森村市左衛門と村井保固 (森村と村井、ただ一度の大衝突)

 明治15年頃の話である。『森村市左衛門の無欲の生涯』砂川幸雄著によると、村井は市左衛門の弟、豊氏に「店を大きくするには大量販売しかない、小売りをやめて卸専門にしようじゃありませんか」と提案したが、豊氏は「小売りは現金が入るし利益率のよい、いいことずくめじゃないか。今までどおり卸と小売りの両建てでいこうよ」と豊氏が応酬すると村井はさらに、「でも小売りは労賃も食うし店の経費も高くつきますよ。それに、この二つをいっしょにやると、売れ残った品を安く売った場合など、森村は卸値で小売りをしている、とんでもない、などと言われることになるでしよう」
と反発する。こうした議論が何日もつづいたあと、結局、豊氏はつぎのような提案をした。
「こんな議論をしていても際限がありませんから、兄の裁断をあおいで、兄の結論に服従することにしましよう」二人の案を同封して市左衛門宛に手紙で送った。日米間の手紙の往復には船便で六十日ぐらいかかったが、森村組の長たる市左衛門の返事はこうだった。
「豊さんの意見にも一理あるが、森村組の建前は、たんに利益のみを目的とするのではない。大いに日本商品を海外に出して国家に貢献したい。この見地から大量輸出を図る卸専門が得策である」このことが決まると、商品の仕入れにも大改革が必要だと考えた村井は、「こんどは日本で仕入れをさせてください」と店長に申し入れた。すぐOKが出たので、この年(明治十五年)十二月、クリスマスの商戦が終わると同時に、村井はニューヨークを出発して、三年ぶりに日本へ里帰りすることにした。
大陸横断鉄道と太平洋航路でほぼ三十日かかって、日本へ帰着した村井は、休む間もなく、大倉孫兵衛と買付けのため関西へ出張した。このとき仕入れたものは、掛軸、漆器、、花鳥画、花鳥模様の簾、有田の陶器、絹製の日傘、提灯、衝立、屏風、扇子、団扇、蒔絵、印籠などであった。当時もまだ東海道線は開通していない。そこで、二人は横浜から船で神戸に行き、京阪方面を汽車でまわり、大津から琵琶湖を船で渡って長浜へ至り、そこから人力車で名古屋に出る、といったコースをとらねばならなかった。一日中商談に忙しいのに、宿に帰って湯に入り、夕食が終わると村井は疲れてすぐ床についたが、大倉は眠らずに、こつこつと帳面をつけたり計算をしたりしていた。
このときの仕入れに関して、東京に帰ってから森村市左衛門と村井のあいだであとにも先にもただ一回の大衝突があった。それは村井が大阪で買い付けた三十箱の提灯のことで、二人のあいだにつぎのようなやりとりが交わされた。
「提灯はこれまで儲かったことがありません。これは止めにしてください」
「いや、これは大丈夫です」
「そう頑固に言われては困る。これはいけません」
「見るところあって私が買入れたものを今さら破約するなどできません。万一損になった
ら私が弁償しますよ」
実は、ニューヨークを発つ前、村井は「こんどの仕入れは今までとは意味が違いますから、
お兄さんや大倉さん宛に、すべて村井に任せてほしいという手紙を、あなたから出していただけませんか?」と豊氏に願い入れ、「なるほど、それももっともですね。承知しました」という返事をもらっていた。だから村井は強硬に自己主張をしたのである。
それなのにまだ自分を信用していない森村を腹立たしく思う28歳の村井青年は、寄宿先の旅館に帰って酒をあおっていた。そこへ大倉がやってきて言った。
「君、困るじゃないか。兄貴(森村は大倉の義兄)を相手にあんなことを言っては。君はま
だ若い。こんなことじゃいっしょに商売をやっていけないね。今日のところは、ひとまず提灯を返してほかの品物に換えたらどうです?」
「そんなふうに徹底しないのは嫌いです。第一、商人がいったん交わした約束を簡単に変更するなんて、そんな信用の置けないことができますか」
と村井はあくまで突っぱねる。ともあれ大倉は「このことは私に任せてくれ」と言ってその夜は別れたが、大倉は結局、森村、村井双方の顔を立てて、仕入れた提灯の半分を先方に返し、半分をそのままにすることで事を納めたのである。この事件は、おたがいが初めて相手の胸中に骨も信念もあることを知るきっかけになった。それから二十数年後に書かれた雑誌記事にはこうある。
 「森村組の事業は、森村市左衛門氏を〈天〉とし、大倉孫兵衛氏を〈地〉とし、村井保固氏を〈人〉として今日の盛運を開き、しこうして今後の大発展に向かって奮闘しつつあるなり」(『実業之日本』明治三十九年六月十五日号)

 大正8年出版の『心の修養:勤倹訓話』(著・森村市左衛門)には村井保固のことが書かれている。
(貸す者は常に強者なり)是れは私のみに限らず、森村組組合員は此の考へを持つて働いて居るのである。村井さん
(保固氏)が、且てこう云ふ事を云はれた事がある。
人は何でも借方になるよりは貸方にならねばならぬ。人に多く貸す、即ち人に多く利益を與ふる者程、勢力を得、又尊ばれるので、例へば弘法大師の如きは、暗々裏に多く人に利益を與へたから、アノ通りに崇められるのである。
『総て人の為に利益になるやうに考えて働きさへすれば、決してすたる者ではない。人の利益になつてやったら、それが又必ず自分の利益になるのである。草木を見ても分かる。人の利益になる木は次第に繁え、これと反対に好い木の生長に妨げとなるような雑木は片端から切られてしまう。人間もこれと同じように繁えたり衰えたりして行くものである。 誠に村井さんの言う通り、借方になるより貸方になるやうに働いて居れば、間違いはないのである。少し働いてみて、直ぐ右から左へ御礼が出ないと不平を言うものがあるが、そんな了見ではとても駄目である。貸して居るから強いのだ。一生懸命に人のために働いて居って人から禮を言われない中がよいのである。私は毎時も若い人たちにそう言って居る。 森村組の今日あるのは皆が争うて貸方となって働いたものだから、即ち人に見えない所に貸税が溜まって居て、今日それがきちんきちんと返されつつあると云ふのに外ならぬ。