伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし(祭り料理)2

(祭り料理)2

お祭りで子供の楽しみは、やはり各家に伝わる郷土料理などの御馳走である。
三瀬家の料理は評判だったのでしょう、親戚縁者など来客の話も面白く書かれている。

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ところで料理をするにはいろいろな器具や道具が要る。普段は使わないそれらを引っ張り出して、洗ったり拭いたり、こちらの準備も大変である。当時は現代のように電気機器やら何やらと便利な道具が揃っている時代ではなかった。まず水道が無いガスが無い。水くみ炭火起こしも子供の担当、ぼやぼやのらくらしてはいられない。ぐれたりすねたり、わがまま言っても誰も相手する暇がない。それどころか下手をするとゴツンやパチンを食らいかねない。せいぜい放って置かれるだけである。不満は自分で消化するしかなかった。現代の恵まれ過ぎた子供がかわいそうに思えてくるのは、あながち嫉妬からだけではないであろう。
料理の話に戻る。
寒天料理は少々地域色が出ていたからか、あるいは母独特の味だったせいか、その後、同じような味のものに遭遇していない。見た目ほどの感激がなかったせいかもしれない。
少なくとも子供向きではなく、卵焼きに比べるとスターと脇役に位置していた。しかし祭り料理には欠かせない一品である。
まず寒天を水に入れ加熱して溶かす。かつお節や新鮮な魚のだし汁で適度な粘度に調節しながら塩、その他で味付けをする。そこへまだ熱いうちに卵を何個か割ってかき混ぜながら落とす。金属製の平らな容器に流し込んで静置すると、綺麗な大理石模様、琥珀色の寒天が出来上がった。
羊羹の味付け、小豆の潰し加減は各戸で微妙に違い、それぞれが独自の味を出していた。わが家ではいつも羊羹の出来が悪いと父がクレームを付けていたのが今となっては懐かしい一こまである。
町では料理の評判もいつのまにか行き渡っている。誰さんとこの出来がどうのこうのと噂が飛び交い、自慢の料理を小皿に載せて隣りの奥さんの評価を仰ぎに行く。隣りも自分の料理の味見、批評を強いに来る。いずこの母さんたちも、それをいちいち気にしている暇もないのがむしろ救いであったろう。忙し過ぎて自己満足していなければやっていられない。座敷で味わう客の方も、作る方の期待に反して少々の味の良し悪しなど気にしない。みんな喜んで食い荒らして行った。
今にして思えば、あの小皿に乗せて隣近所を回っていたのは、味の評価を気にしていたことさることながら、一種の付き合い、味見交歓、気心を通じ合う手段の一つになっていたのであろう。
さて、こうして出来上がった料理は座敷用テーブルを二つ三つくっつけて、その上に並ベる。尻尾を跳ね上げ容器からはみださんばかりの鲷の生け作りや姿焼きをメインデイツシュに、大皿、大鉢、深皿など焼物や漆塗り、いずれも自慢の容器に盛って見栄えよく飾り、配置する。バイキング料理の和風版である。振り返ってみれば何のことはないバイキング風はこちらが先輩ではないか。まして戦後の一時期のバイキングブームは、一昔前の日本への回帰でしかなかったように思えてくる。
食器の準備も大ごとであった。お銚子におちょこ、小皿にお椀、取り箸に箸、スプーン、小物の準備も数が多いだけに並大抵ではない。食器棚やら納戸の奥から容器を取り出して洗ったり、ふきんで拭いたり乾かしたり、代々伝えられた物の中から選んで使うから、あの皿はどうの、この鉢はどうのと父と母の講釈も入る。自慢のものを割っては大変と一生懸命になる。まだぎこちない妹たちも加わってこれらを手伝った。
ところがである。ところがこれらの料理がなかなか口に入らなかった。
青年期の兄、姉たちの同僚や仲間、隣り町など近郷の親戚縁者など、早い人は昼食も終わり切らないころからやって来る。その後も入れ代わり立ち代わりやって来て夕方暗くなるまで切れ目がない。客の方は祭りを当てにしている。3 0人や4 0人では収まらなかった。それがどっと押し寄せて来て、ご馳走を食い荒らして行く。
姉妹、弟たちはお酒の燗と座敷への運び役で手いっぱいになる。大勢の来客に一升瓶も次々と空になる。その上に酔っ払って水だお茶だと騒ぐのに対応しなけければならなかった。当日はいずこも同様だからお手伝いさんも当てにできない。家族総出の応対になった。
母は祭りの前後ほとんど台所に縛り付けられた。
当時の奥さんたちは大なり小なりみんな同じような状態であった。化粧にもあまり構っていられない。
むしろ髪を振り乱して活躍という状態になる。
祭りに限らず母の晴れ着姿の記憶が少なく、人生の真中を戦中戦後に過ごした父母の時代の「あわれ」をついつい思ってしまう。
祭りの前後は母を手伝って助けねばならないと、外をうろつきたい気持ちが自然と抑えられた。祭りの日に町を歩き回った記憶があまりない。
 さて、来客の続きである。姉、兄たちの仲間に加え父母の仲間も挨拶に立ち寄る。日ごろのご無沙汰のお詫びにちょっと挨拶のつもりが、主に男どもはそのまま上がり込んで客の輪に埋まってしまう。わが家にもぜひ来てもらいたいと誘いにきたつもりが、ミイラ取りがミイラになりドンチャン騒ぎに加わって訳が分からなくなる。そこへ、またまた思わぬ珍客も加わったりして上を下への賑わいになった。
玄関は店も兼ねていたから一般家庭よりはまあまあ広い方であったが、履物と人との雑踏になった。うろうろ自分の履物を探す人、挨拶を交わす人などが入り乱れ、もみ合ってごった返す。
牛鬼が来たとき、みんながそちらに気を取られるからやっと一息つく。
二、三の酔客を残して店先や二階の窓、道路側に鈴なりになって牛鬼をはやし立てた。
それに潜り込んで、やっとわれわれもお祭り気分を味わうことができた。
日暮れて酔客が引き揚げていくころには、ほとんどの大皿、大鉢、深皿は空になっていた。見事な鯛の丸焼きは頭と骨だけになる。それでも料理の種類が多いから人気不人気の差でかろうじて残る料理にありつく。とはいっても子供たちも、いろいろ手伝いながら味見も手伝うから結構賞味していたことになる。
お酒もどさくさに紛れて口にした。祭りの日には子供のくせに結構いい気分になった。
父もどうゆう訳か酒にはおおらかで、子供がおちょこを手にしても、にこにこするだけでとがめたりしなかった。むしろ幼児のころから父にお酒を飲まされたくらいである。正月の朝に、めでたい日だしめでたいものだから、お神酒を飲めと注いでくれた。うまいと言うともういっぱい注いでくれたりした。その割には好きではあるが強くはない。
最後に郷土料理で忘れられない味を二つ三つ紹介したい。ぜひ一度卜ライしてみていただきたい。
一つは「まるずし」という。
小ぶりなアマダイ、小イワシやホウタレあるいは小アジの頭と内臓を取り、開いて骨も取る。これを酢に漬けて五分から七分くらいに漬かったところで二つ折りにし、間にさっぱりした味付けのオカラを挟んだものである。ご飯を握り寿しのように挟んでもいいが、特にオカラを挟んだものの方がうまかった。
オカラは軽く火をとおし、それにかつお節などのだし汁と三杯酢などで味付けし、細ネギを細かく刻んで混ぜる。オカラの湿り具合がポイントで、火をとおし過ぎてからからになっては評価が落ちる。ベちゃべちゃと水っぽいのもいけない。水分の調整とさっぱりした味付け、魚のにおいの消し加減がうまくいくと何とも美味いものである。酒の肴にぴったりであった。
小ぶりで一口に頰張れる程度がいい。いつのまにか五つも六つも食べてしまう。大ぶりに作るとハンバーガーみたいに掴み食いになる。
最近はやりのハーブをうまく組み合せると新鮮味のある献立になるに違いない。ワサビ、紅しようが、シソ、サンシヨなどはむろん、すだちやレモンもいい。ミカンやユズの皮のみじんはよく使われた。
もう一つは、「さつま汁」といった。
鯛など上等の白身の魚を焼いて身をほぐし、ゴマと一緒にすり鉢ですり潰す。そこへ焼き味噌とだし汁を加えて味付けをする。魚の身をたっぷり使って、とろとろとした「たれ」にするのがこつである。あとは細ネギを刻み込み、炊き立てのご飯の上に掛けて食べる。ちょうどカレーライスのようなものだ。ご飯には少し麦を加えると、どうゆう訳かいっそう味が引き立つ。
いま一つ取っておきの味があった。「皮竹輪」である。これは自家製ではなく、おばあちゃんからの格別の贈り物であった。ハモやアナゴ、エソなどの皮をはぎ、この皮を笹竹に巻いて炭火で炙ったものである。たれを付け、こまめにくるくる回しながら炙る。手作だから余計に値打ちがある。
何よりもハモなどふんだんに手に入るものではない。皮だけ取るから残った身の方の値打ちが下がるのではないかと心配した。手間暇かかるしまさに珍品であった。めったに手に入るものではない。おばあちゃんの店に魚を買いにお使いしたとき、ご褒美にとアツアツを手渡してくれた。ふーふー吹きながら食べた。油が乗っていて掲色の艷と適度な歯ごたえ、それにたれの味が調和して、焼きたての絶品であった。


 (画・三瀬教利氏)