「トランパー」出版まであと70日( 大正時代が往く )

題字「トランパー」の揮毫

新進書家から揮毫が届いた、次はクリエーターが装丁する
さらに校正作業が終わり、写真が整うといよいよ印刷となる
来年1月15日birthdayに出版発行となる
愛媛新聞はそのころから朝刊紙上に出版広告の掲載が始まる
全国の書店流通となる
著者が取り扱う(売る)冊数あり予約受付中!

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大正十二年九月一日、関東地方をマグニチュード七・九の大震災が襲う、未曾有の大惨事である。亀三郎は韓国巡視中だったが急きょ帰神した。東京の復興見込みが向こう二十年ぐらいは掛かるとして会社は事業の縮小、従業員の整理が不可欠と、方針が定まった。
ここで、専務の鋳谷正輔、常務の玉井周吉は、首脳部が辞任すると従業員の十人くらいは首にしなくても済むと、いさぎよく自ら辞表を提出した。
亀三郎は、片腕となって働き、苦労を共にしてきた二人に、北海道の奔別炭鉱を与えた。鋳谷は、炭鉱経営から川崎造船所、後の川崎重工業社長となり、川崎汽船の五代目社長として十年間務め、昭和石油など数社の社長を歴任する大人物となった。亀三郎は鋳谷のことを、我が社を退いた人の中で、世に頭角を現した第一人者である、と語っている。
亀三郎は、大戦後の不況で事業規模を大幅縮小するしかなく、その対応に着手した。大正十三年、鉱業部門を分離、資本金を二千万円に減資。本店を神戸に戻し、東京を支店とした。同時に大阪、門司、小樽、神戸の四支店を廃止した。
大正時代は15年と短い期間であったが、亀三郎にとって前半は黄金の時代だった。この様な大バブルは後にも先にもないであろう。
亀三郎は大正年間に二度の海外旅行をしたが、それらの旅で得たものは何事にも代えがたいものであった。と、回顧している。
一句
大正の夢心地かなハスの花