シネマ「トランパー」 その1

「トランパー」の名シーン
シーン1
(亀三郎の家出)明治15年師走、宇和島港に向けて亀三郎が走る、大阪行きの船が港に泊まっている、しかし季節風が吹き荒れ、大時化で出航できない
船宿のおばあさん(がいな風やのう、これでは2、3日船は出んがな)
亀三郎が船宿の2階に潜んでいたとき、階下で村の使いの者が大声で亀三郎に叫んでいる
(わしは連れ戻しに来たんやない、おまえのお袋からの伝言だ、よく聞けよ、=男の子がいったん村を逃げて出て、おめおめ村へ帰って来るようなことがあっては、母は家の者にも村の者にも、なぜそういう意気地なしを生んだかといわれて、恥ずかしくて生きてはおれない、偉くなって大手を振って村の道が歩いて帰れるようになるまでは帰ってくれるな!=)と言って、村の者は去っていった、3日後、風がやみ船は宇和島港を後にする
シーン2
(亀三郎の放蕩)京都の小学校代用教員を1年程務めたが、これではうだつが上がらないと教員を辞め、上京したが、行く当てがない、父・源次郎から伊達宗城公を訪ねよと便りが来た、仕方なく門を叩いたところ穂積陳重のところへ行けという
穂積は亀三郎に明治法律学校で勉強して司法士になれと勧める、しかし元々勉学が嫌いで家出したので長続きしない、下宿の同居人と遊郭「吉原」に通うことになるが、味を占めた亀三郎は放蕩三昧の暮らしで学資は湯水のごとく無くなる
田舎には何かと理由をつけ仕送りの催促、母・ケイは、金を送れという手紙、電報の着く度に、父の怒りの顔、兄、姉の心配する態度を見るにつけても、鋸で首をひかれる心地だった
ケイは毎朝、氏神様へお参りする(氏神様、どうか亀三郎はコレラで死ぬように……)
亀三郎回想シーン
…後年、打ち明け話で、(母さん、なぜそんなことを祈ったんや?)と亀三郎が聞いてみるとケイは、(亀、それはなあ、コレラは病みつくと直ぐ死ぬもんじゃろうが、長患いでもしてみよ、兄さんは東京まで見舞に行かんといけん、それを見て儂は生きてはおれないと思ったからよお、お前がコレラで死ぬることを神さんに祈ったのよお」……。
亀三郎は(如何に自分が母を苦しめたかということを考えれば、ただ、この話をするだけで直ぐ目が曇ってくる)と自伝「沈みつ浮きつ」=親不孝の懺悔=で語っている
シーン3
(母への小遣い)亀三郎は米国貿易商会の番頭時代に月給15円の中から、母・ケイに(飴でもなめないや)という手紙と5円を、郷に帰る母方の親戚・古谷久綱に託した、明治24年の事である
母はその五円札をあけて見て、(亀が儂に金を送るようになったのか、がいやのう、これは飴を買うどころの話ではないけん)ケイは直ちに糸を買い、木綿縞を三反織らしてそれを袷(あわせ)に仕立てさせた
ケイは(これは亀から送ってくれた金で作ったので、山下家の金で作ったのではないんぞ。亀の金で作ったこの木綿縞を、儂が死んだら、棺を担いでくれた者に一枚ずつやっておくれ)
亀三郎回想シーン
ケイはその袷を箪笥の底に入れていた
ケイが亡くなった時、亀三郎は棺を担いだ者には別に相当のことをして、この袷を携へて帰京し、今はそれを高輪の倉庫に収め、箱にその因縁を自書して、子孫に伝えるものの一つに数えている
亀三郎は(私が、一時はいかに不孝者であったかということを、ここに懺悔をして置きたい)
と語っている