吉田三傑「村井保固傳」を読む 3

生 立

幕末から明治にかけて一世の先覚者と云はれた福澤諭吉先生の書簡がある。
丙申元旦
日出之東日沒西 春風萬里五雲齊
帝京朝賀人己散 臺北南鶏未啼

日本も中々廣く相成候 英皇の領土には日沒なしと云ふ 日本は尚未し也
明治二十九年一月十一日
                      諭 吉
村 井 樣

 『ここに云う村井様とは何人であるか。
彼の名は保固、幼名三治と云って福澤先生愛弟子の一人である。
彼は安政元年9月24日伊予吉田藩御船手に、父林虎市と母さよの二男坊として生まれた。
(中略)
今一つ特筆に値することは、名産としての伊予蜜柑である。独特の香気と風味に於いて双絶の評あり。土地の名物男で『村井の吉田探題』と称された故人清家吉次郎の如き、行く行くは世界一の名声を揚げて見せると力み返ったものである。

村井の生家は藩の下士である。父林虎市は後に名を周詢と改めたが、御船手組に属し小祿を食んでゐた。朴訥と律義の内に侵し難い厳格味を持つて居ったから道行く誰彼も向ふに虎市さんが見へると、わざとかはして避ける程であつた。
非常な精カ家で朝は暗い中から夜は遅くまで仕事を止めない。自然技量も優れて居ったつたと見え、彼の造つた御座船は隣藩の大洲へも聞へて嘖々の評判を傅へられた。
或日、竹藪の中で腰に差した鎌が辷り落ち足を怪我したその傷が1年以上も癒えないで難儀したことあり。このまま不具にでもなつたら、二人の子供の行く末が案じられると思い悩んだ末、寺子屋の師匠をして糊口の途を立てやうと、爾来、一生懸命に獨學勉強して筆札の技を磨き、遂に同輩の間に能書家と云はれるやうになった。
母さよは明朗で活淡な女性であったが、もともと貧乏な家庭のこととて生活の苦労は一通りではない。
三治は子供の時から負け嫌ひの手に追えぬ腕白ものであつた。何か気に喰わぬことがあると、仰向けに大の字なりで寝たまま箪笥を足蹴りにする。近處では又三ちやんが怒つたと噂したのである。腕白の癖によく泣く、鼻垂れ三ちやんだった。』(伝より抜粋)
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四国は義太夫浄瑠璃が盛んで幼年の三治は、近所の遊び友達忠五と芋堀の仕事中に、芋の葉を使って忠臣蔵を演じた。踊りも好きで手ぬぐいを被っての女形が得意だった。
唯一つ変わっていたのは、近所の人から使いを頼まれると、癇癪を起して泣いているときでも直ぐに飛び出して行った。父は他家の子供をこき使うと気に入らなかったが、三治は重宝がられたり喜ばれると気楽に引き受けた。使いは三やんに限ると云われるようになった。
三治8歳の時、玉田喜惣治の門に入った。読書手習いを学び槍の稽古で鍛えた。彼の従兄弟宮川泉六、下川登鯉、宮本某などのお組の者と士分の子弟が対立してよく喧嘩をするが、お組方に林三治が居ると云って何時も一敵国の思いをさせる餓鬼大将振りは三やんの得意とする所だった。

父 林周詢

 母 さよ
(出典:村井保固傳)