古谷重綱アルゼンチン公使

清家吉次郎は 、昭和2年1月17日欧米視察に出発、北米を巡り、4月アルゼンチンを訪れた。当時のアルゼンチン公使は、山下亀三郎の親戚にあたる古谷重綱だった。
古谷公使の兄・久綱は、内閣総理大臣秘書官衆議院議員で、「トランパー」に記述しているが、亀三郎とは入魂の間柄で秋山真之との間を取り持った人物である。
 古谷兄弟は、伊予吉田の隣町宇和町明間で生まれた。共に同志社に進み新聞記者から外交官になった。
古谷重綱公使は、外務省通商局長、メキシコ駐在アルゼンチン兼ウルグアイパラグアイ特命全権公使等を歴任。アルゼンチンでは、よく在留邦人の世話をし、「平民公使」として親しまれた。1928年、官を辞しブラジルに移住した。ブラジルでは、80アルケールス(1アルケールスは2町5反)の大農場に、コーヒー栽培、養蚕等を経営。この営農資金協力者には、愛媛出身の村井保固(2万円)・佐々木長治(3千円)等が含まれていた。
(出典:wikipedia
重綱の息子、綱武(1908年5月5日‐1984年2月12日)は文芸評論家であるが、妻の作家・吉沢久子氏の「素敵な老いじたく/集英社文庫」によると、(父はサンパウロで事業し、戦後は、ブラジルの日本人会の会長を引き受けたりもしたようです。母・光子が亡くなる4,5年前にブラジルで亡くなりましたが、子供たちの誰も、死に目にあっていません。父は日本からブラジルに渡ったまま、二度と日本に帰ることなく、ブラジルの土になりました。お墓も向うにあるのです。こうと決めたら、ふりむくことさえしない、ほんとうに明治の男でした)と記されている。
 また夫・綱武について同書に「ロンドンから四国の山村へ」と題し、父の生まれ故郷宇和町明間で1年間過ごした話を記している。
=要約すると、外交官だった父重綱の任地ベルギーで生まれ、ロンドンで育ったが、満6歳の時、国内勤務になった両親は、息子綱武だけを故郷宇和に住む祖父母に1年間預けた。明間尋常小学校に入学したが、当時の世界の首都ともいうべきロンドンから四国の山村での生活は人生の大激変だった。田舎から神戸に迎えに来ていた祖母と汽船のデッキで、港に見送りに来た父をみた。重綱は羽織をはおって黒い兵児帯をしめ下駄ばきで立って見上げていた。
 吉沢久子が不思議だったのは、長男だけがなぜ、わずか6歳で両親とも弟妹とも別れて、父の生まれ故郷の祖父母に預けたのかということだった。
海外転任の多いこと、跡取り息子を安定した環境に定住し、日本人としての学校教育を受けさせることと、夫・綱武が生前言っていた言葉(父は祖父から受けた家庭教育を高く評価して、そういう祖父母であれば孫を甘やかしてしまうことはない、東京に比べて辺地ともいうべき山村というマイナスをはるかに上回るほど、父にとって大事な事だったに違いないんだ。何しろ父はかつて自分が田舎で質実剛健な日本人として両親から育てられたように、ぼくのことを育てたいと思っていたから)と記している。=


(アルゼンチン大統領に謁見せる当日撮影・右/古谷重綱公使)
=出典:国立国会図書館デジタルコレクションー「欧米独断」=