伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし(亥の子)

吉田まつりの話はここまでにして、三瀬教利氏の回想記「ジュラ紀前」から懐かしいエピソードを掲載させてもらいます。

いのこ(亥の子)
旧磨の10月、亥の日に子供組みの行事があった。14歳以下の男の子が、その年お宿を勤めてくれる有志の家に集まって収穫を祝い無病息災を願う祭りである。「いのこ」「おいのこ」「おいのこさんと」といった。石で作った「いのこ」を亥の子唄を歌いながら自丁内、各戸の前の地面をついて回る。石に生産の呪力を込め悪霊を鎮めるのだという。
「めでたいな一めでたいな一めでたいものはお杯、中には小判の渦が巻く エー卜ヤッサイ 卜一ヤ」と歌いながらつく。各家は「いのこ」をついてもらったお礼に心づくしを渡す。ミカンや菓子など現物支給の場合もある。
「いのこ」は下側を丸めた円柱状の石の胴部に溝を掘り、この溝に鉄輪をはめ、鉄輪には鉄環を付けて引き綱を結んだものである。この「いのこ」を中心に放射状タコの足のように広げた引き綱に一本につき数人が取り付いて、息を合わせて石を吊り上げ打ち下ろす。
みんなが息を合わせると20キロ前後もあろうかという重い石も軽々と宙を舞い、地響きたてて地面に打ちつけられた。亥の子唄のリズムに合わせて「いのこ」は何度も上下し、地面にきれいな丸いくぼみができる。
綱の前の方、石の近くを年長組が持ち、その後ろ残りの部分に数人が並んで配置し綱引きの格好で腰を落としてつく。綱の端には幼子が位置し、ただ綱を握るだけで興奮した。

この「いのこ」祭りは町の各町、各丁目ごとに組みを組んで行なわれる。戸数によって複数の丁目が一緒になることもある。
祭りの前の数日間は夕食後に「お宿」に集まり、みんなで亥の子唄の練習をする。毎年だから主に年少組みが覚えるためであるが、唄の合間に年長組みの者が何かと指図して威張る。年長組みにとっては得意満面というところである。
「お宿」は有志が引き受けてくれるが、男児誕生の家が祝いを兼ねて引き受けることが多かった。
祭り前夜お宿は表戸を開け放ち、ひな壇を組みたて、軒下に大きな提灯を下げて飾り付けをする。「いのこ」には裏白の葉を着けてダイダイやユズを載せ、雛壇の前に並べた。
雛壇には鏡餅や稲穂、ダイコンや果物、餅や饅頭、お菓子などを供え、ロ一ソクをともしたりした。これら供物は解散時みんなで均等に分配して土産に持ち帰る。これがまたうれしく楽しみであった。
また前夜祭ではみんなが「お宿」で雑魚寝して一夜を明かした。年長組みの者が知ったかぶりしていろいろな話しを聞かせて得意がる。聞き覚えの怪談をしたり近所の女の子のうわさをしたり、あやふやな知識で男女の違いを聞かせたりもする。幼少年期の社会教育の一つにもなっていたのであろう。
みんなが寝込むのを待って、いたずらっ子が寝ている子の顔に墨を付けて回ったりして面白がる。幼少組みは一週間近い緊張と興奮で疲れ果てていて、墨の冷たさぐらいでは目を覚まさない。翌朝、寝ぼけ眼で起き上がってみると隣りの子の顔が真っ黒。下半身には紙縒りが結び付いていたりして大騒ぎする。
祭り当日は朝から前夜飾っておいた「いのこ」を裏白を着けたままついて回る。何軒かついて回るうちに裏白は少しづつちぎれて取れていく。くぼみ周辺にこぼれ散った裏白の端切れが、妙に神聖な雰囲気をかもし出した。
「お宿の神様ごめんさいチンチンカラリヤマンカラリ鳴るは滝の水の音エートヤッサイトーヤ」
これが最も頻繁に歌われた唄である。子供には訳の分からぬ呪文のような文句であるが、意味などどうでもよかった。ただみんなに負けないよう覚えっこするだけであった。
自丁目の家々をこうして順番について回った。一つの丁といっても路地裏まで丁寧に回るから、戸数にすると100軒近くあったと思う。一つのいのこ石だととても続かない。
2個あるいは3個で分担してついた。むろん戸数は多い方が志も多くなるからいい。疲れ知らずの子供に任せるわけである。現今と違って子沢山の時代ならばこそというところであろう。
ついて回っている途中で、ほかの町内あるいは隣り丁目の組みと出会ったりすると、その場で、あるいは神社の境内など身近な広場に立ち寄って、つき合いをする。他流試合である。どちらが元気か、より大きく深いくぼみができるかを競った。組みの中で一番大きい「いのこ」を受け持っているのが代表してやったり、数個の「いのこ」で団体戦をやったりした。
ちなみに各組には「いのこ」は一個だけではない。たいがい大小数個が寄贈され代々伝えられている。わが三丁目の一番大きいものは町でも一、二を争うものであった。見事な御影石で、上面には銘の大きな字が彫り込まれ研きが掛けられていた。20キロ前後はあったと思う。
「お殿様のご紋は三段梯子にひよの鳥、笹の葉に飛び雀エートヤッサイトーヤ」
吉田町は伊達家三万石の城下町であった。伊達政宗の長男秀宗が、関が原合戦の戦勝褒美(?)として仙台から遠く伊予宇和島に十万石で移封され、のち秀宗の五男宗純が三万石を分封されて吉田に居館を置いた。かの忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩とともに朝使の饗応役を仰せつかり、吉良上野介義央の指南を受けた伊達左京亮宗春(村豊)は三代目である。
吉田藩は明治4年まで9代続いた。
小さい町ながら御殿内とか焔硝蔵、北小路、東小路、西小路、本町、元町、大工町、裏町、お舟手、魚の棚などの町名が付けられ、桜町、横堀、浜通り、川口などの呼び名もある。近郷には鶴間、白浦、法華津など綺麗な地名もあり、南君(なぎみ)、君が浦など、何となく ロマンチックな地名もある。何かロマンチックな言い伝えにより名付けられたのかもしれない。
「男の子ー 男の子 男の子よ忘れるな、君には忠義、親に孝 世界(社会)奉仕は人の道 堕落は世間の笑いもの 大きくなったらそのときは 人の鑑となるように いのこついて祝いましょう エー卜ヤッサイトーヤ」
これは当時としては新しい歌詞であったであろう。当時の教育訓示的な風潮が出ていて、男児の心構え、理想像が読み込まれている。特に男の子が生まれた家でよく歌われた。
ところで5 0数年も経った今でも不思議と当時覚えた亥の子唄がすらすら出てくる。三つ子の魂百までとは、このようなことも指しているのだろうか。

「お正月の初日出に 白きネズミが三つ出でて 口には小判をくわえ込む 庭には蓬莱宝船 エートヤッサイト一ヤ」
亥の子唄も結構いろいろあった。中には「おお頼むぜ、めでたいのをやってやんなはいや」と注文をつける家もある。
「高い山かーら 谷底見ーれば」
「エイコラコラ」
「ウリやナスビの花ー盛り面白や」
「ヒヨーノヒヨータン ヨーワヨイ卜ヤツセ」。
「舟が出て行ーく 煙がのーこる」
「エイコラコラ」
「のーこーる煙は雲ーとなる面白や」
「ヒヨーノヒヨータンヨーワヨイトヤツセ」。
この唄はゆっくりしたテンポで歌う。腰も落とさずほとんど突っ立ったまま、綱を引くときだけ力を入れて石を持ち上げ、下ろすときは綱をただ緩めるだけといった調子である。
「いのこ」祭りの間、大人たちはにこにこしながら子供たちを取り巻いて、わが子の振る舞いに目を細めたり気をもんだり一喜一憂するが、子供たちの自主性に任せ積極的にはかかわらない。一歩引いて子供たちを支えてくれた。
祭り当日は町内のおばさんたちが「お宿」に集まって、子供たちの食事やらなにやら何かと世話をしてくれた。白い割烹着に身を包み、にこにこしながら赤飯炊いたりおにぎりを握ったり、魚を焼いたり盛りつけをしたり子供たちのご馳走の用意をしてくれる。おばさんたちにとっても楽しい賑わいのひとときであったろう。
私の母は家事と子守り、家業の手伝いの掛け持ちで余裕がない。こんなときおばさんたちの仲間入りがなかなかできなかった。さぞ覗いて見たかったことであろう。むろん当時は余裕のある家庭の方がむしろ少ない時代であった。似た境遇の子が多く、子供の方からしても、もたもたしているところを覗かれると困る面もあった。
「いのこ」に限らず父兄会や運動会など、父母が何かと顔を見せる家庭もあるにはあつたが、わが家ではそれがほとんどなかった。やむを得ず教育方針にしたのかもしれない。
子供の方も先刻承知していて気楽でもあった。またある種の鍛錬になって今となってはむしろありがたく思える。「いのこ」は昭和20年前後一時中止になっていたが、戦後いち早く復活したので私は数度経験した。
平成11年帰郷したとき復活していることを知った。女の子も一緒で大人が引率していた。