シネマ「トランパー」 その2

「トランパー」名シーン 
シーン4
(亀三郎の商魂)30歳で山下石炭商会を立ち上げた亀三郎が、一流料亭の部屋で頭を畳にくっつけている
(いらっしゃいませ、わたくしが山下亀三郎でご座います。横浜に住いして居ります者で、今後とも何卒よろしくお見知りおきのほどを、本日は、わざわざおい出を願いまして、まことに恐縮に存じます)「松永御主人様」と立てられてた若干22歳の若者はのちに電力王と呼ばれた松永安左衞門である、亀三郎の鄭重な挨拶が続く
(手前は、北海道の石炭を横浜で少しばかり扱わせて貰っておりますが、今後あなた様が、大阪、神戸で代理店をおやりになると聞いて、そのお手伝いをさせて頂きたく、まかりいでました。いやなに、てまえどもはホンの幾らかでも小遺いを稼がせて頂けば、それでもう結構です)
安左衞門は、彼の風釆に似合わず、すばしこく、新聞記者のような早耳に驚いてしまった。しかし、いい気持になって緞子の上へあぐらをかいたてまえ、そう素気ない返事も出来ない。そして実のところは、私も石炭をやろうと思っていたけれど、石炭のことは皆目見当がつきかねていた。どうゆうふうに運んで、どうゆうふうに納めてよいやら、またどんな所へ売りに歩くのやら、何も知らない全くの素人で、山下亀三郎の申し出をきいて、その虫のよい手前味噌には、まったく驚いたけど、(折角、稲垣さんの紹介状もあることだし、そのように、おねがいしますかな)
この後は、芸者揚げての飲めや唄えの、人たらし・亀三郎の世界である
シーン5
(海運業に進出)亀三郎は石炭の販路を広げ商売も軌道に乗った頃、日露の関係が険悪になって石炭の需要がますます増える状況となってきた
明治32年の夏、亀三郎は門司から600トンもの大量の石炭を買い付けた
揚げ地は横浜、船が着くと回漕店から運賃の請求がきた
(石炭1トン当たり1円20銭、運賃720円を払ってくれ、荷物はそのあとで引き渡す)と、店主が引換書を亀三郎に見せた
亀三郎は石炭を売りさばいた後で運賃を払うつもりでいたので(何を馬鹿な!まだ石炭を売りもしないのに、何で金が払えるか!)
すると店主は(何をわけのわからん事を言っている、運んだものを渡すのに運賃をもらうのは当然だろ!)と息巻く
この騒動を収めたのは、近くに店を構える御崎回漕店の主人だった
あまりにもド素人の亀三郎に海運のしきたりを言って聞かせ、さらに運賃を立て替えてくれた
亀三郎は心中、手を合わせたが、運んだ荷物を渡す前に金が取れるなんて
(これはいい商売だ、よーし、これからは船だ!船を持つぞ〜)
シーン6
(喜佐方丸を持つ)
あれから4年、艱難辛苦の末、1万円を貯めた亀三郎はついに船を持つ
ブローカーの英国サミユル商会(後のシェル石油)から、重量三千トンのサンダー号という古船を、五万円で買った、借金4万円は亀三郎の才覚であった
男36歳、亀三郎は横浜港で船をデリバリーした
(がいな船やのう、よ〜しこの船を、田舎の喜佐方村にちなんで「喜佐方丸」と命名するぞ、いっぱい稼いでくれや!)
しかし念願の船を持ったが、稼ぐノウハウがない、肝心のいい荷物がない、ブローカーの紹介で勝田商会の上海向けの荷物を成約したが運賃はネット250円だった
亀三郎は(これでは燃料代にもならん、こんな荷物が後2、3航海続いたら倒産するがな)毎晩酒を飲んでもサッパリ寝れない、過日の児島惟謙先輩との苦い会話が思い出された
亀(私も、この度、大決心をいたしまして、三千トンの船を買いました)
すると児島は苦虫を噛み潰したような顔をして
(お前らが金もない癖にそういう決心をするということは、人に迷惑をかけても構わないという決心で人間はそういう決心ではだめだ!)
と、噛んで吐き出すようにいった