伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし(祭り料理)1

(祭り料理)1
三瀬教利氏の回想記「ジュラ紀前」には、お祭り料理の事が詳しく書かれている。
三瀬氏は大阪大学卒で大手製薬会社に就職された。文筆も達者で昔懐かしい料理の数々が細かく記されているが、今ではこのように手の込んだ料理を作る人はいないだろう。
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さて、祭りにはご馳走が付き物である。こちらは母と姉妹たちが主役であった。材料集めから新鮮な魚の手配、9人家族のうえに来客が多いから並大抵の量ではない。
当時はいずこも大家族が当たり前の時代である。1軒当たりの人数は現今に比べ圧倒的に多かった。おばあちゃんのうち、私のいとこは8人、母も弟妹合わせて7人であった。
長女である母は気丈な性格にならざるを得なかったであろう。サラリーマンに嫁いだ叔母さんたちとは雰囲気が違っていた。その性格は生れつきだけではなく置かれた環境から身に付いたものに違いない。普段の気丈さと一変した顔を見せることもしばしばあった。
それはさておき祭りのご馳走である。まず材料集めから始まる。
大きな里芋に小芋、ジャガイモ、サツマイモ、山芋、カボチャにナス、卜マト、キュウリ、ニンジン、ダイコン、イガウリ、フキ、カブ、白菜、ネギ、ワケギ、唐芥子、タマネギ、ゴボウ、レンコン、ズイキ、キクナ、キクラゲ、シイタケ、かんぴょうに干しダイコンなどの野菜類から、大豆に小豆、えんどう豆、白豆、トラ豆、黒豆、厚揚げに豆腐、コンニャク、高野豆腐、ソーメン、春雨、オカラ、コンブにワカメ、ヒジキ、海苔、寒天、卵、イカやタコに貝にエビ、魚などの魚介類。
それに塩、砂糖、味噌に醤油、酢などの調味料から、ゴマ、ショウガ、シソ、ワサビ、スダチ、ダイダイ、ユズ、サンショウ、七味などの香辛料、ミカンに柿、梨、ブドウ、栗などの果物など、手に入るものは片っ端から集める。
現代のように年中各地の産物が手に入る時代ではない。遠来のものは限られるし春と秋では手に入るものが微妙に違ったはずだが、ここでは春秋の記憶が入り混じっている。緑色の葉菜もまだいろいろあった。
ただ最近の状況と違い、いちごやリンゴの記憶が薄い。いちごは野山で食べるものという感覚であり、リンゴはまだ東北が遠過ぎたのであろう。キャベツの記憶もあやふやである。その代りワラビ、ツバブキ、竹の子、アブラナ、菊菜など、まだいろいろ有った。
また肉の料理の記憶も薄い。海に面した町であったこともあろうが、地方ではまだ肉がふんだんに手に入る時代ではなかったのかもしれない。
いろいろ集めた材料を洗ったり葉っぱを取ったり皮をむいたり、一から始めなければならない。調理前の作業もなかなかどうして手間暇かかる。現代のように綺麗に洗ってパックされたものや冷凍食品など、まだない時代である。加工済みのものは竹輪や蒲鋅、巻き焼き、ジャコ天など魚の加工品と饅頭、菓子のたぐいぐらいのものである。
皿鉢料理は外注することもあるが大部分は自家で賄うから大変である。洗い場と台所は各種の道具と相まって足の踏み場も無いという状況になった。
幸い魚の調理は母の得意であった。刺身作りは言わずもがなイワシや子アジなどの小魚も、頭を落とし内蔵を抜き取り、さっさと開いて3枚に下ろしたりした。その包丁さばきは素早く、私たち子供が取り囲んでその手馴れた手先によく見とれたものである。
キビナゴなどの小魚は指で器用に頭と内臓を摘み取ったり、竹の表皮の小片でスース一と一気に2枚の片身にする。タコ、イカ、ナマコも無造作に料理してしまう。
ナマコの酢漬けは日ごろから父の大好物であった。酒のさかなにぴったりで、晚酌のつまみに賞味していた。漁師さんの方も先刻承知していて、まとめて売れるよい引き取り先になっていた。子供にはなかなか馴染めない料理だが、私は比較的早い時期、子供のくせにいつの間にか好きになっていた。
横道にそれたが祭り料理に戻る。
魚の種類も多く、鯛、ヒラメ、ブリ、ハマチ、ヨコワ、アジ、イカ、これらは刺身にされたり焼いたり煮たり。サバはサバ寿し、アナゴは蒲焼、イトヨリ、イサギ、オコゼなど煮魚も多い。キスやコチ、エソなど底ものは主にすり身に使われた。
イワシ、ホウタレ(カタクチイワシ)、イカナゴなどの小魚は新鮮だから酢の物が合う。タコはさっと茹でて野菜と一緒に酢の物にしたり、こってりと煮込んだりした。イカは大小によって野菜と一緒に煮付けにもされる。
地域独特の料理としてフカの湯引きの人気が高かった。ぷりぷりしていて真っ白で、癖のない淡白な身が力ラシ酢味噌によく合った。特に酒飲みが喜んで食べた。
鯛は祭り料理の主役で、刺身、塩焼き、煮付け、すり身、あら炊きなど、あちこちに顔を出す。鯛の姿焼きや煮付けも大皿からはみ出さんばかりで、生け作りと並んでメインデイツシュをなした。
鯛の姿煮とソーメンを組み合わせた料理もうまかった。大きな深めの皿いっぱいに盛られた。取り皿に鯛の身をほぐし取り、卵の錦切り、味付けシイタケ、ネギなどを添えてソ一メンに乗せて食べる。「鯛めん」といった。
魚のミンチ作りは子供の手伝いの定番、味噌すり小僧よろしく鉢巻を巻いて取り組んだ。このミンチをハンバーグ風にフライパンで焼いたり油で揚げたり、お汁に浮かべたり、ゴボウやニンジンなどの野菜と混ぜてかき揚げにしたりした。
山芋すりは私の担当。自分が好きなものだから喜んで取り組んだ。山芋は現代のように皮を分厚く切り取るようなもったいないことはしない。よく洗って皮ごとすりつぶす。そのせいか色は少々茶色みを帯びるが粘りっ気が強烈であった。すり棒に絡み付くし一塊になって持ち上げられる。アミロぺクチン含量が多いのであろう。分子の架橋密度が高かったはずだ。糸引きというよりプチンと引き千切る感じで、だし汁で十分希釈してやらないと適度な粘度にならない。それでもまだ箸で持ち上げられた。のどを通るときの感覚も柔らかいお雑煮餅に近い。この山芋汁にはミカンの皮や細ネギのミジンを散らすと味がいっそう引き立つ。
赤飯や散らし寿し、巻き寿しも並行して作る。巻き寿しには「そぼろ」が付き物である。
鯛やキス、エソ、コチなど白身の魚を焼いてその身をほぐし、軽く火をとおしながら細かくし味付けと色付けをする,色はピンクに決まっていた。海苔を軽く炙り、その上にご飯を広げる。ご飯の上、中央に縦じま状に「そぼろ」を載せる。さらにその上に細長く切った味付けハモや干瓢、キュウリ、たくあんなどを寝かせる。あとはスノコで巻き締めて出来上がる。
海苔にご飯、そぼろ、具の順にリング模様が綺麗で、ピンクの「そぼろ」が各材料を引き立てた。
「福めん」と呼ぶ地域料理も結構人気が高く、「そぼろ」をたっぷり使った料理である。
うどん状にコンニヤクを千切りにし、深めの大皿に山のように盛り上げ、その上にピンクのそぼろと細ねぎ、ミカンの皮のミジンを彩りよく乗せる。祭礼や婚礼には欠かせない縁起物の料理である。これも大皿から取り皿にとって混ぜて食べる。
祭りの卵焼きは普段のものと違い、大きくて配合も工夫が凝らされる。卵焼きは子供の一番の好物、巻いて焼き上がる一部始終をジーと見つめて胸をときめかした。あの時のときめきは尋常ではない。
これら料理の手伝いは大変であった。しかし決してつらいものではなかった。なにしろ早く食べたいから一生懸命になる。ご馳走の良いにおいに包まれて姉妹たちに加わって熱心に手伝った。
祭りは、あれもこれもで智識の習得、手先の訓練、共同作業の体験にもってこいではなかっただろうか。最近の祭りのように、一部の人に任せっきりで見にも行かない人が多いという状況ではない。各戸がそれなりに準備し、自然と参加していた。
あとに楽しい行事やご馳走が待っているから励みになるし、不器用者でも普段離れているすね者でも何かしら参加しないでいられない雰囲気になる。周囲も人手が欲しいから受け入れやすい。また、いろいろなことがそれなりに身についてくる。智識の習得と技能実践を合わせた立派な現場教育である。町内の一致した興奮に参加して社会の意味を知らぬ間に体感していた。