清家吉次郎伝 3

(教員も浮草稼業)
郷土にやっと落ち着いたと思ったら2年そこそこで愛媛県の南端
南宇和郡へ、南宇和高等小学校訓導として赴任するよう辞令がでた
この南宇和には明治27年9月から31年2月まで足掛け5年間務めた
県の最南端にあり文化面では最も遅れた土地である
島流しになったような吉次郎は何を想たのだろう
時は日清戦争という日本の大転換期である
親友亀三郎は青雲の志を持って、横浜で石炭商を始めんとしている
富国強兵、殖産興業の波に乗って一旗揚げようとしていた
しかし、吉次郎はこの僻地で時勢の推移をじっと眺めていたのである
赴任して翌年明治28年5月には南宇和高等小学校の校長に抜擢された
月棒はわずか14円であったが、すでに妻子を持つ男は質実剛健を励行した
大の読書家で「博覧強記」というのは彼を指したものであろうか、一心に読書を続け
晩年の愛媛県会で偉大なる弁論の雄としての素地を、此の地で著々として積み上げていた
吉次郎伝には、
南宇和郡時代にはもう長男の美材氏がゐた。芿家氏が書見してゐると幼ない此の愛兒は遠慮
なく氏にまとはりついて來るのである。だが氏は夫れを叱り飛ばさうともしないで、「よし
よし斯うしてをれ、斯うしてをれ」と云ひながら膝の上に抱き上げ、共の愛兒の頭を自分の
懷に抱きしめるやうにし、同時に其の愛兒の頭を見台として書見を続けて行った。
そして愛兒もまた父君におとなしく懐かれてすやすやと眠つたりした。)と書かれている

一句
島流し南洲似たり永良部ゆり


(愛用のシルクハット・三越製)