小林朝治生誕地 信州須坂を訪ねる 2

館内に入ると、畦地梅太郎の作品があり昭和4年の「郊外早春」亜鉛凸版など7点が展示されている。畦地は宇和島市三間町の出身、大正9年離郷し2年間船員で働くが、上京し画家を目指す。通信教育で油絵を勉強、内閣印刷局に勤務し亜鉛版で版画を制作、平塚運一に木版画を学ぶ。昭和2年日本創作版画展で初入選、恩地孝四郎に影響を受け都会風景から山岳風景に移り、山男シリーズで山岳画家として有名になる。
 朝治が版画を始めるきっかけは畦地梅太郎と出会ってからだった。
息子の創氏は、畦地が四国で版画の個展を開催した時、朝治に持参した静物画を見せたが、版画制作を勧めたり版画の面白さ、素晴らしさについて一切言わなかったそうで朝治が版画を始めたのは畦地に会った直ぐ後であったと語った。
朝治の生涯は41年という短いものだったが、油彩画から木版画家になるまで絵を描くことや版を彫ることの情熱は人一倍強かった。
 館内の説明書きは、朝治の吉田病院時代について触れており、昭和2月眼科医長として赴任し直ぐに、朝治が中心となって洋画を研究する仲間と一緒に同人作品展を吉田で初めて開催した。
その後14回も開催されたことは吉田町の美術界に大きな影響を与えた。これは特筆大書されるべきことであると絶賛している。
創氏(昭和8生まれ)は母親から話を聞いていたのか「父は昭和2年より吉田の風景を油絵に描いているが日曜のたびにカンバスを持った姿が自然の中にあった」と父を振り返って語った。
昭和57年に発行された「吉田病院60年史」には、朝治の医者としての記事はたったの2行で、多くのページは病院内外の文化活動と作品で埋め尽くされている。


(吉田風物画帳・見返 祭禮御船)