小林朝治生誕地 信州須坂を訪ねる 5(最終章)

館内には、平成22年7月16日付け信濃毎日新聞の記事が展示されていた。金曜アート(版の力)小林朝治「新日本百景 志賀高原夜雪」と題し千葉市学芸員の記事である。
― 宿のポーチからの眺めだろうか。スキーヤーがふたり月に皓々と照らされたゲレンデへ今しも滑りだそうとしている。空には一片の雲もなく大気は澄み渡り、紫の多用された画面は不思議なほどに明るい。― という書き出しで、朝治のエピソードが記されている。
1938年(昭和13年)日本版画協会が「新日本百景」を募集した、朝治はよく知る志賀高原を題材に選んだ。中天にかかる半月が雪上に鮮やかな光と影の模様を描く、夢のように甘美な冬景色は彼の代表作となった。童顔にロイド眼鏡をかけ「絵を描く眼医者さん」と親しまれた人は、しかしこの作品を手掛けた翌年の夏に上高井郡高山村の高井橋から落ちて突然世を去った。暴風警報の鳴り響く日だったといい、事故とも自殺とも語られているが真相はわからない。作家の生涯を考えるうえでその死は確かに重要だが、70年以上の月日が流れた今、大切にすべきはもっと別の事だ。
畦地梅太郎が繰り返し書き、懐かしんだように、小林朝治はコレクターでもあった。版画で暮らしの立つ人などいなかった時代、彼の行為はどれほどの潤いとなって仲間の身に染みたことだろう。そして朝治が買った作品は、遺族の手で丁寧に守られた自作とともに戦時を越え1991年に須坂版画美術館が建てられる礎となった。「櫟」も朝治の死により13集でとだえながら、戦後復刊して現在も続く。41歳の死は不幸せにちがいないが、版画を愛した朝治の気持ちは確かに、今につながっている。と記されていた。
小林朝治氏も第二のふるさと伊予吉田の「吉田三傑」の如く、公共のために惜しみなく私財を投じた。フィランスロピ―(博愛・慈善)の精神が満ち満ちていたのだろう。
今回ブロガーは、朝治が昭和6年に出版した「吉田風物畫帖」のブログ公開について親族など関係者に諒解を取りに伺ったが、その可否はいずれ連絡が来るだろう。
美術館を後にして臥龍公園を訪れた。龍ヶ池の桜はサクラ名所100選だそうで、タクシーを降りて満開の桜を撮影した。
朝治は昭和12年須坂の龍臥山風景、龍ケ池の木版画を制作している。
彼は、一男三女に恵まれた。近くの龍ヶ池でスケッチをする父親の周りで、子供たちが遊んでいる光景を垣間みたような気がした。
  ―小林朝治という男は41年の生涯を猛烈なスピードで駆け抜けた―

一句
月光に朝治の影か千曲川
一首
朝治ゆく夜月を照らす千曲川伊予の吉田は夢の通い路


志賀高原夜雪1937木版多色)須佐版画美術館パンフより

千曲川清月1933木版多色)須佐版画美術館パンフより

(版カチを購入/蛸凧、自画像など)