ニューヨークの村井保固 (ゴルフ篇)

 明治九年3月10日福沢論吉の紹介状を手にした森村豊は、新井領ー郎ら数名の若者とアメリカ商船のオーシャニック号(1200トン)に乗船、ニユーヨークへ向かった。太平洋を船で横断してサンフランシスコに到着、大陸横断鉄道に乗り、一か月後の四月十日に、ニューヨークに着いた。
森村豊は兄、市左衛門の命で貿易商として日本の骨とう品を売るため、新井領ー郎は日本の生糸を売るためだった。
 村井保固が豊の片腕としてニューヨークに立ったのは明治12年9月2日だった。アメリカで建造された最大の汽船、シティ・オブ・トウキョウ号(5080トン)に乗船してサンフランシスコに向かった。
 吉次郎の「欧米独断」に登場する、新井、村井のニューヨークでのゴルフ談義。
新井領ー郎は渡米して事業を成功させた。親戚にあたる松方正義(第4,6代総理)からゴルフ道具をもらい、ゴルフの虜になった。新井は日本ゴルフ界のパイオニアである。
ニューヨーク「日本クラブ」の連中の誰かれなくゴルフに誘った。
その中に村井がいたが新井の執拗な勧誘に「ティーに載せたボールの前で土下座して3度お辞儀したら打ってやる」と言ったら新井はその通りにやったので、村井はしぶしぶボールを打ったそうである。
 新井は昭和10年東京ゴルフ倶楽部で、すでに80を超えていたが18ホールは平気と、矍鑠とボールを打ったという。
森村ブラザーズの創始者森村市左衛門の息子、開作(7代目森村市左衛門)は、ニューヨークで新井、村井らからゴルフセットをもらった。帰国してゴルフに熱中、皇太子(昭和天皇)にゴルフを勧めニューヨークからゴルフセット3組を送らせ、献上している。
7代目市左衛門は東京ゴルフ倶楽部、程ヶ谷カントリークラブ創設者の一人である。程ヶ谷カントリークラブにレリーフ像が遺っている。
(出典:関東学生ゴルフ連盟機関紙2010/vol82一部引用)
 
吉田三傑の一人、「村井保固」についても今後ブログに掲載していく。

一句
保固が渡りし海に夏カモメ