戦国武将・土居清良という男 16

 法戦の城 

 信長に通じ阿波、讃岐を侵した元親は、大挙来襲すること天正7年より十数回、陰惨なる雲は再び宇和海の上を蔽う。元親清良と兵を交える事数十回、悉く破れ術つき、密かに土居の家中に内通を試みたが誰一人応ずる者無し。天正9年橘合戦で敵将多くを討ち取る。天正11年2月三国の兵2万余騎を引受けて奮撃、遂に桜井武蔵を失ったがこれを撃退した。神のために、民のために、議のために死を以て起った清良20余年の戦は、道への聖戦であり、大森城は永遠の法戦城である。

 

  下城 

 全国の大半を統一した秀吉は、天正15年6月大坂石山の城に入り、宇和郡の諸将に下城を命じた。中将公広は諸将を参集して、今日より宇和郡は清良に譲ると建議する。

清良は

「志有難く土居の面目これに過ぎず。何れも清良が下知次第とあるからは、四国を定めんこと必ずしも難きに非ず。然りと雖も天下を相手とし推量を当として戦わんこと末代までの物笑いとなり候うべし」

と諄々として理非を分けて説き諭せば、満座遂に時勢の非なるを知って下城と決した。

「背くべき世をし我から背き来て背きさりける時や来ぬらん」

の一首を名残に天正15年10月26日、時雨色つく大森城を立ち出でて昔もかかる人やありけん、その名を隠宿と言う竹有る崖の下、水潔く流れる所に、ささやかなる庵を結んだ。時に四十二歳であった。 

 晩年

 『土居清良』の筆者竹葉英雄氏は下記の如く最終章を閉めたが、本書のまま掲載する。

 達人は、また時を知っては退いて独り千古の道に生きるであろう。

戦国修羅の巷に四十二年、あらゆる人生の辛酸を味わい、且つその間に処して、為すべき最上の道を為し尽した清良は、今や世に背くべき時が来た。英雄頭を廻らせばこれ神仙である。私は清良にこの晩年の生活あるによって愈々尽きざる敬慕の情を覚える。

深く観ずるところあった清良は、慕う妻子に、

「月の前に変る心を白露の消えては共に何思いけん」

の古歌を書送って庵に入るを許さず、宗案には、

「及ばずながら、許由が跡を尋ね、白居易が昔を案じる楽しみに他事なし。顔淵、東坡、巣父、嚴子陵、山谷、子路、王義之、司馬迂諸々の賢者の楽しみ各別なり。我心に任せるをこそ楽しみとは言うべし」と語った。聖賢の心の跡に人生の深きを探ね、自ら耕して生活し、半窓の明月、南山の白雲を伴とした。悠々たり皎々たる哉 哲人清良の心境!

 衆生を痛む萬斛の慈悲を湛えながら、一世を震駭すべき絶倫の武勇を有しながら、天下を経綸すべき大才を抱きながら、戸田政信、藤堂高虎から如何に本知或いは丸串の城代を以て懇願されても、遂に仕を再びしなかつた。

 世は豊臣から徳川に変り、宇和郡の城主も戸田政信から藤堂高虎、富田信高、伊達秀宗と移り、彼の建設した王道の楽地も蹂躪され、子の如く慈しんだ領民も再び虐政に泣き、百姓一挨も起された。

然し、最早、去来する治乱興亡の彼方に、青山の如く静まれる彼の心は、世と与には動かなかつた。

秀吉を以て人生の勝者とする勿れ、清良を以て敗者とする勿れ、秀吉は清良も言えるが如く、天の勢ある者である。眼を徹して見よ。清良こそは一生を通じて、永遠の道への真の勝利者である。

寛永六年三月二十四日、桜の花の音なく散りゆく夕方、八十四歳を以て静かに神に帰した。

                            完


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土居清良廟(三間町土肥中・新宇和島の自然と文化より)

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    黑糸威二枚胴具足 ー領

(新宇和島の自然と文化より引用・三間土居家に伝来した甲冑)

 

 

 

戦国武将・土居清良という男 15

 不義を許さず 

 天正2年中、清良は長宗我部元親宇和郡侵攻に対し幾多の戦いを強いられたが、総て清良の予言が的中し敵を退けた。中でも近畿まで名を轟かせた「土居七口の槍」という合戦は、1日12度の激戦があり、敵の大将山内外記以下実に785人を討った。

元親は三間に兵を出すこと10度、戦うこと24回悉く利あらず。遂に土居清良を恐れ、北望の念を断じ、織田信長の威勢を望んで上洛、嫡子に信親の名を授かった。その後元親は阿波に侵攻、更に東讃岐を略した。

一方、豊後大友も一条没落後、天正始めより7年まで38度来襲し、法華津秋延、御荘勸修寺、屡々敗れ疲れ、土居勢ひとり小勢にて撃破した。

 本書『土居清良』によると、

清良、元親を評して曰く、

「元親は言甲斐なき者にて、如何なる行末(素性)の人かは知らねども、前世の因果なりと見えて弓矢を取広け今は人となれり。然りと雖も恩を知らず、その上策ばかりして表裏あり。手強き軍一度もしたりや、その沙汰を聞かず。大将たるは弓矢を手強く取って、少人数を以て大敵強敵を破り、またその場の見聞を以て作意をなし、武略して危うからず。また慈悲を第一として義を立て、礼儀を厚くして智を広め、信を深うして神仏を尊み、法を立て疑わしきを明にして罪人を導けば、謀らざるに自ら謀あらん。元親国を取広めたくのみ思いて、一人の敵に三十、四十の謀をする。起請文も我聞いても五十枚に余りて書きたらん。身の血をあやすこと後聞の思いやりは恥しからずや。人の信あれば起請文は入るべからず。神仏をあざむくことまことに許すべからず」

道を行う以上の謀はない。天地自然の大道(人のふみ行う正しい道)に立つ以上の強きも

のはない。清良は常にその大道に立ち、不義を不義とせず神仏を欺く姦雄、元親を断じて許さなかった。

と記されている。

 

 毛利をして千古の名をなさしむ

  天正3年、織田信長の勢いは中国地方に迫っていた。毛利輝元(隆元の長男)は信長の西下に道後河野通直に加勢を乞うた。河野は西園寺公広に通じ土居式部清良が援軍を要請された。

清良は小早川隆景の軍に加わり福山城を攻めた。隆景は城を包囲し土居勢先ず城中に斬り込み、土居佐兵衛は城主福山丹後を打ち取った。

 天正4年、毛利輝元再三の援軍要請により、清良はやむを得ず総勢500余騎で小早川勢に加わった。目指すは丹後を蹂躙した明智日向守光秀の亀山城。信長は3万余騎を応援せしめる。清良は丹波口の丹羽軍と対し強力な鉄砲で敵の的を外さなかった。明智軍城を捨てて退く所、土居勢追撃し敵将数多討ち取った。更に因幡鳥取城、出雲富田城を陥れた。

 天正5年5月、輝元より黒瀬城西園寺公広に加勢の飛脚が来た。公広は諸将を集め評定、清良の意見に随うべしとなった。

式部大輔決然として曰く、

「今まで義を以て加勢ありしことなれば今度衰勢ありて加勢せざるは武士に非らず。運は天にあり。死は義にあり。何ぞ上方の競いたちたるを恐れて加勢をこばまんや」と。

清良は烈々たる義侠心を見せ、この度は死を決し、五百騎を提げ打ち立った。

 本書には、

 時に、亀山城は再び光秀の奪うところとなり、更に筒井順慶、瀧川一益、羽柴秀吉丹羽長秀に五万騎を付して加勢せしむ。清良二千騎を以て丹羽勢一万騎の押しかかるを七度まで追い散らし、殊に桜井武蔵の軍法は巧妙を極め、甲州山本勘助に劣らずと敵味方に喧伝せられた。四月二十九日丹羽勢押し寄せ鉄砲を放つ。土居勢これに応じて崩せば郡内勢二千余騎これを追う。清良止めんとすれども二千に余る軍兵ままならず、案の定、明智勢一万騎に押し包まれ危く見えた。輝元の検視吉川式部小輔これを見て清良に議る。清良自ら弓手の田間を迂回し敵の右翼に出て鉄砲を浴せ悩むところに、「土居清良と申す田舎武士にて候」と呼ばわり突かかれば、敵大勢なれども表に進む兵多く討たれて二陣に引退く。とある。

5月17日織田勢退く。これを追撃すれば羽柴、瀧川、明智丹波、筒井代わる代わる殿軍して走るのを4680余人を討ち取った。

 天正6年3月、尼子勝久を奉じて尼子家の再興をすべく一世の豪傑山中鹿之助は上月能城を死守して降らず。毛利13万余騎で攻めるも抜けず、信長は大兵を向け一挙に毛利を崩さんと仕掛けた。輝元、吉川、小早川の応援に清良は又しても出陣した。窮地に立った隆景は清良を呼び戦略を乞うた。

 本書には、

清良、

「某などは片田舎にてかかる大戦は夢にも見ず、清良に尋ねらるるは木に縁って魚を求むる如しと存ずれど、かくほど言わるるに申さねば如何。信長左様に四囲八境に敵多くならば、これ出陣して日数を廻らせば、国々蜂起疑い無かるべし。味方は陣を堅く軍をゆるやかに、制法を強く軍役を弱く、士の心を合わせて待軍になされば、将軍永陣疑いあるまじ。例え他方起らずとも信長は此頃競い口なれば、短気の軍のみして是非を論ぜずがさつなるベければ、味方心して戦えばその軍の利は此方に御座有るベけれ」

隆景喜びて清良の言に従い、陣を堅め軍をゆるやかに士気を養って疲れしめず。隆景今は清良を唯一の相談相手とした。とある。

隆景は秀吉と大川を隔てて退陣し共に鉄砲で打ち合ったが三町に及んで達せず、清良は3500の伊予勢を隅見川に出し玉木鉄砲助に指図し一斉に発砲すれば、秀吉軍陣地に命中倒れるもの数知らず。狼狽して退く敵も味方もその鉄砲に奇異の思いをしたという。

清良は遂に鹿之助と対峙することになる。土居の若い衆は「山中鹿之助何ぞ恐るるに足らず桜井武蔵に任せて誘い出し土居勢打ち向かうべし」と力戦し首117を取る。中でも玉木八十郎は鹿之助の甥猪助を討ち取った。これを機に毛利勢は遮二無二に攻撃を加えて攻め立て、流石の山中鹿之助も遂に力尽き上月城は落ちる。

織田勢また如何なく8月兵を引き払う、清良時に33歳。

毛利輝元は永陣の労を謝し言を改めて、

「毛利に吉川、小早川、両川あるは鳥の両翼に異ならず。されど隆景には嗣子無く、卒爾ながら御貴殿の御子息を給え」とあり、清良おって返事を約して弓矢の物語に夜を更かし、輝元長盛の太刀を贈り、吉川春次を見送らしめた。毛利一族が如何に南海の一侍大将に過ぎない清良を信頼したかはこれにても知らるるであろう。

後、天正十四年十二月、嫡子太郎重清十五歳となるに及んで従者五十人を添えて送る。輝元、隆景大いに悦び、名を改めてその二字を取り、小早川内記元隆と名乗り小早川を継ぐ。惜しい哉。二十歳にして病みて倒る。元隆にして生きてあらんか。関ヶ原の戦その帰趨するところ知られなかつたかも知れぬ。

 天正10年3月、また毛利に加勢す。秀吉播州高松の城を攻める。清水兄弟奮戦して降らず、秀吉は水攻めに及んで城兵の命を乞い清水兄弟は悲壮船を浮かべ屠腹する。

 時に本能寺の変あり、秀吉は「兵を退けて光秀を討たんとす。尚和議を調えるや」と、毛利諸将は時来たり、背後より迫りてこれを討ち、旗を天下に立つべしとする。

 清良、隆景に

「これ義兵なり。而も明らかに事を告ぐる器量称すべし。一度約せし和議破るべからず」とその不可を説く。隆景亦然りとし、或は本能寺の変詐りにても毛利の心を見んとの計かも知れずと、諸将を説きて遂に和議を調う。清良、真吉甚内、堀口辻之助の両人

を送り、その吊合戦を見せ且つ応援せしめた。

清良、毛利をして千載の下義名を全からしめたと言うべきである。

と、本書に記されている。

戦国武将・土居清良という男 14

法華津一族

 

 ブロガーの出身地は宇和島市吉田町本町であるが、母の実家は吉田町玉津だった。幼少時、法花津(法華津)の浜で海水浴をしたことを覚えている。その浜の背後の小高い山に法華津城があった事は当時知る由もない。

 自著『トランパー』『吉田三傑2017&2019』で明治、大正、昭和の近代史に触れてふるさと「吉田」の歴史が少し分った気がしたが、『土居清良』を読んで更に郷土の歴史を遡ることになった。

 法花津という地名は、母の実家でもあり親の話にしばしば出て自然と使っていたが、「法華津」という歴史のある名称だった。

 昨年NHKで姓名「法華津」を取り上げる番組があった。1964年東京オリンピックに出場した馬術法華津寛氏が家宝の「鞭」を持って現れた。寛氏の祖父・法華津孝治氏は、吉田三傑の一人村井保固の誘いで、森村組に入った。山下亀三郎と同時代の人物で、村井保固伝の発起人、息子の孝太は外務省から極洋捕鯨の社長になった。

寛氏は法華津家伝来の鞭の由来が分からないというので、吉田町の秋田女史(吉田藩の古文書を読む会・主宰)が説明に登場、中学の同級生が突然映ったので驚いたが、要すれば、ムチに吉田藩の定紋があり馬術指南の藩士が殿様から特別に授かったものだという。

番組最後に司会者は、かつてルーツは船を乗りこなし、その後馬を乗りこなし一騎当千の強者と持ち上げていた。

 法華津城は目前が法花津湾で宇和海に面し、その先が豊後水道である。法華津すなわち法華の港という地名は当時この地方の大勢を占めていた天台宗寺院が、その根本教義としたところの法華経に由来するものと云われている。

西園寺氏の被官としてこの地に下った清家氏が、その地名をとって法華津氏を称した。

 法華津氏は、戦乱の世、法花津湾に軍船を浮かべ南伊予の海岸部に乗り出す水軍として名をはせた。

  郷土誌『新宇和島の自然と文化』には、

 豊後大友氏の侵攻が最もはげしかった天文~永禄約四〇年の間に、相争うこと八十数回に及ぶといわれ、西園寺にとって第一線の防塞であった法華津の地は、大友の側からみてもまた、黒瀬攻略、宇和併呑の鍵をにぎる第一の要害だったのである。

 天正一五(一五八七)年秀吉の四国平定によって、宇和郡を戸田勝隆が預り、大洲の地蔵が岳に入城したが、これに先だち、土居清良、法華津秋延、御荘勧修寺の三人と西園寺の在城が許された。法華津氏歴代中の雄将清家播磨守範延は、土居氏とともに豊後大友氏の来攻を防いで歴戦数十度、常勝を誇ったが、とくに海戦を得意としたその一族の活躍は、伊予水軍史上に輝かしくその名をとどめている。と記されている。

 

 馬術法華津寛氏は2020年東京五輪に出場すると、御年79歳で五輪史上最年長となる。

祖父法華津孝治氏の生まれ故郷の吉田町は、昨年、西日本豪雨で甚大な被害が出た。玉津地区も山が崩れた。法華津城は今ではみかん山となっているが町民は復興に向け立ち上がっている。

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法華津城が中央に見える(ブロガー撮影)

 

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玉津のみかん山(2016年撮影)

(ブロガー蜜柑山を登る)

2016年春、玉津の従兄弟が蜜柑山を案内する。トラックで細い農道を登るが、ヒヤヒヤものであった。山の上は法華津峠、高森山が見える。散水、消毒はコンピューター制御、みかんはモノレールで下ってゆく。2年後、先祖が築いたミカン園を豪雨が襲った。自然が相手の商売は厳しい。

 

 

 

 

戦国武将・土居清良という男 13

 民と倶に飢えん

  元亀3年、関西地方は稀なる大凶年だった。清良は宗案と策を立て、直ちに城中の兵500人を出して百姓に加勢し11月初めまで麦を蒔き終わった。清良は土居左兵衛に領米9割方を分けよと命じたが、「来年は元親攻め来たらん、籠城の用意なくてはかなわず」と答えた所、清良曰く、

 「然も有らん。然りながら当年日損してあれ共、我内々の心懸け、宗案が教えを以て作早く仕付けさせ、他領に比ぶれば十倍を越えたり。切々の戦い大敵に当たりても手柄計りして一度も破れざるは、これ領民の心深き故なり。亦我が下の民は他の民に変り、歴々の武士のならぬ武功を立てたるは皆の手の者と同様なり。侍たらば通分の領地取らすべきを叶わざる者如何程ありと思わるるぞ。君子有潔矩之道とて、前後左右上下通分にせざれば悪しきものなり。我籠城して兵糧の足らんことを案ぜば、民今正に死することを思うべし。孟子王道を言うも民を養うを以て初めとす。仮令来年籠城するとも兵糧つきることあらじ。若し又飢死するとも他並と心得べし。民飢えて何の糧食ぞや。民と共に死なば別に望みなし。堯、舜も民を養うて病むと言えり。まして我々凡 人に於てをや」とて分ち与えた。

 嗚呼!大森山上、草も慟ぜん。石も哭せん。とある。

 

 王道蕩々

  民を養うは王道の初めと、天正2年正月清良の誕生日に、領民男女大森山上に集め一汁三菜の膳を出し酒を用意して曰く、

 「無菜の食なり。能勧めよ。方々男女共に能く聞け。君子に義ありとて、人は皆義を以て本となす。君は礼を以て使い、臣は忠を以て仕う。義悪ければその道立たず。されども義とばかり思うべからず。五道一つ欠けてもその家治まらず。家を治むるには我分際分際の家職を怠らぬに有り。大小上下誰が家にも相応の五道あり。先ず面々が家の四方に竹を植え木を林し、鳥を飼い獣を養うにも五道の心を違えてはそれ皆育ち難し。たとえば草木植え置き、その実を取る事一年に一度なり。それを待ち遠しき事にして言うは欲心深き頑鈍なり。成らざる処を知つて思い切り、成る処を知つて調えるを才覚と言う。事の成らぬを成したく思うは愚痴なり」(中略)

 「主人は母に似たり。汝等の子の汝等を慕う如く、主人を慕わば如何にも純熟なり。これを和合と言うぞ。天地和合して草木も生くるなり。人その和合の頭なり。人にして和合の道を知らざるは天道に背くなり。法に背かざるを理と思うべし。その真似をさせんと里侍を置く。能く見習いて法を守り五道の道を知るべし。野郎をして遊ぶも働いて辛抱するも同じことぞ。見物好みして気を晴らす者あれば、働いて見物に勝りたりと思う者もあり、仕付けたる癖なりと心得べし。唯居りする者盗人ならでなし。その外は唯居ては調わず」と、どっと笑い、

 「扨て今日は酒能く飲みて緩々と遊び、明日より諸事油断すべからず」と、ついと立ちて奥に人る。それより酒出で家老衆立ち廻りて歓待し後は噺などして打ち興じ、女は早く帰って子を抱いて笑うものあり、男は早速田畑起すもあり、帰る道にて木を拾うもあり、酔い転びて伏せるもあり。翌日よりは領民一入楽しみて働けると聞いて、清良の喜びは一方ではなかった。

 道は親しく語られねばならぬ。親しく導かれねばならぬ。愛は自ら親しい。清良にこそ「親民」の語は体現されている。見よ。餓死する者多き戦国時代、南海の僻地大森城の麓下には、上下和楽、道楽しみて自ら行わるる、王道蕩々たる世界が実現されて居ったのだ。

 本書には、

 当時の出家達集まつて、

「学問は全く式部大輔の如くありたきものなり」と称賛し、名僧法田和尚は「気軽き人かと見れば、重きところは大石よりも重く、恐ろしき人かと見れば、慈悲第一に、人心柔らかにして幼き頃より粗忽な振舞い今になし。花も実もある人と言うはこの如き人かな」と評している。君子三変ありとも言うべきか。

梅岸和尚は、「武田、上杉、北條、毛利、織田、大友皆天下の良将なれども何れも欠点あり、大行は細謹を顧みずとは誤れり。清良こそ第一等の名将」と感嗅した。

と記されている。

戦国武将・土居清良という男 12


一条の恩に報ゆ

 

本書には、

  元親は一条の股肱、久札城主・佐竹信濃守を取り込まんとしたが、尊家に発覚し 起請文を書き人質を出した。その後人質に密計を授けて次第に旗下を籠絡して謀反を諮った。遂に天正元年11月大挙して尊家を欺き30余人を下田より船に投じて追い出した。

 元親は尊家の子家実に自分の娘を嫁がせ一条の後を継がした。後また伊予に追放し鴆毒にて殺した。尊家は豊後の大友に頼らんとし船を戸島(宇和島にある島)によせ流寓の身となつた。

清良悲しむこと一方ならず、土居蔵人をして様々の音物を贈り、若し伊予に留まる御志あれば大森に御出下さるべし、又豊後へ渡らるるに於ては用船供人を進ずべしと慰めた。尊家は感涙に咽んだ。

 清良は旱くより元親の野心を見抜き、一条を援けて元親を滅し度く思い、一条、西園寺の和を願ったる然し願いは中々に達せられず、一条迎々の出陣の隙に元親の奸計は着々功を奏し、和議成った時は既に遅かった。清良は一条の末路と南海の天地やがて再び乱れんことを思い天を仰いで嘆息した。とある。

*** 

宇和島教育委員会出版の『新宇和島の自然と文化』によると、

 戸島城は、宇和島港の西方約22㎞の宇和海上に浮かぶ周囲約17㎞で、この鳥の中心地本浦港の北端に突出した標高35mの丘が戸島城と伝承されている。この城は、土佐の国司中村城主の一条兼定が約10年間(天正3年〜13年)居住していたことで有名である。

一条家五摂家の一つで公家中の名門であった、前太政大臣•関白•一条兼良は奈良の寺院にたより、その長子の元関白・教房を応仁2年家領である土佐国幡多莊の中村に下向させた。教房のあと、房家-房冬-房基-兼定と相続いて中村に土着し、土佐一条氏となり、所領の回復勢力の拡大につとめ、戦国領主としての地歩を同めた。兼定の盛時には、土佐幡多郡高岡郡を支配するとともに伊予宇和郡の一部をもその支配下に置いた。

それに対して一条氏の勢力と衝突したのが土佐中部に勃興して来た長宗我部元親である。元親は謀略により、また戦略により、しだいに兼定の支配地を侵略し、ついに天正2年、兼定土佐国外に追放し、兼定は岳父に当たる豊後の大友宗麟のもとに身を寄せることになった。土佐側の文献は兼定が暗君であったために身を亡ぼしたと記しているが、長宗我部側の史料によつたものですべてを事実とはなし難い。豊後に赴いた兼定天正3年、臼杵でキリシ夕ン宣教師の洗礼を受け、洗礼名をドン・パウロと称した。同年、失地回復を志した兼定南予の豪族、法華津氏・御莊氏らの支援により土佐に攻め入る。一時は幡多郡西部を制圧したかのように見えた兼定勢であったが、長宗我部の大軍との中村郊外渡川の戦いに敗れ、伊予国へ敗走した。その後、兼定は法華津氏の庇護により戸島で敗残の身を過すことになる。

不具病弱の身とはなったが、豊後から送られて来る国訳のキリスト教の書物によって慰められ、信仰に生きる余生を送り、天正13年7月1日、43歳で病死したという。彼の墓は戸島本浦・龍集寺の境内にあって、島の人々は「一条様」「宮様」と称して崇敬し、今なお兼定の墓前には香華が絶えず、毎年の命日には盛大な法要が行われている

と書かれている。

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一条兼定の墓

 

 

 

 

 

 

戦国武将・土居清良という男 11


 清良、西園寺・一條の和議を調う

  永禄11年4月大友軍1000余騎来襲。7月一條来襲。永禄12年4月大友一條呼応して来襲。元亀元年(1570)大友一條、御荘勸修寺を海陸より攻める。清良はこれに加勢、西園寺公広に出陣を乞うが援軍来ず。敵は諸城陥り放火して三間に侵入した。清良留守に百姓、女、童500余人奮闘防戦す。玉木源蔵の母・巴は敵の将、石黒主膳を討ち取る。清良は御荘より帰ってこれらを撃ち払った。

 元亀2年、西園寺、一條和解の機運が生じた。長宗我部元親の野心を知った尊家は、清良に元親を討たんと和睦を申し込んだ。清良は元親を今のうちに討たねば必ず一條を亡ぼし、将来の災いになると、西園寺公広に注進した。だが黒瀬城内は奸臣はびこり忠臣疎んぜられた。果たして一條勢は深田中野を囲んだ。元親勢2500余騎が向かえば公広一戦もせず引退く。土居勢豪雨を衝いて奮闘敵首200を得る。その後、土佐勢多数に奇計を以て翻弄、同士討ちをなさしめ土佐勢戦に倦む。

 この時、清良は一條本陣に生鯛十尾を贈った。尊家は恐悦し、

 「あすの夜をまたでめぐらすさか月の光さやけき旅の空哉」の一首を送った。

 元亀3年正月、ついに清良は法華津と談合して西園寺、一條の和議を調えた。清良の苦心ここに成って南海の激浪暫くは無事に、領民はその生を楽しむを得た。 

 道後加勢

 元亀3年7月、道後湯築城の河野道直は叔父の安芸、毛利輝元と確執を生じ合戦となる。公広は清良に加勢を命じた。清良は200余騎で戦う事7日、土居勢の武力で毛利勢を追い払う。河野父子大いに喜び3日間慰労の宴を張った。

 元亀3年9月、織田信長の勢いに依って阿波の三好将監は北伊予に侵入、讃岐勢も随って三津沖より道後を攻める。清良再び出陣、将監追いつめられ兵を引く。

 伊勢・京都参拝

 本書『土居清良』には、

 私は思う。若し清良公をその時その地にあらしめば正成公となり、正成公をこの時この地にあらしめば清良公とならんと。私は幼時より妙にこの私の最も尊ぶ二人が心の底に於て一人となつている。土居氏代々の勤王の志は清良にも燃えていた。然しその時と所とは正成の様に起つ能わざらしめた。近衛公より後清良七ロの槍と称せらる戦を祝して寄せられた文を見る時、清良勤王の消息が窺われる。

 三好將監を破った清良は、今や一条との和なりて、また後顧の憂いもなくなったので年頃の志を果さんと、道後より直ちに股肱二十七騎、郎党六十人を随え、伊勢京都参拝の旅に立つた。途中来島の城主、村上天皇の末流で村上飛騍守通総の招待に応じて立ち寄つた。通総は日頃より清良を敬していたので、これを光栄として、歓待を尽し、兵を論じ武を講じ数日逗留した。

 三月五日来島の用船五艘に分乗し瀬戸内海の風光を賞しつつ、途中六度も海賊船を撃ち退け、大阪伝法に上陸、先ず赤坂金剛山の遺跡を尋ね楠公の忠魂を弔うた。

この時円長と言う山伏、「音に聞えし天下を引受けたる楠が籠りし城程にも無し。無下に浅間しき体哉。古人の戦いは手ぬかりおおかりしや」と眩くを聞いて清良「それ城は太刀の鞘なり。大将は太刀なり。如何に鞘見事にても太刀鈍ければ益なし。この城浅ましくてこそ正成公の誉愈々心深うなれり。勝軍地蔵摩利支天化身の名人を、汝等が口にて楠杯と云う事、天に背けり。その方は毎年代参して伊勢熊野高野に通う身が、此度初めてこの城を見たる気色なるは侍の道にあらぬぞ」と気色を損じて窘めた。

 それより高野に登り六親の事は言うに及ばず、三代以来討死の被官共に一万本の仏(卒塔婆)を建てさせ、病死の者共にも二千本の供養をした。更に道を転じて岩田川に身を淨め、日頃信仰厚き熊野権現に詣でて武運長久を祈った。ここは土居氏発祥の地である。ついで那智の滝を見物して

「滝津瀬は代々変らぬ響あれば流の末も頼母しき哉」と懐をやった。

伊勢神宮に額づきて遠く本朝(朝廷)の所以を探ね、京都禁庭の御衰微を拝した清良の思いや如何に。已に正成の跡を弔い、正成と俱に兵を挙げた備中守淸時の末の清良である。

徳川氏に入って出来た『清良記』には勤王の志に至りては書く所がない。

燃ゆる思いを抱きながら、戦国僻南の地に在りてはまた遂ぐべき道もなく、僅かに時を得て難路百里を遠しとせず、伊勢京都に額づきて僅かに懐いをやった清良の心こそ、まことに悲しくも床しき限りではないか。

 

註 清良記は全三十卷、清良の家臣土居水也が清良公を慕うあまり、悪疾に指を失った手に筆を結びつけて書きしものと言はれている。清良記の各所に「我田引水と言われんも事実なれば」と断っている。私は清良記は未だ清良公の偉大さを遠慮して書き尽していない様に思われる。

と記されている。

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~新宇和島の自然と文化(1)より~

 

 

 

戦国武将・土居清良という男 10

 永禄九年(1567)八月、今度は一条が来襲、清良敢えて応戦せず悠々と日を暮らしていたが、西園寺実充再三の出兵の命にやむを得ず250余騎で700騎を散々に追い返した。実充は度々の功労で清良に一族滅亡の石城を与えた。すでにこの頃は土佐、豊後共に土居の楓の旗を恐れること甚だしかった。

 清良は戦国の世に唯独り千古の道を抱き、大森城を法戦場とし、民を安じ傭主を奉じ、ただやむを得ずして義に戦う寂寂たる道であった。

 しかし、ここに登場するのが21代長宗我部元親で永禄十年五月、一條家の将山内外記に援軍200余騎を送った。だが、三間の百姓軍400人、里侍がこれを撃退させた。永禄十一年元親は南御荘を攻めている。

永禄十一年の冬、土佐では長宗我部元親が本山氏を討って土佐を統一する勢いであった。後は安芸國虎と西の一條兼定(5代)だが、一條には恩義があった。

 

***

(長宗我部家と一條家)

 21代長宗我部元親の末弟親房から17代目の当主友親は2012年「長宗我部」という本を出版した。

 あらすじは、次の通りである。

 長宗我部家は「秦の始皇帝」が遠祖という。2千年70代に亘る人間の歴史が滔々と流れている。始皇帝11世の孫、功満王が朝鮮を経由して日本に渡来、帰化した。時は過ぎ秦酒公(はだのさけぎみ)、秦河勝と続くが、河勝は聖徳太子に仕え、物部守屋を討って信濃國を与えられた。やがて起こった保元の乱信濃にいた秦能俊は崇徳天皇側につき敗北、遠流の地土佐に移り住んだ。

能俊は「長岡郡曾我部」に隠れたが、これが長宗我部氏の祖となった。秦河勝から600年が過ぎている。応永年間(1390年代)15代元親は、中央政権とのパイプ作りで京の一條家と交流して都の礼儀作法などの教えを受けた。

 応仁元年(1467)応仁の乱が起る。室町幕府足利義政の時代で戦火は全国に広がり戦国時代に突入する。お公家様の一條教房(初代・関白を務めた)は戦火を逃れて土佐に下った。教房が船に乗って室戸の甲浦に着いた時、長宗我部文兼は御座所を用意した。その後教房は、一條家の荘園がある土佐中村に入った。

 土佐も戦国時代になると文兼の頃と違って、群雄割拠で本山茂宗など土佐7雄が競い合っていた。永正5年(1508)5月の戦で本山連合軍の襲撃により19代兼序は岡豊城を攻められ総ての領地を失った。兼序は後継ぎの6歳千雄丸(国親)を若き家臣ら150人と一條家に逃した。嫡男に長宗我部の将来を託した兼序は、終夜酒盛りをやり、夜明け最後の一戦で華々しく散った。(まるで石城陥落の土居一族のようである)

 一條房家(教房二男)は千雄丸を保護し育てた。永正15年(1518)房家は千雄丸を元服させ国親と名のらせた。国司として房家は本山らと調整を図り国親を岡豊城に戻した。「野に放たれた虎」国親は長宗我部の再興に執念を燃やした。

 天文八年(1539)一條房家が亡くなり、房冬が後を継いだ。21代目元親はこの年に生まれた。天文二十四年(1555)宿敵本山梅慶が病死した。翌年弘治二年、国親は本山攻略を始め22歳の元親は初陣だった。本山茂辰を追放した国親は病に倒れ岡豊城内で死去57歳だった。

やがて元親は本山茂辰の嫡男親茂と闘うことになるが、茂辰の病死で親茂は降参した。これが、前出の永禄十一年の冬だった。

***

 群雄割拠の時代、天文年間に生まれた傑物は、織田信長、天文3年(1534)豊臣秀吉、天文6年、徳川家康、天文11年、長宗我部元親、天文8年、土居清良、天文15年(1546年)である。

時代はやがて弘治、永禄、元亀、天正の戦乱クライマックスに続く。