「海すずめ」封切り初日へ

7月2日封切り初日に有楽町「スバル座」へ行った
今年2月、恵比寿で「宇和島クラブ関東ブロック」パーティがあり「トランパー」の出版宣伝で参加した、その折、宇和島を舞台にした映画「海すずめ」のプレゼンに大森監督と宇和島伊達家13代当主が壇上に立った
ブロガーはこの映画の前売り券を購入、今度の封切りを楽しみにしていた
映画は宇和島の風景が満載で、特に宇和島湾の九島のことが取り上げられていた
最後の橋桁を掛けるシーンが撮っていた、船会社に縁があった者としてフェリーが無くなると寂しくなる、農協が保有する唯一の渡し船だった
むかし、宇和島藩にイギリス艦隊のパークス英国公使がやってきた、今年は来訪150周年になる
慶応2年6月24日戦艦プリンセス・ロイヤル号が宇和島へ入港、宇和島の人々は港に押しかけたり、高台にのぼりたりで街は大騒ぎになった、伊達宗城、宗徳はキング提督を訪ね乗艦した、27日にはサラミス号が入港した、春山公(宗能)75歳の時で医師ウイリスの健康診断を受けた

さて、映画の筋書きは伊達400年祭で使う藩祖・秀宗夫人の内掛けの模様を巡る話であった
図書館が戦災で焼失され関連図書が見つからない、しかし当時貸し出しをしていれば何処かにあるはずと締め切りが迫る中、必死でヒロインが駆け回る
宗信氏、市長など出演し映画「海すずめ」を盛り上げる
2月恵比寿で大森監督に半分冗談でブロガー著作の「トランパー」を映画化出来ないでしょうか?と聞いたところ、(お金がかかる)と一蹴された、配布したチラシの「あらすじ」を見たのだろうか?
トランパーの登場人物は錚々たる人たちで時代背景など考えると大スペクタル映画になる

暇に任せて、映画(トランパー)をイメージした

…西の伊達二藩宇和島、吉田の風景から始まる、伊達秀宗が精鋭57騎を従え法華津峠に登り
遥か先の日振島を眺める(都落ちではない、伊予に栄華の国をつくるのだ!)
それから250年伊予吉田藩、喜佐方村に(がいな男)が生を受ける、山下亀三郎である
実家の庄屋は吉田藩主の狩りなどでもてなし交流があり、藩主宗孝の兄、宇和島藩主宗城とも交流があった
亀三郎が15歳で出郷し東京で学問、しかし挫折し放蕩三昧、その後職を転々とするトランパー(放浪者)の青春時代を送る
時代は近代国家ニッポンの草創期である、亀三郎は時機を得て石炭、海運という先端産業に活路を見出す、人脈は福沢桃介(諭吉の娘婿)松永安座衛門、親戚・古谷久綱から秋山真之海軍大尉を知る
久綱は井上博文初代総理大臣の秘書官だった
亀三郎はこま鼠のごとく情報を求めて動きまくる
日清・日露戦の情報を仕入れた亀三郎は石炭に、船にと事業拡大し大当たり「山下丸」は大きく浮上
だが「沈みつ浮きつ」のストーリーは始まったばかり、戦後の反動で過剰投資が裏目となり「山下丸」は奈落の底に沈むのである
莫大な借金を抱えた亀三郎はレールの上に頭を置き列車自殺を図るが、その時、天の声…(早まるな!お前の仕事はまだ残っている!)

亀三郎が財閥・大倉喜八郎の豪邸を訪ねたのは満月の夜だった、(大倉さん、私は一生涯に一日でもこの境遇になりたいものです)というと、大倉翁は(山下君、そういうお好みなれば、今夜、この僕の境遇を直ちに君にあげるよ、その代わり僕の年と代えてくれたまえ)
亀三郎(脱仙)は、「奢るなよ月のまるきも只一夜」と、頭を垂れて月夜の道を帰っていく…
(この後は次回へ)