明治、宇和島スプリッツ!

帰省の5月8日は従兄弟の車で一乗寺にゆき、宇和島駅まで送ってもらった。
宇和島港の坂下津埠頭にはクルーズ船が入港していた。
フランス人など外国の富裕層が日本各地のローカルポートをめぐるそうである。
定番の観光地では飽き足りない客を相手に商売をしている。
バス数台に分けて田舎を回るが、吉田町は大楽寺の写真機コレクションを見て、大乗寺の庭園を見学するという。
外国の船が日本国内で運航することは船舶法で禁じられているが、韓国に寄港することで外国籍クルーズ船の商売が可能となる。
カボタージュ(国内運輸保護政策)を逃れる、したたかな外人の商魂が伺える。
かつて海運王・山下亀三郎も中国大連に会社を起こし、便宜置籍船システムを構築した。
タックスヘイブンや外国人船員の起用でコストを下げた。亀三郎はグローバルな経営感覚を持った先駆者だった。
今は、亀三郎の郷里に外国籍のクルーズ船で楽しむ外人客が訪れる、時の移ろいに亀三郎翁は草葉の陰で何を思うか…

午後は、伊達博物館に行った。宇和島が生んだHEROにスポットを当てた特集展が目当てだった。
第2展示室に「吉田三傑」の写真、書などがあり、中でも興味深いのは「村井保固、山下亀三郎交流の句」の掛け軸が一幅、村井保固筆である。
大正12年の話で、亀三郎は「明日はお立ちかお名残り惜しや豊後水道涸れりゃ善い」と詠んだ。
これに対し保固は「豊後水道涸らせておくれわたしゃ吉田をはなりゃせぬ」と返した。
この年は、町長清家吉次郎の提唱で村井保固、山下亀三郎など有志が吉田中学校(現・吉田高等学校)を設立した。
吉田三傑は久々にふるさと吉田に集まり、郷土の発展を期しみんなで一献傾けた。酒の座は相当盛り上がったのであろう、
やがて保固はニューヨークに戻り、亀三郎は東京に帰る、吉次郎は地元吉田で辣腕を振るう、
吉田三傑の一番ホットで意気軒高な時代だった。

一句 豪傑を集めて美味し春の酒


(明治150年記念/伊達博)

(村井保固と三傑)

(フランス「ロストラル号」入港)