村井保固伝  財界巨頭伝:立志奮闘 5

洋行の船中て泣くかうしていよいよ明治十二年の九月二日と云ふに、米国の店に向けて横濱を出発することとなった。船はシチーオブ・トウキョと称し、二千五百噸の蒸汽船であった。船室は特別三等で、支那人と一所であったから、臭気紛々鼻をついた。しかし食事は西洋人と共に二等の所で取ったので、何等の苦痛を感ぜなかった。
氏は乗船して、機械の動くさまを眺め、かう云ふ機械を造つた先人は、感心なものだ、學問の力と云ふものは、実に偉らいものである。昔は萬里の波濤を越えて米國渡航するなどは非常に難事とせられたものであったが、其れが今日からして楽に行かれるやうになつたのは、洵に有難い譯である。とかう思って、感謝の念が油然として胸の裡に湧き起った。船は布珪に寄港せずに、桑港に直航したので、二十日間にして無事金門湾頭に到着した。桑港に上陸して、ロッキー越えの鐵道に乗った。さうしてかうした重畳たるロツキーの険阻な山道に先人が、鐵道を敷設したのを観て驚き、同時に技師逹は、この鐵道を敷設するに、如何に難儀をしたであらうかと考へると、餘りの有難さに、覚えず感謝の涙がこぼれた。

給料日の大苦痛やがてペンシルべニャ、ステーションに着いた。氏は言葉が知らずに旅をしてるのであるが、氣楽にやつて居た。ステーションに着いたのは、朝の九時頃であったが、其処には幾台もの馬車があった。氏は會話も出来ず、地理も不案内なので、紐育の森村の店の番地の記してあるカードに一弗の金を附けて差出して見たが、皆逃げて了った。すると、一番しまひに一人の若い御者が『オール・ライト』と言つて引受けた。
氏は馬車に乗って、道々、日本では馬車に乗る人は、参議か大官かでなければ、乗れないのに、流石に米図は違って居ると思ったりした。
さて紐育の店で、森村さんの弟の豊さんに會つて観ると、忍ろしい綿密な人だ。さうして英語とブックキーピングの試駿をやられたが、英語ば直に落第し、簿記も出来ぬので、豊さんは非常に不平である。
氏はジッと辛抱して働いて居た。氏は日本では、月に七円の手当を貰つて居たのであったが、米国では一週に七弗を給與せられた。其内の一弗は小遣いに充て、六弗は下宿料に支払った。
けれども、氏は一週七弗を受けた時には、実に厭な気持がした。自分では役に立たぬ思って居るので、何日も給料日の土曜が来ると、何とも言えない厭な氣がした。

不平を手帖に記す豊さんは利巧な正直な人であったが、又気六ケ敷い人でもあったので、時々小言を言はれた。けれども此方は何にも役に立ぬので、辛抱して居った。
かうしたやうに、辛抱して居る所から、豊さんは氏に『お前には辛抱が出来る』と言はれたこともあった。氏は自分で言わんと思ったことは、それを口外せずに手帳に記して居った。――何月何日かう思ったと云って、それを手帳に書いて居った。謂わば不平帳見たいなものである。
所が氏がダンダン仕事に慣れ、二年もやつてから後に、その手帳を出して観ると利巧な豊さんの言われたことが如何にもビジネスライクであり、自分の言はんとしたことが妥当でなかったことを發見し、其時に自分は言わなくて良かったたことを、つくづく感じたのであった。かうして何日の間にか、豊さんと親しくなった。さうして豊さんは、ダンダン信用してくれ、金の事も信用してくれるやうになった。