「トランパー」出版まであと11日(亀三郎の銅像除幕式)

亀三郎の銅像が昭和34年に建設された。
 竹馬の友「二神駿吉」の祝辞である。――「おい、山下の兄貴、ここにあんたの銅像が出来た。これで僕もやっと肩の重荷がおろせた。こう言えば、あんたは『お前が余計な口を利いたりして、こんなものをこしらへ俺をさらしものにする』と言うだろう。どっこい、そうは言はさない、先年僕の寿像の話が持ち上った時にあんたは何と言ったか。『あんたの銅像は、あんたの為に建てるんじゃない、郷里の後輩を奮起さす為に有志の者の思い着いたことで、あんたの関係することじゃない』と僕に猿轡をいれたじゃないか、ここで僕はそれをその儘あんたに返上する。実は去年、此の話が出た際にあんたの息子の太郎さんと三郎さんとが僕の家へ来て『この悪い時節に人様へ御迷惑をかけては済まない、せめて景気の立ち直る迄待ってくれ』と申し出られた。一応尤もな話だが、既に世間へ発表したのだし、こんなものは時機をはずしては中々出来ないものだ。それに来年は丁度親父さんの十七年じゃないか、と促した次第だ。今、あんたの遺徳と諸賢の御協力とがこんなに立派に実って僕はとても嬉しい。

銅像の題字は、吉田茂元首相の揮毫で、木戸幸一元内相の撰文が刻まれている。
【撰文】
山下亀三郎翁は慶應三年吉田藩河内の里の庄屋山下源次郎氏の四男として生まれ明治十五年十六歳にして青雲の志を抱いて郷関を出て勇往克苦今日に隆盛を誇る山下汽船會社を東京に起し明治、大正、昭和三代に亘り全世界の海に雄飛し海國日本の興隆に巨歩を遺した。一面後進を導くに厚く有為なる多數の人材を育成したことは人も知る處である。更には晚年大東亜戦苛烈なるに及んで内閣顧問として臺閣に列し特に運輸の樞機に参與す。偶々朝鮮視察の任より帰りて病を発し昭和十九年十二月十三日起伏に富む七十八年の生涯を闔したのである。危篤の報天聴に達するや特旨を以て動一等に叙せられ瑞宝章を授けらる。寔に稀に見る誉れ高き巨人と謂うべきである。 
汝を以て翁を知る東西の人士相寄り翁の風貌を鋳しその郷土たる此地に建立して永へに頌徳の意を致すと共に日夕仰望の間に後進感奮の資たらしめんとするは意義極めて大なるものがある

木戸幸一は滅多に撰文を書かない人であったらしいが、亀三郎は特別な御仁だった
吉田茂の揮毫といい、巨星の偉大なるかな一面である


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