「トランパー」出版まであと26日(御進講と内閣顧問)

亀三郎が天皇陛下にご進講申し上げたのは、昭和十八年(一九四三)九月三日である。戦争がし烈化を極め、十月には学徒出陣が行われようとしていた頃である。
徳富蘇峰は「原稿など持たずに赤裸々に赤心を吐露されるがよろしく、尊厳礼を失ってはならぬ事はもちろんなるも固くなる事も無用平素の山下式を十分に発揮されるがよい」と部下の木村一郎にアドバイスした。
ご進講当日、木村は「予定よりおよそ半時間ほど過ぎ十一時半前やっと姿が見えた。その様子で直ちに首尾上々と感じたが、車へ向う途中小声で、(帰りがけに内府の所へお邪魔して来た。ピカ一の出来だったといわれたよ)と、ニッと目でほほえみかけられた。」(別して学問もない戦前明治の民間実業人にとっては、御進講申し上げるというようなことは、正に恐懼感激を地でゆくものであったろう)と記している。
亀三郎は東條英機首相に内閣顧問を要請された。亀三郎は「物事は決して両立しない、舞台に立つ役者は役者、百姓は百姓、町人は町人でいかなければならん」といって固辞したが、引くに引けない至上命令だった。
昭和十八年三月十九日付大阪朝日新聞 に亀三郎談話が出ている「どうせわたしにはなにも出来ないが海運のことだろうと思ってお引受けした、海運関係では四十年間たたきあげて来たので自分の考えはないでもない。しかしきょうはなんにも語れぬ、ただ自分は医者でいうと処方箋を書く方ではなくて実際に生かすか殺すかをやる輸血屋の方だ、だからこれからも輸血が必要だと思ったら遠慮なく申し上げるつもりである、いままでもいったり書いたりでなく(代は見てのお帰り)というように実際にやって来た、お引受けした以上本当に老骨のつづく限りやる。」
亀三郎は十九年一月、吹雪の中、北海道を視察した。七十八歳の高齢にもかかわらず、病身をおしての強硬スケジュールで医療団も同行した。行政査察した地区は、北海道、九州の石炭産地や積揚港の九州沿岸、関西、中国地方など十数か所にのぼった。朝鮮の港湾視察もくまなく回り、ソウル空港に降り立った姿は疲労困ぱいの様子が写真に残っている。
昭和十九年は亀三郎にとって国家にたいする最後のご奉公であった。心血を注いで建造した第一吉田丸は、ルソン島ラボック湾で撃沈され、高津丸は、レイテ島オルモック湾にて沈没した。亀三郎の盟友・汪兆銘が逝去し、米軍B二十九による本格的な本土空襲が開始されたのは十一月二十四日だった。
一句
国憂う亀三郎や菊の花