伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし        (闘牛)

闘牛(ジュラ紀前より引用)

 

闘牛も垣間見たことがあった。これもまだ幼児のころである。

家の対岸、山すそを通っている道路を川沿いに上ると、山すそがわずかにへこむでいて、ちょうど小さな闘牛場が一つ造れるくらいの平坦部があった。半周が山の斜面で自然の観覧席になっていた。川沿いの道路側を太い丸太の柵で仕切りると山側は柵なしでもいい。

当時はあちこち各町で闘牛が催されていたらしく、吉田町の闘牛もかなりの規模であった。横綱大関などは立派な絨毯ほどもあろうかという錦織物を胴に掛け、旗指物を高く掲げて家の前を堂々と行進するのが見られた。

大きな身体でトン近くもあったのであろう、前足が短い上に鼻先が道路をこすらんばかりに頭をぐっと下げて歩く。闘牛場へ向かっている段階ですでに闘志を現していた。粘っこいよだれを道路にまき散らし、荒い鼻息で路上の小石など吹き飛ばしながら通って行った。大きいのと鼻息の荒いのに怖れをなして家の軒下、後ろの方から晛き見た。

それぞれに(しこ名)が付けられ、どれが強そうだとか、今年はあの大関横綱を倒すのではないかとか、かしましく噂も飛び交っていた。

試合前はたっぷり栄養取って角を鍛えたりする。何日間か焼酎もたっぷり飲ませたりして闘志をかき立てるのだとも聞いた。迫力あるはずである。

柵の外をうろうろするものだから、子供は危ないと追い払われるが、なかなか言うことを聞かない。怖いもの見たさに数人で、かなりの間あっちの隙間からこっちの隙間から垣間見た。

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つき添ってけしかける勢子の掛け声と、牛の鼻息が聞こえるのとで緊張感はかなりなものであった。どちらかが押し負け逃げ出すと勝負あったで、人がくつわにしがみついて引きずられながら止める。

しかし2頭の実力が伯仲していると勝負は容易につかない。角を突き合わせたまま頭を低くし、あごを土に着けたまま押し合っていて、どちらも譲らない。ただ足に力が入っていて土にめり込んだり、ずるずる滑ったりで牛が真剣なことは伝わってくる。数十分ではなく時間にも及ぶことがあると聞かされた。

慣れてくると退屈にもなるのであろう、牛の真剣さとは裏腹に私たち子供の興奮とは掛け離れて、大人たちは酒と重詰弁当持参で、のんびり腰を据えて見物していた。年に何回かの楽しみであったのであろう。娯楽にしてはかなりな規模である。

私が見た一勝負は闘牛場の中央部で角突き合わせたまま、見ている間中ほとんど動かなかった。危ないからと追い払われるまで相当長い間、二頭は動かなかった。追い払われていったんは離れたが勝負が気になる。また別の場所に回って視き見した。

ちょうどその時、1頭が力尽きたのか一瞬の隙を突かれたのか、相手に潜り込まれてしまった。あっという間に横向きになり前足が宙に浮いて逃げ足がっかない、脇の下から突き上げられた。勢子が大勢たかって必死で引き離した。やられた方の状況は確認できなかったが、わき腹を角で突かれたらしい。珍しいケースだと聞いた。

後にも先にもそれ以来闘牛を見たことがない。

ほどなく戦中戦後の時期に入り、時代の流れに流されてしまったのであろう。その後、元闘牛場はミカン畑になったままである。

産業の発展と反比例して過疎化は進む一方だし、昔のようにあっちの町でもこっちの町でもというわけにはいかなくなった。今では隣り町の宇和島布に立派な屋根付きの闘牛場が作られていて、そこで興業されるだけになっている。

闘牛は豪快さ迫力とは裏腹に、時間感覚ものんびりしている環境でないと合わないのかもしれない。飼育や準備など環境整備の労力とコストの負担も大きいことであろう。楽しみ、趣味としては贅沢過ぎるのかもしれない。

昔は随分豊かで充実した生活だったのだなあと、新発見をしたような気分になる。物質的にはともかく、少なくとも精神的には、のんびりゆったりと豊かであったに違いない。