吉田三傑「村井保固傳」を読む 4

熊崎家へ奉公
三治は12歳まで玉田の許で勉強に励んだが、家計の苦しいのは分かっている。そこで父母の荷を軽くするため奉公の道を考え、菩提寺海蔵寺の和尚に奉公口を頼んだ。
和尚の口添えで藩の家老熊崎家に住み込みで奉公するようになったのが13歳の2月1日だった。何でも精出して働いた。庭掃除は葉をゆすって枯葉を落とし塵一つない。溝のどぶを浚って水はけを良くし、小池には清水を湛えるという調子で小まめに働いた。
熊崎家の執事木村利右衛門は晩酌が好きである。三治は如才なくお酒を買ってきましょうか、豆腐を取ってきましょうか等御用を務める。老執事のご機嫌がいい所を見計らって、夜分御用済みの後、勉強に外出したいとお願いした。
お許しが出て毎晩岩田良仙という医師のもとへ漢学の稽古に通った。
この良仙の父晴海は福澤先生と同じころ、大阪の緒方塾に学んだ。後年村井が晴海の話をすると先生は『オーあれは俺の大先輩である』と云って驚かれたという。
三治は母の教訓の通り奉公を実行した。隠居が字を書くときは硯に水を入れて墨を磨り紙を展べる、外出には履物を揃える、自分も続いてお供する。老夫人からも三治々々と呼ばれてお菓子を頂戴した。誠実と勉強の前には天下敵なし、三治の周囲は不断の春風で2年の歳月が夢の様に過ぎた。
しかし幕末の動乱は三治の運命も変えた。慶応3年徳川慶喜大政奉還、翌年は明治と改元され600年に亘る武家政治が終わり王政維新の大業が開幕となった。
目まぐるしい騒動の中に版籍奉還となり吉田藩も御多分に漏れない。
従って300石の熊崎家も家禄に離れる。御隠居は亡くなり丁稚の用事も上がったりで三治は我が家に引き下がることになった。