清家吉次郎伝 7 (最終回)

これまでは『無逸清家吉次郎伝』の中で「師範卒業と小学校教員時代」の資料を基に掲載したが
その後の吉次郎列伝は、平成26年10月に吉田町で挙行された「山下亀三郎70年、清家吉次郎80年合同祭」
のビデオからトピックスを列記したい
(吉次郎政界入り)
明治44年愛媛県会議員に初当選するや5回連続当選し、その間3回県会議長を務める
公平無私な処置は相手党「憲政会」の議員からも尊敬された
「政友会」の吉次郎と憲政会の明智議員との議場での応酬は時には朗らかな爆笑に導き、また時には互いに説法を持って渡り合い、この老公と新進気鋭の二人の雄弁は満員の傍聴席を楽しませた、
大正7年米騒動を無事収拾したことで吉田町長に就任、県会議員を兼務し17年間公僕として吉田郷の文化、教育、経済に尽くし大成果を収めた、また大正5年には山下亀三郎と相談し山下実科高等女学校、吉田病院、町立吉田中学校を設立、赤松新田の埋め立て、吉田港の改修を断行した
柑橘、養蚕の組合長など十数の公職に選任され多忙を極めた
(欧米独断を著す)
昭和2年吉次郎は山下亀三郎、村井保固の支援で海外を8か月にわたり視察、その見聞記「欧米独断」と題し365ページに纏めた
この本は、米国の海運論、港湾事情など記し「特に関係深き宇和島運輸会社の豫州丸が紐育(ニューヨーク)に来り往還の貨物を満載するを見たるは親友の幸運を祝するの想あらしめたりき」と綴っている。
吉次郎(無逸と号す)が紐育で村井保固に会ったとき詠んだ一首が遺されている。
  高樓(たかどの)のそそりつらなり崖せまる山の峽(かひ)とし見ゆるこの街

(吉次郎国会演説)
昭和5年衆議院議員に当選、町長も兼務した、7年の改選にも連続当選した
時は軍部の台頭期を過ぎ横暴期に入っており5.15事件が勃発、首相「犬養毅」が暗殺され非業の最期を遂げた、その直後の臨時議会で気骨稜々、正義に燃える吉次郎は、憤然として壇上に立った
軍部が政治に関与することを廃絶する為、陸軍大臣荒木貞夫に向かって「だいたいお前さんは普段から言葉が過ぎる、そんなことでは軍の信用が落ちてしまう」と、多弁饒舌をたしなめ強くその反省を促した、軍部の勝手横暴については国民の多くが心ひそかに外観しながらもテロを恐れるの余り、沈黙をせざるを得なかったが、この恐怖時代にただ一人老齢に鞭打ち、脅しに屈せず、命を張って軍部を誹謗した吉次郎の熱意と勇気に国民は拍手喝采、各新聞社は絶賛の辞を表明した
(吉次郎吉田中学設立の話)
吉田町長時代に吉田中学を設立する為、大口の寄付を求めて上京、先ず村井保固を訪ねた所、村井は直ちに承諾
「いくらいるんだ、俺は幾ら出したらいいんだ」と聞くと、吉次郎は「何ぼでも出しなはいや」と言った「じゃ5万円だけ出そう」と保固は寄付願いに5万円也と記した
それを持って清家など町の幹部は文部省学務局長の所に行ったが「四国の片田舎の小さい町で中学校なんて財政上無理だろう」と大変冷淡な返事
そこで吉次郎は懐から5万円(今の5億円)の寄付願いを見せ「金ならここに、ちゃんと5万円ある、宿に帰れば1万2万の金は何時でもある、金のことなど問題じゃない」と大見栄を切った、すると局長は「宿ってどこかね?」と聞いたので「高輪の山下亀三郎の家だ!」と答えたところ「それなら大丈夫でしょうな」と局長は煙に巻かれてしまった
そのころ亀三郎を知らぬ人は無いほど、彼は有名な「海運王」であった

このビデオの最後に講演者の赤松氏は熱く語った
「幕末から明治のころに生まれた青雲の志ある人々は国の為、社会の為、故郷の為という気概で人生を全うした。「坂の上の雲」の三人然り、秋山真之の盟友、山下亀三郎も然り、その竹馬の友、清家吉次郎も然りであります。今日の政治家、経営者リーダーたちに、この先人の生きざまに学べと声を大にして叫びたい思いでございます」
吉次郎は昭和8年秋、東京で病を得て、故郷で死にたいと帰郷の途中、神戸港で見送りの親友・亀三郎に
「徹頭徹尾貴君の御世話になった。これで御別れする。」と言葉を遺し、病牀わずか半年の昭和9年2月23日67才にて没した。
吉次郎が住んでいた旧邸は、今、吉田高等学校の校門脇にあり、毎年2月23日の命日頃には紅梅が咲き始める

一句
無逸忌や梅を見上げる学徒かな

(写真は合同祭ビデオから引用)


  合同祭の葬儀