢者クラブの大久保氏から手紙を頂戴した。

 内容は、ジュラ紀前(吉田町昔の暮らし)を書かれた三瀬教利氏の事と、『字源』を著した簡野道明物語の事である。

何と、大久保氏は昭和38年大阪大学工学部精密工学科卒業で、三瀬教利氏の5年後輩である。氏の手紙には、三瀬氏は理学部化学科卒業で、当時の大阪大学はタコ足大学と云われていて、理学部・医学部は中之島、工学部は東野田、教養部・文系学部は豊中と方々に散らばっていたと書かれている。

更に手紙には(同窓会誌60周年特集号)の中から“理学部化学科昭和33年卒・同級生交歓”ページのコピーが入っていた。その中に三瀬氏のコメントが載っているので引用させて頂く。

「法・規ではなく、人格重視、自由平等が基本。自由気ままな同級会を重ねるうちに改めて、阪大がまさにその土壌をいろ濃く持っていたことに誇りを感じています」とある。

 大久保氏が感想を述べられている、(三瀬さんは、現役時代武田薬品で数十件もの特許を取られ常務取締役まで登り詰められた超優秀な技術者だったようです。郷里吉田に愛着を持たれ、文章も大変達者な方のようですね)

 もう一つの簡野道明については、原文のままでアップさせて頂きます。

「もう一方の簡野道明さん、このお名前には懐かしい思い出があります。徳之島を離れ鹿児島市内で下宿しながら高校に通い始めた昭和30年の春頃、漢文の授業が始まって漢和辞典が欲しいと思った時本屋で見つけたのが簡野道明著 “字源”(角川書店)でした。同じ頃にこれは発行されたばかりの新国語辞典初版“広辞苑”(岩波書店)と揃いで欲しくて仕方無かったのですが、両方となると殆ど当時の下宿代(遠縁の親戚でしたが)一ヶ月分になるので悩みました。夏休みに島に帰って父親に恐る恐る切り出すと“下宿先が休み中の下宿代を免除してくれるならその分で買っても良い”との事、8月末に鹿児島で下宿の小母さんに伺って一ヶ月分の宿代を免除してもらい早速本屋で2冊同時に手に入れました。まさに嬉しくて天にも登る気分、暫くは寝るときも枕元に2冊並べて置いていました。もっと小ぶりで安い辞典も有った筈なのに調べたり比べたりした記憶もありません」

手紙の最後に、四国伊予吉田の闘牛の話、坂村眞民さんのこと、三瀬さんに簡野道明さん達の事が遥か南の小さな島出身の私にも拘ってくるのですね。これからも4冊目、5冊目の“吉田物語”を期待しています。と記されていた。

 

 ブログ本は200部発行したが、在庫は少なくなった。読後の感想はいろいろな方から寄せらたが、このような有難い評価はありません。流石にインテリの大久保さんです、有難う御座いました。ブロガーにとって『吉田三傑2019』~想いのまま記~を始めるきっかけとなり、3冊目の出版に向けて背中を押された感じです。

 先日、宇和島郷土史家から『明治維新宇和島 宇和島の人物』という本が贈られてきた。山下亀三郎簡野道明の写真もあるが、宇和島には幕末の四賢侯伊達宗城穂積陳重、児島惟謙、井関農機創設者・井関邦三郎等々枚挙にいとまがない。

またブログのネタが現れ休む閑がありません。

 

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土居清良の故郷「三間町」を訪ねる(3)


三間の英雄 土居清良ムービー

清良神社、土居清良廟、龍泉禅寺

  三間町土居中の龍泉禅寺に到着し、傍の高台にある土居清良廟を訪ねた。安岡賢司氏にまた案内してもらった。苔むす坂道を少し登ると真正面に清良公の居城「大森城」が望める。海抜320m程の山の上にあり正月は皆で登り一杯やるそうだ。廟の中には立派な五輪塔が祀られている。

 廟から更に坂を上がると清良神社の裏手に出る。大きな銀杏の傍にお社が建っているが屋根瓦に三つの波の形をした家紋があり、その下に楓の紋がある。お社の上には更に屋根があり二重の造りになっている。清良神社は清良公没後33年に当たる寛文元年(1661)に徳を慕う村民達が祠を建て清良大明神として奉祀したという。

境内に力石があった。清良は子供らに大石を持ち上げさせ体を鍛えあげた。正面に下る階段は一枚石で造られている。眼下には三間の田圃や畑が広がっているが、土居家の末裔も住んでいるそうだ。400年以上も昔、この盆地で大合戦があったとは歴史の大ロマンを感ずる。龍泉禅寺に戻り、きれいに掃除された本堂で特別に清良公の位牌を見せてもらった。法号は「龍泉寺殿前吏部良山常清大居士」とある。

お寺の開け放した部屋から大森城山が見え、いい風が入る。隣は砦の様な尖った山があり松峰城というらしい。

 住職が来られお話を伺ったが、この寺は臨済宗妙心寺派でブロガーの生地吉田町には大乗寺海蔵寺、大楽寺、圓通寺、福厳寺など禅寺が多いとの事。(ここは三間の北海道といわれ涼しいでしょう、冬は雪が中々解けないよ)と中々気さくな和尚さんだった。奥さんは舞踊、詩吟、カラオケと芸達者、10月に吉田公民館で踊りの会が有り、和尚さんは初めて観に行かれると嬉しそうに話された。

和尚さんのお母さんが、昔、修行で夜中に三間から十本松峠を越えて立間の大乗寺まで歩いて行った。仏になってゆけば怖くないと、河野宗寛老師に教えを乞うたという。

 住職夫妻、安岡会長に見送られ、同級生安岡さんのお宅へ向かった。昔、金銅城(かなどうじょう)があった所で裏山に栗の木があり、大きな栗が落ちていた。金銅は予土線名駅の近くである。今回の帰省は雨の予想だったが、晴れ女・委和子さんのお陰で雨が降らず助かった。

 三間町内には四国八十八カ所参りのお寺が二つある。江戸時代は伊予吉田藩の領地で米どころ、日吉、鬼北に繋がる交通の要所だった。著名な版画家・畦地梅太郎、世界の農機具メーカー「井関農機創立者・井関邦三郎を輩出した町である。

 ブロガーは戦国武将「土居清良」を知った事で再び三間に伺ったが、この度の三間見聞は大変有意義で、暖かい人情に触れたいい時間だった。

  三間の郷釣瓶落としや大森城

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土居清良の故郷「三間町」を訪ねる(2)

旧庄屋 毛利家

 

 池本先生宅を後にして三間町是能の「旧庄屋 毛利家」に向かう。パンフレットには15歳で庄屋になった初代甚蔵が七個谷と呼ばれている谷に12年間の歳月をかけて屋敷を造ったとある。

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母屋は宝暦3年(1753)に建てられた。4代源蔵は長屋の煉瓦に毛利紋「一文字三つ星」を配し(我は毛利氏なり)を誇示したようである。

 毛利家は小高い丘にあり、満開のコスモス、曼殊沙華を見ながら屋敷に上がった。「旧庄屋毛利家を守る会」の安岡賢司会長が我々を迎えてくれた。会長の説明を聞き古き茅葺の母屋に入った。最近、茅葺屋根の葺き替えを20年ぶりにボランティアの人達と行ったそうで、修復に大変な仕事をされている。

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 屋敷には池本先生改修のオルガン(明治37年製)がある。池本先生は3年前まで小学生の歌声に合せオルガンで伴奏をされていた。静かな屋敷に子供の歌とオルガンが響き、故郷の感傷に浸る最高のひと時を過ごすそうです。

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 吊るし柿の写真を見ていると母屋に吊るした干し柿が何とも言えない情緒を感じる。昔は何処にでもあった光景だろう。

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 毛利家は8代元彦氏の頃、家屋敷を三間町に寄贈し有形文化財に指定されている。元彦氏は医者で池本先生とは昵懇の間柄、共にクラシック音楽ファンで池本先生と音楽談議に花を咲かせたという。

この屋敷は、尺八、横笛の演奏会などのイベントがあり、結婚式もやるようである。

昔は、吉田藩に年貢を納める為、この庄屋に集合し十本松峠を越えて吉田表に向かった。最近は「十本松峠の整備と復活の会」が立ち上がり歴史を勉強しウオーキングなどの活動をしている。

 納屋ではボランティアの人が昔の農具などを整理していたが、大変な作業である。帰りがけに長屋門近くの植え込みを手入れしている家の方にいろいろ話を伺い、彼岸花に見送られ毛利家を後にした。

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土居清良の故郷「三間町」を訪ねる(1)

恩師・池本先生

 

 9月28日、法事で郷里吉田町に帰省する。

 30日は先ず、宇和島市役所に行き「吉田三傑2019」売上金一部と白井市桜台の高齢者クラブ有志からの義援金を岡原文彰市長に手渡した。翌日の愛媛新聞にはこの模様が、西日本豪雨情報の欄に載っていた。

 この度の道案内は、三間町金銅に住む吉田中学同級生の安岡委和子さん、車の運転も達者である。旦那さんは市議の安岡義一さん。市役所を出て三間に向かった。

 戸雁にお住まいの恩師・池本覚先生を訪ねた。2回目の訪問になるが、89歳の先生はかくしゃくとされており満面の笑みでお迎え頂いた。

先生の部屋に書の額縁が飾ってあり、「千字文」という古文書を書写されたもので1,000字全ての文字が異なっているとのこと、筆は、先生の性格が表れ楷書で綺麗に書かれている。

 池本先生は吉田小学校では音楽を教えられていた。しかし先生は郷土史家で「新宇和島の自然と文化」の編集委員をされ題字も書かれている。先生は、三間町誌、津島町誌を現職中に著作されているが、出身は三島村(広見町)で他の町の歴史関係を依頼されるという事は、如何に教育面で信頼されていたことが窺える。

これから「旧庄屋毛利家」に向かうと告げると、先生は平成14年に書かれた「毛利家の音楽とのかかわり」という冊子を下さった。

 それには毛利元彦先生の愛唱歌「浜辺の歌」の楽譜と歌詞が添えられていた。平成11年元彦先生の一周忌で偲ぶ会の会員に歌詞を配り、「ゆうべ浜辺をもとおれば昔の人ぞ忍ばるる…」私はただひたすらに皆さんの歌唱に合せ、精魂込めてバイオリンを弾かせて頂いた、と記されている。

 池本先生は平成13年元彦先生の奥様から「うちにあるオルガンが古いとのことですから、見てください」と電話があった。早速、毛利邸に伺い明治30年代の古いがっちりとして風格のある丁寧な造りのオルガンに驚いた。先生は細心の注意を払いリードを抜き出し口に当てて息を吸い込んでみるとブーンとやわらかい雅の音を発した。このオルガンは四ストップ付き六十一鍵のヤマハ楽器製だった。オルガンは浜松の修理工場に運ばれ、数か月後明治期の健全なヤマハオルガンとして里帰りした。

 先生から、平成21年11月15日に宇和島市民歴史文化講座「そこどこや」の講演資料を頂いた。「旧庄屋毛利家と土居清良」をテーマに三間町のゆかりの地を訪れるもので、先生が講師となって親切丁寧な資料を基に語られたという。

 その中で先生の書かれた「土居式部大輔清良公年譜」のあとがきには、(清良記を読み切ってみて思われることは、絶妙に冴える土居水也の筆勢が、戦塵に明け暮れた清良公主従一門の二十五年間を生き生きと描き切っていることである。(中略)清良公自身、智勇兼備の名将であるのは勿論の事、外では勇猛果敢に戦場で渡り合う勇士。内に在っては、勧農政策を献じた農学者松浦宗案。祐筆であったろう文学者土居水也など土居主従一門そのものが、智と勇、文と武とのかたまりであったことを如実に物語っている。また、そうあらしめたところに、清良公の偉大さがある。)と記されている。

 また先生は清貧時代に、伊能忠敬が全国を測量し宇和島藩、吉田藩に来訪した時の旅行記を本にされたり、宇和島出身で「護法の神様」と云われた児島惟謙がお母さんに宛てた手紙に先生は感動し本を書いた。

これ等の事で先生は方々から講演の依頼があるという。特に安岡さんは、先生が子供たちにやさしく話される姿に感激している。

 池本先生は「土居清良」を著作した竹葉秀雄氏にお会いしたことがあるそうで、津島町の学校に奉職されていた時に、竹葉氏と同級生だった校長に呼ばれて話をお聞きになったという。

 先生は、もともと音楽の教師なのに何故か歴史文化を研究する文筆家になられた。教え子の中でも先生の話をすると皆がそれをおかしがるが、南予という郷土を愛する優しい先生のポリシーがそうさせるのではなかろうか。

 津島町岩松出身の奥様は新婚時代の話しをされた。奥様は、城下町吉田の街がお気に入りで「横堀食堂」でうなぎを食べた事、大田書店の事、山口肉店で牛肉100グラムを宝物をみる思いで買った事、桜丁の洋品店で生地を買って洋服を作った事など懐かしく語られた。帰りがけ奥様から三間名物「やぶれまんぢう」を頂いた。

 我々は、さようならとお別れを告げて車に乗ったが、いつまでも手を振るご夫妻の姿が印象的だった。池本先生は本当に三間町の宝である、いや日本の宝である。

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池本覺先生の「千字文」(ブロガー撮影)

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毛利家のオルガン(9月30日撮影)

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西日本豪雨義援金を岡原市長に寄付する(家内撮影)

 

 

 

 

 

 

 

戦国武将・土居清良という男 17(完)

 8月6日第1回目のブログアップから始まった「土居清良」伝は漸く終わった。

『清良記』は、土居清良没(寛永6年【1629】)の約20年後、土居一族の末裔で三島神社元神官・土居水也という人が、長い歳月をかけ全30巻を完成させたと伝えられている。

 本書「土居清良」の著者・竹葉秀雄氏は、明治35年三間郷、清良公居城の大森城の麓で生まれた。竹葉氏は昭和10年、34歳の時、『清良記』全巻を通読した感動の余勢を駆って、宇和郡領主・西園寺氏旗下14将第一の知将・土居清良公にフォーカスし本書を書き上げたという。

 

竹葉秀雄氏の事が昭和36年発行『南伊豫の山河と人々』(高橋紅六著)に紹介されている。

 

三間町のページに「勤務評定の草分け・筋金入りの県教育委長 竹葉秀雄氏」という見出しで記されている。

――竹葉氏は愛媛師範を出て暫く教壇に立ったが、やがて安岡正篤の主宰する金鶏学院に入学し精神的鍛練を受け郷里に帰って三間村塾を開らいた。時に昭和十三年三月第二次欧洲大戦の前ぶれともいうべき新体制運動が燎原の火の如く燃えひろがろうとしていた折柄でもあった。天皇帰一の強力国家を作り新しい日本への脱皮に優れた指導者は求めていた。鼠族的政治の壊滅、利潤本位から公益本位への経済機構の転移、これら総力戦のスローガンは全体国家機構の哲則とされ国家社会主義の真随でもあった。

――それを逸早く把握して新日本の注くべき大道を説く青年塾主は、古い伝統と姑息の殻に閉じこもっていた当時としては驚異に値する存在であった。火の如き憂国の熱情と進歩的な思想は忽ち地方の青年を魅了しその教えを乞う人達は全国各地から集まって来た。塾主竹葉氏は八紘寮長、王道学会理事と月の半ばを東京に送り時には朝鮮警察講習所、同京畿道々場講師、総督府指導者伝習所講師などに招聘されしばしば渡鮮した。かくするうち第二次大戦は次第に拡大し遂に日本も參戦して戦況ようやく苛烈となった昭和十九年推されて三間村長に就任、ついで北宇和翼壮団長にかつぎ出されたがこのため終戦と同時に追放となった。

――その後は北宇和酪農の指導に情熱を燃やし、北酪今日の基礎を作り上げた。追放解除と同時に金鶏学院当時の学友であった久松定武知事の推薦で県教育委員長に就任し前述の如く全一に魁けて教職員の勤務評定を実施というより勤評の草分として思想的混迷の破砕に乗り出した訳だ。勿論物凄い抵抗を受けた。日教組が総評の指導下に最も尖鋭化し、赤鉢巻で騒ぎ回った時代である。特に愛媛県の教組は甚しく左傾し偏向教育で有名だった時だ。社会党議員は国会へ持込んで猛然と反撃を加え一躍愛媛県の名を高めたものである。しかし竹葉委員長は眉毛一つ動かさず、執拗な抵抗をハネ返し一歩も譲らず、敢然と信ずるところを貫ぬき切った訳だ。

――女も好き、酒も好き。酔えば童心に帰ってまことに奔放な快男子振りを、発揮する委員長さだ。富農の家に生れて毛並も良くコセついたところは微尽もない根ッからの好人物だが、その信ずるところの強さは勤評問題における毅然たる態度、百千万の敵も敢て辞せぬ不屈の精神はまさに筋金入りの逞しさだ。松下村塾を開らいて維新革命の捨石となった吉田松蔭の激しい情熱を、そっくり享け継いだような竹葉氏の憂国精神はまた得がたいものであろう。

 

 ブロガーは吉田町史談会のメンバーから本書『土居清良』=戦国 伊予の聖雄=を贈呈され拝読したが、隣の町、三間町にこのような偉人(竹葉秀雄氏)が居られたという事を初めて知った。郷土の英雄(土居清良公)を後世に伝えるという意志で、平成29年本書を再編刊行された関係者の発行者、編集者に敬服する。

 本書の編集者は、後編に「竹葉秀雄先生の人物像」と題し、評伝を書かれているが、その中で(名横綱双葉山との出会い)のエピソードを紹介している。全文を引用して“戦国武将・土居清良という男”を完結とする。

 

 横綱双葉山との出会い

 昭和10年安岡正篤先生が三間村塾に来訪され、青少年に「日本のあるべき姿」を説き明かされた。その時作られた漢詩が、同年発刊された『土居清良』の冒頭の詩「遊於竹葉醒庵三間村塾」である。また、この時の同行者に、双葉山の後援会長であった中谷清一氏がおられ、彼の仲介により、昭和11年の大相撲夏場所において竹葉先生は双葉山に初めて出会い、以降刎頸の交わりが続く。

 昭和13年11月、「人類のために苦難を求め、平和を致すことこそ日本の道である」との竹葉先生の言葉に感動された双葉山は、69連勝の記録更新中でありながら一行を引き連れ三間村塾を訪ねた。

 翌14年春場所4日目に双葉山安芸ノ海に敗れ連勝は69で止まったが、その時双葉山から竹葉先生宛てに「ワレイマダモッケイタリエズ」の電報が届く。双葉山は負けた直後、土俵に大きく一礼をし、全く表情を変えず花道を引き下がったが、心の中は「木鶏」のようには平穏ではなかったと、電文は語っている。竹葉先生は、双葉山が真情を吐露するまでに厚く信頼されていたのである。

 そして昭和15年双葉山は再び村塾に来訪、母親せい様が61歳の記念に寄贈した三間小学校の土俵で本場所と全く同様な土俵入りを披露したのである。近郷の人々の喜びようは言うまでもない。併せて、瓊矛(ぬのほこ)道場八洲殿と真弓道場楓館が完成。そのお祝いとして双葉山から大太鼓が寄贈された。竹葉先生は「雷の太鼓」と名付け、厳粛な道場の雰囲気は更に引き締まった。

 尚この太鼓は、戦災により大太鼓を失っていた宇和島和霊神社に一時期貸し出されており、その奇縁が、昭和39年に発生したご自宅の火災の類焼を免れ、今なお三間の三島神社において、かつて塾生達を鼓舞したであろう莊厳な音色を響かせて呉れている。

 

            おわり