吉田三傑「村井保固傳」を読む 2

(序)
村井保固翁は実に日米貿易の開拓者であって、我が国富増進の礎石をつくられた一大恩人であるといっても、敢て過言ではないであらう。翁は、犬養毅尾崎行雄氏等と慶應義塾同期の卒業生である。當時の学生は、多く政治家を志し、他日の大臣宰相を夢みていたものである。然るに、翁は海外貿易の重大性に着眼し、三田の最高學府を卒業しながら、森村組の店員となり、繩解き、荷造り等の雑役に服し、商人道に精進せられ、進で日米貿易に従事し、偉大の功績を残されたのである。
実に明治12年の初渡米以來、太平洋横斷90回のレコードをつくられただけでも、日米貿易に對する翁の奮闘ぶりが偲ばれるではないか。(中略)
昭和11年11月11日、村井氏愛郷會では,法華津孝治を委員長とし、曾根松太郎・藥師寺志光を委員に委嘱し、村井伝記委員会を組織した。同委員会で協議の結果、翁の奮闘史を親しく翁から聽取して連載せる『南予時事新聞』の専務理事井上雄馬氏に、翁の伝記資料の蒐集整理を依頼し、同氏は翌12年7月1日上京、月餘に亘りて鎌倉に滯在。滯りなくその任務を果たされたのであった。本書の編纂については、実に井上氏の功労のすくなからぬことをここに特筆しておく。
その後、村井傅記委員会は昭和14年末に至る迄、史実の検討や其の他の協議の爲、数10回の会合を重ね、その間、名古屋陶器の生字引といはるる星野惠助氏や永年会社で翁の下で働かれた伊勢本一觔氏等を聘し、史実に関する貴重なる材料を得た事もあった。斯くていよいよ傅記執筆者の選定に移つたが、井上氏は其の後故山村豊次郎氏の後を繼いで南予時事新聞社長に榮進し、激務を鞅掌し日夕多忙を極めてをらるるので遠慮する事に決し、『朝吹英二伝』の執筆で令名を博された大西理平氏に依頼する事となつた。
同氏は態々翁の故觶を訪ねて新史料を蒐集し、日夕健筆を揮われていよいよ脱稿。
直ちに上梓、漸く本書の発行を見るに至った次第である。
ここに本書編纂の趣旨並びに経過を述べ、序文に代ふる次第である。
 昭和18年6月5日

村井保固傳記委員會
法華津孝治
曾根松太郎
藥師寺志光


(題字:男爵 森村市左衛門 ☆7代目であろうか)