「トランパーの雄」 出版まであと157日(伊達藩)

今は昔、3万石の…誰かの句か?伊予吉田は伊達家が治めた陣屋町である。
宇和島伊達家10万石から3万石を分知された。
(お、お放し下され梶川殿…その時吉田藩主・伊達左京亮は院使饗応役だった)
これは刃傷松の廊下事件だが、わが藩も係っていた。
吉田の町は海側(南)から魚棚、本町、裡町と町人街があり、横堀川で分かれていた。
横堀を渡ると武家町で東小路、西小路など武家屋敷があった。さらに北へあがると
堀の先に陣屋がある。400年も前から埋立技術が確かだったのか、2−3年で整地されたという。
亀三郎の実家はさらに北へ3キロ程度、当時は「お裏」といわれていた。
お殿様はそのお裏へちょくちょく狩りに出かけた。
伊達家の本家は仙台政宗がところである。その奥州の雄、政宗の長男(秀宗)が
四国の果てまで流された?のは…ちょど時間となりました、ではまた講演〜
一句
馬上ゆく春は名のみの伊予のかぜ
(横堀川/桜橋)