2018年 ふるさと紀行 2 日吉&宇和島

ブロガーは郷里吉田町の歴史に興味があり、鬼北町日吉に足を延ばした。
今から225年前の寛政5年に起きた百姓一揆「吉田紙騒動」は、確たる記録が無い。
「吉田三傑」のひとり清家吉次郎は、昭和3年吉田町長のとき、吉田新報に「忠臣安藤義太夫と乱民武左衛門」という論説を発表した。
清家は、吉田騒動の遠因として吉田藩3万石分知にからみ宗家宇和島藩の煽動があったと断じている。
一方で、日吉村の初代村長井谷正命は、大正6年に「嗚呼武左衛門翁及宇和史ノ概要 : 外五種」を著作した。これは井谷が村の故老から武左衛門に関する断片的な話説、伝聞をもとに記したものである。
その後、井谷は清家が提供した吉田藩中見役の鈴木作之進が書き遺した「庫外禁止録」を写本し井谷家に遺した。これが唯一の公文書である。
平成7年山本日吉村長は武左衛門200回忌にあたり「庫外禁止録」を郷土史研究者2名の手で翻刻した。
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3月22日宇和島からバスで東方へ40キロ約1時間で日吉に着いた。標高230メートルの山奥だが山桜が咲いていた。まさに山笑う、木の葉萌ゆる季節である。
「日吉夢産地」上の明星ヶ丘に「武左衛門一揆記念館」があった。傍にミツマタの黄色い花が咲いていた。昔、紙の原料の楮、ミツマタがこの山奥で栽培された。藩の収入源である製紙が百姓の怒りを買ったのは紙の専売制と重税にあった。
上大野村の武左衛門は百姓らを動員して吉田藩の御用商人「法華津屋」を打ちこわすと、山を下りたという。紙漉き村は山奥から広見川筋に数十カ村あり、吉田藩領民83カ村が宇和島藩八幡神社前の河原に集結したのは寛政5年2月14日だった。
この騒動に吉田藩家老の安藤義太夫継明は八幡河原に出向き、百姓らを説得したが、聞き入れられずに切腹を覚悟したのは、お家の危機を救うためだった。
しかし「庫外禁止録」には何故か安藤、武左衛門の記述はまったく淡泊で、伝承されている安藤の切腹、武左衛門の斬首などのクライマックスがない。
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バスで宇和島へ帰った。すぐ八幡河原に向かったが、9,600人もの百姓が集結するには広さが足りない。謎が多い事件であるが、須賀川の土手には安藤忠死の碑があり、吉田町には安藤神社がある。
「吉田三傑」のひとり村井保固は、安藤神社の境内に(安藤様は私達のお手本です)との石碑を遺した。

(日吉の山々)


(記念館のミツマタ

八幡神社のイブキ/国指定天然記念物)

(安藤義太夫継明忠死の碑)

須賀川