吉田三傑「村井保固傳」を読む 5

大信寺の飯炊き

憐れ三治は16歳の春、立間尻の大信寺に飯炊き男として住み込むことになった。
和尚の深譽上人は近郷に聞こえた名僧であり奇僧である。
雨が降った後に、小僧覚運や三治と庭や畑の草を採る際、被った笠に「つんぼ」と大書して道を通る檀家の人たちから話しかけられるのを敬遠した。
ある時宇和島に本山から名知識が見えると仕事着の儘で即座に飛び出し、迎えの使者を見ないで遥か前方を駈けていた。
夜、仏道修業の際、フト用事を思い出しそのまま行燈を提げて夜道を急いでいると、通りかかった婦人は幽霊かお化けと驚き昏倒して大騒ぎをしたことがあった。
和尚は、時を惜しみ、時を観る、時を逸せずと云って時間の貴いことを考えて居った。
後日、三治が寺を罷めて帰る時、一生のお守りにする金言を書いてくださいと頼んだ。
和尚は快諾して書いたのが「時」の一字であった。
この上人は又、三治に唐詩選を口授してくれた。ある時『少陵の野老』と杜詩の一節を朗吟して居る中、真夏の日照りで子弟ともに眠気を催し夢路に入った。一人の鼾声に驚き目覚めた事もあった。
後年、三治の村井が83歳で病の床に往生を遂げるまでに時々思い出して愛誦した詩に、
九月九日望郷臺 他席他郷送客抔
人情已厭南中苦 鴻雁那從北地來
と云ふのがあつた。即ち大信寺で教わった七絶である。
ある日、三治は飯を炊いてお焦げをこしらへ、始末に困り釜の儘流しで洗い捨てようとする途端、後ろから和尚が「チョット待て」と云ってお焦げを手でつかみ取り南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と唱和して、一粒残らず口に入れて小言一つ云ふでもなく奥へ入つた。跡に三治は何んとも名状し難い感激で、『物を粗末にしてはならぬ』と云ふ終生の教訓を刻み附けられた。
後年村井が米國から歸朝して吉田を訪ねた際、遊び仲間であつた昔の小憎覚運と手を執り合って亡き上人の恩誼を語りつつ、涙にくれたものである。
この上人が死んで中陰の当日、居間に揚げてあつた額が偶然バッタリ畳の上に落ちた。驚いてよく見ると額の奥に小判が貼り付けあつた。人々何れも不思議の感をなしたそうである。

ブログ本「吉田三傑2017」で
『氏の過去七十五年間に於いて、三人の立派な指導者を獲た。福澤先生と森村市左衛門さんと、それからモウ一人は寺のお坊さんである。氏はかうした立派な三人の指導者を獲た為めに、氏の過去七十五年間の生活は、非常に楽しく且つ幸福であった。さうして氏の幼年時代に、氏の幼き頭に、奉仕感謝の念を深く々々刻み込んだ者は、其寺のお坊さんであった』
とあり、坊さんとは誰だか分からなかったが、大信寺の深譽上人だったのだ。