アイクと呼ばれた男 (12) 創業の苦難
大同海運の資本金は50万円、そのほとんどを創業して1年で食いつぶした。昭和恐慌のあおりで貨物は閑散、海運マーケットはどん底だった。
浜田は無償提供の内田ビル3階に通勤した。上司・八幡屋春太郎39歳の下に30前後の若者がそろった。暇な営業マンやブローカーで狭い部屋は大入り満員だった。時々ウイスキーを持ってくるものが居り、昼から杯を挙げた。昼飯はいつも「つるめん屋」の素うどんだった。
昭和6年11月、第二次若槻禮次郎内閣は、生糸価格や米価の暴落、失業者があふれ中小企業や農民が困窮を極める中、9月に発生した満州事変後の閣内対立で総辞職した。11月11日、「日本資本主義の父」といわれた渋澤栄一が92歳の天寿を全うした。15日、告別式には、元ボスの亀三郎は、青山斎場に向かう車列の中にいた。
12月政友会の犬養毅内閣が発足したが、金輸出再禁止でドル価が大暴落。財界は再び大混乱の渦中に越年した。その頃、「酒は涙か溜息か」の俗謡が津々浦々まで流れていた。
アイクと呼ばれた男 11 学者・田中正之輔
浜田喜佐雄のボス・田中正之輔を山下汽船に入社させたのは、京都大学・末広重雄教授だった。末広の尊父は明治のジャーナリスト末広鉄腸、宇和島の人である。亀三郎は末広教授に京都大学の秀才を世話してもらった。
(渋澤栄一子爵と末広重雄のエピソード)
或る日飛鳥山の子爵邸にて子爵にお眼にかゝり、日米問題の話をした時に、私が米国が日本人に対してその門戸を閉鎖する(排日)と同時に、満洲において日本の発展の邪魔をするならば、これは恰も薬缶の口をふさいで火にかける様なもので、日米関係は軈ては破裂するかもしれぬ、我々日本人は生きる為には或は米国と戦はざるを得ざるに至るやも計り難いと云ふと、子爵はあくまで日米平和を欲せられ、あらゆる手段によつて日米戦争を避けねばならぬことを、力強く主張された。その時子爵の真剣さには、私は全く頭の下るのを覚えた。
~田中正之輔追想録より引用~
大正10年1月、山下汽船ロンドン支店長として赴任
アイクと呼ばれた男 10 大同海運発足
山下汽船は昭和恐慌の中でリストラの嵐だった。多くの社員が山下を去ったが、喜佐雄は生き残った。しかし上司田中正之輔とがいな男の経営方針は大分ズレがあった。結局喜佐雄は先進的な田中に付いて行った。喜佐雄は8月に辞表を出して大同海運発足までの4ヶ月間は、ブローカーの様に利ザヤを稼いだ。同じ神戸の中で仕事でも夜の飲み屋でも、山下と大同は互いに対抗心を燃やした。
アイクと呼ばれた男 7 本社へ戻る
ブロガーの所属した「大型船組合」の初代事務局長は纐纈(こうけつ)氏、2代目会長は木村一郎氏で二人は「山下学校」出身。昭和40年代の頃(彼は山下学校の人だ)という会話をよく聞いたものだった。何のことか分からなかったが、山下汽船の出身は、やり手の営業マン、一筋縄ではいかない人物という感じだった。当時のライバル、YS近海の人はそんな感じだった。それに引き換え、我がJ近海はノンビリした会社だった。ある日、(昨日の敵は今日の友)ライバルの2社が合併した。船会社の生き残りは厳しく、新生NVX近海は、いろいろ大変だった。
さて、青年浜田は門司で鍛えられ、25歳の春、華の神戸に帰ってきた。いよいよ営業部で(切った張った)の「引合い」をやることになる。
喜佐雄翁の奥様「葉津」さんは、小倉の生まれで粋な感じの人だった。吉田町に来られることが多く「横堀の運河は情緒があっていいわね」と聞かされたものだった。
アイクと呼ばれた男 6 本船・輸入係
浜田喜佐雄は本船係になって、船が着くと船員たちの郵便物を何よりも先に届けた。
長い航海で船員が喜ぶのは手紙、新聞、雑誌などである。情報や活字に飢えているのだろうか。昔、ブロガーも社船が入港すると雑誌類を持って行った。航海の短い内航船でもスポーツ新聞は喜ばれた。ブロガーは入社早々に川崎の石炭埠頭に入港中の「親和丸」を訪ねた。同じ代官山寮で同居した工務課の先輩が連れて行ってくれた。昼食を頂いたが、ステーキのランチに驚いた。船は毎日こんな食事を取っているのかと羨ましく思ったが、日曜日のランチだけは豪華版だという事で納得した。しかし代官山寮は司厨長が寮長で朝食から旅館のメニューのような豪華さだった。田舎者のブロガーは初めて食べる納豆にドギマギしたが匂いも気にならず、毎日の食事が楽しみだった。
喜佐雄も門司で食べたパインナップル、バナナでカルチャーショックを受けたのだろうか。この頃、将来のボスとなる田中正之輔はロンドンで苦戦していた。
2014.9.22撮影