NHK連ドラ「あさが来た」の広岡浅子と村井保固夫妻

 日本で初めての女子大の創設は明治34年(1901)「日本女子大学」で、女性実業家・広岡浅子の尽力によるものである。評議員に森村市左衛門、大隈重信西園寺公望錚々たる名士の名がある。広岡浅子と森村市左衛門は晩年に受洗してクリスチャンとなる。
 大正8年9月11日森村市左衛門が故人となったが、日本女子大学校では、追悼会が開催され、来賓の大隈重信渋沢栄一、大倉孫兵衛、法華津孝治ら追悼の辞が「家庭週報」に掲載された。法華津孝治は、伊予吉田の出身で村井保固の縁で森村組に山下亀三郎と一緒に小僧に入った。亀三郎はまもなく退社していったが、孝治は森村組の事業の一つゴム栽培の主宰者となり、村井の補佐に徹した。追悼の辞は「幼時から今日までの森村男」
山下亀三郎は「男爵の教訓を本にして」と寄せた。

 グーグル検索していると「広岡浅子と長井長義夫人テレーゼ&村井保固夫人キャロライン」にヒットした。ブログ主に許可なく披露すると、このように記されている。
……浅子が主導して、明治39年、桜楓会補助団が設立されるが、発起人20名はいずれも女性ばかりである。その中に、テレ―ゼというドイツ人の女性とキャロラインというアメリカ人の女性がいる。
 テレーゼは、東京帝国大学教授・長井長義(薬学、エフェドリンの発見者)夫人であり、キャロラインは、森村組ニューヨーク支店長・村井保固夫人である。(中略)
 キャロラインは、父親がニューイングランド地方で牧師を勤めていた家庭に生まれ、ニューヨークで村井保固が下宿していたダッドレ―夫人宅が姉の家であった。両人はこの姉宅で出会い、村井が求婚、結婚することになった。村井は明治40年頃から聖書を読み始めていたが、盟友・大倉孫兵衛の名古屋邸で巡回講演会が行われたとき、たまたま帰国していた村井(豊明会員)は、「三十年来外国貿易に従事せる経験上、日本婦人に切望する習慣」と題した講話で、森村組のニューヨーク支店で100名を越える外国人を雇って商売をしている経験を鑑み、共同一致の精神とその訓練の必要性について説いている。
 長井長義も村井保固も、信仰に厚く、愛妻家で、夫婦仲は非常によかったようである。……
更に、別日のブログに
……一方、広岡浅子と村井保固、そして森村市左衛門は、実業家でありながら、晩年、キリスト教に入信している点で共通している。浅子は、大阪教会の牧師・宮川経輝と並び、救世軍山室軍平を師と仰いだが、村井保固は、山室軍平に対して強力な金銭的支援をしている。
 浅子は、この講演会の2年後、明治44年クリスマスに宮川経輝の司式により受洗するが、村井保固は明治40年頃からキリスト教に興味をもち、聖書を読み始めている。明治41年正月には、「本年の一月一日よりは心気を新たにして決心を強くし偏に神の力に依り、、、神と人類の為に心身を捧げ奉公する事を誓するなり」と誓っている。
 その後、大正6年2月、村井保固は、異色の巡回伝道師・好地由太郎の司式により名古屋で受洗している。ちなみにキャロライン夫人は牧師の家庭に生まれている。好地由太郎といえば、森村市左衛門が同じ大正6年の5月に受洗したときの牧師である。
 山室によれば、名古屋に救世軍の会館を設ける際、在米中の村井に金五千円の寄付を願ったところ、帰朝した村井は一万円の寄付を申し出たという。救世軍の仕官学校を神宮前通に新築したとき、その資金捻出のため牛込区本村町の校舎売却計画が出たとき、村井は金四万五千円を寄付し、校舎は売却を免れ学生寄宿舎として衣替えし存続した。昭和5年以降、山室が救世軍から得る手当て分を村井は寄付し、さらに山室の住宅一棟を建て救世軍財団に寄付している。
 昭和11年2月、村井が慶応病院の病室で神に召されたとき、山室軍平は前日に続いて病床を訪れ、祈りを捧げ、見送っている。