「沈みつ浮きつ」若き人の為に(1)

  最近、山下亀三郎の評伝を頼まれ、『トランパー』執筆以来いろいろ調べていた。新たな情報も入手したが、この際、自伝「沈みつ浮きつ」を再検証した。

 山下亀三郎の口述本は、天、地の2編で構成されており、天の巻には(若き人の為に)というジャンルがある。

 最初の口述は、昭和15年8月2日で“夏は炎暑と闘ふべし”と題して書かれている。その後、昭和16年7月1日の口述“明月は波に沈まず”という最後の項 まで8つのテーマで語られている。

 亀三郎翁は7月から9月までは軽井沢で過ごしており、そこに速記の大家「近衛泰子」女史を招いての口述と思われる。

 今後、ブロガーの独断と偏見で、大先輩のエッセイを編集し感想を綴ってみたい。

 

 いかに就職の途を選ぶべきか 

昭和15年8月23日)

 亀三郎翁は当時の学生の生き方に疑問を呈している、というか懸念に堪えないと云っている。

学校を卒業し、自ら何をしようとか、如何なる者になろうと考えている者は極めて少ない。殆どが月給取りになって、役人は課長、局長、次官或いは大臣に、また銀行へ行くものは課長・部長・取締役・常務・専務、社長と出世すればよいと思っている。

 その結果、自分で仕事を始めてその仕事を仕上げてみたい、という気持ちが育たないと懸念しているのである。

 一例を挙げれば日本郵船会社、国家から莫大な保護を受けて大会社になった。翁曰く、我ら海運業者の寄合は郵船会社の歴代社長が代表者となっている。しかしその歴史ある郵船から、船を持ち海運業者として世に出ているものがいないという。即ち郵船に入った者は終生月給取りで終わる。

 だが、個人経営の商店、会社組織の源は個人的に生まれたゆえ、そういう会社に育った者から個人的な経営者が出ている。

その実例を挙げているが、翁の設立した山下汽船で十数人の海運業者、石炭の鉱業会社に十数人の独立経営者を出している。

 翁は「学校に居る時から自分が仕事を考えて自分でやって見たいと云う者なら、最初から会社組織で出来ている所に入っては駄目だ。決して独立的に仕事をするように育っていくものではない。そう云う考えを持っている者は、就職の途を選ぶ方法として、あの会社、あの仕事はその最初が個人経営的に始めたものであるか、又最初から資本の力で組織されたものであるか、人の働きの力で組織されたものであるか、その点を十分に見分けて入社することが非常に緊要であると思う」と語っている。

***

 昭和15年というと亀三郎翁が軍に1千万円もの莫大な寄付をした頃である。

 最近、翁の子孫から下記のようなエピソードを入手した。

支那事変が勃発して暫くしたころ、出征軍人軍属の方々が、その子弟の教育に不安を感じておられることを亀三郎が耳にして、自分としてこの問題に寄与する途は無いかと考え、会社の事業資金にすれば新造船10隻ほど造れる金員を陸海軍に献納して「財団法人山水育英会」の創設に尽くしています。

この山水学園が第二次大戦後、現在の「桐朋学園」となって再生され、名門校として名をはせておられますが、当時の亀三郎は「船はいつかは沈む、しかるに人を育て心を育てる教育は永遠である」と献納の動機を語っています』

 

 亀三郎翁は教育に並々ならぬ力を注いだ。大正バブル期には地元に女学校を2校創設した。昭和の山水学園は、満州を含め4校が亀三郎翁の寄付で創設された。

 このエッセイは教育論ではなく、将来を決める就職の事を語っている。翁は自社から優秀な社員が世に出て立派なけん引者となって行くのを、自身のベンチャー精神の賜物と考えていたのでしょう。世間では山下汽船を別称「山下学校」と呼んで評価していた。

 ブロガーは、郵船の方々とお付き合いさせてもらったが、何れも優秀な方ばかりで、流石、我が国の海運会社の模範となる役員・社員が多くおられた。日本を代表する会社と尊敬の念で一杯である。

 亀三郎翁は自伝で郵船の社長数名を語っているが、翁は一目も二目も置いて、彼らから良質な教養、ノウハウを吸収していた。

 現代の若者は、昔のような出世欲は余り無いのではないだろうか。戦後日本の大変貌は亀三郎翁の時代と比較にならない。就職先も比較にならないくらい多種多様で、自分の進む道も選択の幅が多いのである。

 今ではベンチャー起業家は世に蔓延しており、優秀な学生もベンチャー企業に就職している。大企業、役所に入って将来安泰という考え方は古いかも知れない。

亀三郎翁の啓蒙する独創力は心配しなくても世に根付いている。

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 山下亀三郎翁(出典:桐朋学園所蔵) 

 

謹賀新年 令和二年(2020)

新年あけましておめでとうございます

 

今年は子年で、干支の始まり心機一転です。

東京五輪パラリンピックの記念すべき年になりました。

今年は、田舎の「吉田三傑」に因んで何を書込むか?

昨年暮れに、中学の同級生から久しぶりに電話があった。

地元新聞社に勤めていたが、今は古文書を解読研究しているという。歴史好きでいろいろな事を知っている。

江戸時代の宇和島藩にマラソン侍がいたという、

彼が寄稿した日経の新聞記事を見た事がある。

先ずはその辺からブログを更新したいと思います。

 

今年もよろしくお願いします。

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平成最後の年=令和元年 想い出


 2019年もあとわずか、今年を振り返った。

 1月、恒例の秋山好古生誕祭が松山で行われる。東京から山下家、吉田から亀三郎翁を偲ぶ会が参加。生誕祭も今年が最後と出掛けた。帰りは予讃線で高松にゆく、四国山地の山々は雪を被っている。石鎚山笹ヶ峰東赤石山と続く山脈をデジカメに収めたが列車で見ていて飽きない。高松に降りたのは何年ぶりだろう、港が素晴らしく整備されている。屋島テーブルマウンテンが目の前に見える。栗林公園は高校生の時に就職試験の帰りに寄った所。あの時試験に受かって居たら別の道を歩んでいた。

高松の地は人生の分水嶺だった。

1月15日70回目の誕生日。昔なら古来稀なりとお祝いしたのだろうが、感慨無し。

 2月は先輩三瀬さんの回想記(ジュラ紀前)吉田町の昔のくらしをブログにアップ。お祭り、亥の子など在りし日の故郷を想い出した。

 3月は吉田町図書館の冠としてその名を残している簡野道明の事を取材した。蒲田女子高「学校法人簡野育英会」へ行き孫の高道理事長に話を聞き資料を戴く。早速、偉人伝をアップした。道明は漢和辞典「字源」を数十年かけて創作した、しかも誰の助けもなく独自でやり抜いた。この独創力は「吉田三傑」に勝るとも劣らない。4月3日、道明が眠る小石川傳通院に参った。隣の墓は、徳川家康の母「於大の方」だった。

ブログ本を新年号「令和」が始まる5月に発行と決めた。

 4月26日遂にブログ本「吉田三傑2019」が出来上がった。前作に続いて2作目も随分ローカル色濃いが、望郷の念で執筆す、これしか能がないというか、外にやることがない。

 5月、宇和島での同級会にこの本を持って行った。全員が買ってくれた。1冊500円は宇和島市に豪雨の義援金として寄付する。折角の帰省なので、四万十川愛南町に行った。予土線トロッコ列車に載る、三間から山奥にかけて、寛政年間に起こった武左衛門一揆の山河に、改めて伊予吉田藩の広さを実感した。来年は「吉田騒動」をテーマに書込みする。

 愛南町(城辺)の「紫電改保存館」を見学した。敗戦直前に米軍機を迎撃した紫電改31機のうち6機が未帰還、豊後水道上空の空中戦で1機が久良湾に沈んだという。戦後引き揚げられたがパイロットは行方不明だった。

 107メートルの宇和海展望タワーに登った。久良湾のはるか向こうに高知県柏島が見える。(そうか、城辺は吉田三傑の清家吉次郎が教鞭を執っていた所だ)正岡子規「病床六尺」の第一話にでる水産補習学校は柏島にあった。それを紹介したのは清家で、子規は感激して新聞「日本」に掲載したのである。現場に行ってみてよく分かった、城辺から柏島は近い。明治35年海南新聞に投稿した「せき生」は清家吉次郎と確信したのである。

 5月は忙しかった。帰郷してすぐ横浜根岸のお寺に行った。寺のホールで坂村眞民先生を敬愛する人たちが詩の朗読や演奏会を開いた。高校先輩の娘婿がサックス奏者でホールは不思議な空間だった。「念ずれば花開く」の石碑を400カ所も訪れたというファンがいたり、恩師しんみん先生が国民的詩人ということを再認識した。

 6月横浜中華街に中学同級生が集まった。数日前に道路でつまずいて右腕を痛めたが、関西から女性群もやってくるので参加した。

 7月、田舎の親戚から「土居清良」という本が送られてきた。伊達吉田藩が出来るまえの戦国時代、隣町三間の英雄物語だった。詳しくは知らなかったが、吉田町の石城、犬尾城が序盤に出て来る。興味があったのでブログにアップした。9月22日に完結したが、土佐の侵略者、長宗我部一族のことも調べた。

暑い夏に清良伝を綴った。この頃から右腕が上がらなくなった。握力も低下している、MRI検査では2年前より頚椎が湾曲している。

 9月28日兄の七回忌で帰省、親戚らと吉田横堀で飲んだ。今度の帰省で暫くは用事もない。想えば「トランパー」出版で毎年帰省していた。平成25年兄が亡くなって十数回帰っている。

 9月30日宇和島市役所に行く。ブログ本の寄付、白井市住民の寄付などを義援金として岡原市長に渡す。その後、三間町へ同級生が車で案内してくれた。恩師に会い、庄屋毛利家を見学、清良神社に向かう。龍泉禅寺の上に清良廟がある。そこから「大森城」が望める。周りは三間の穀倉地帯である。清良神社は清良公没後33年に当たる寛文元年(1661)に徳を慕う村民達が祠を建てた。

 10月とうとう右腕が利かなくなった。箸も持てない。整形外科の先生は手術を勧める。診断書を書いてもらって東大病院で診てもらった。11月11日が手術日と決まった。若い先生は、頚椎後縦靭帯骨化症という難病と告げた。

 11月の紅葉シーズンにフェイスブックもお休み、ブログも更新不可となる。

 12月6日やっと退院した。シルバーカートを頼りに上野から電車で帰った。体重が5キロ減っていた。病院食100%の麦飯がよかったのか消化器系は快調、リハビリに十余一公園で歩行訓練の日々。

 いろいろあった1年、ブログ本2冊目を出してもう楽になったと思ったら、また更新し始めた。退院してパソコンは無理と覚悟していたが、何とかキーボードを叩ける。先ずはある財団から頼まれている「山下亀三郎 評伝」を完成させなければならない。

ああ、来年は何をしようか?やはりパソコンにかじりつく毎日なのだろう…。

2019年花のムービーを最後に、いいお年をお迎えください。

 しげる

2019 春夏秋冬 

宮大工 二宮長六

恩師池本覺先生から三間史談会より「泉」に寄稿したエッセイが送られてきた。「三間街道をゆく―宮大工棟梁 二宮長六を追うー」というテーマだった。

ブロガーが9月末に訪れた「清良神社」の拝殿の正面・鶴の彫り物が長六の作という。ご案内の安岡氏が言われていたようだが聞き逃していた。再度写真を確かめたが見事なものである。

社殿は文政10年(1827)に建立された。

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二宮長六は吉田藩に仕えた宮大工で、池本先生は「吉田町誌」から長六の偉大な業績を記述している。

1.16歳の時、住吉神社の社殿を設計、本殿に鯉の滝登りを彫る。2.大阪の御用倉庫の改築。3.江戸藩邸の改築。4.讃岐金比羅様の社殿は長六の設計。5.吉田藩旧陣屋の大広間、玄関の改築。6.海蔵寺安藤様の廟所建立。7.安藤神社の社殿(明治6年・1873)建立。

安藤神社は長六の晩年の作と記している。

池本先生は三間にお住まいだが、三間の四国42番札所、仏木寺大師堂(現不動堂)再興は、二宮長六の手に成るものと確信している。

『新宇和島の自然と文化(二)』に、二宮長六(本家6代目)は江戸末期大工町組棟梁の家に生まれた。寺子屋で学んだほかはすべて自学自習、父親の指導を受けて大工道に精励したと書いている。

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天を仰いで (坂村眞民先生箴言詩集)

入院中に坂村眞民記念館の西澤館長より本が届いた。

箴言(しんげん)とは戒めの言葉と書いている。

致知出版社から発行されたばかりの詩集だった。

40歳から90歳までの詩87編が収録されている。

ブロガーの母校吉田高校で教鞭を執っていた頃58歳の詩。

裸木

冬のさなかに生まれた者が

少しの寒さにふるえていて

どうするぞ

裸木を見よ

一切を脱落させて

リンリンと

寒風におのれをさらし

毅然として

大地につっ立っているではないか

弱音や愚痴が出そうになったら

裸木の前に立て

そしてそのいのちに触れろ

朝日夕日に光る

巨幹万枝の姿を見つめろ

 西澤館長に自書を贈ると、先生の詩が数編送られてきた。

同年代で宇和島市の出身、16歳で眞民先生と出会い詩に感銘を受ける。先生の三女と結婚し、先生の晩年を共に過ごし最期を看取った。

館長、ブロガーは古稀になったが先生71歳の詩を掲載す。

冬の風

冬の風は神威のように吹く

まさに天馬の駆けていくような勢いだ

冬生まれのしんみんよ冬の風の中を行け

 

眞民先生は熊本から母子を連れて 豊後水道を渡り南予に来た。三瓶、吉田、宇和島で教鞭を執り、砥部で亡くなった。

享年97歳。

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吉田名所大観(昭和19年)立間、喜佐方、玉津の絵

 この辺りが昔の宇和郡中心地だった。吉田という地名になったのは江戸時代、宇和島藩伊達秀宗が五男の宗純に3万石を分知したのが始まり。宗純は、立間川、河内川の河口に生い茂る葦の原を、周りの山を削って埋め立てた。町人町と家中町という町割りはその時出来たもので、その昔は葦の中、海の中だった。

 立間駅辺りに昔の集落があり神社仏閣が多い。山を越えると喜佐方があり、当時はここまで潮が満ちていた。喜佐方は喜佐潟と言っていたみたいである。

名所大観には法花津湾と書いているが、玉津は港があり津々浦々とはこのような所か、定期船が昭和30年代まで運航していたそうである。玉津海水浴場と有るのは、法花津の浜の事だろうか?母の実家が法花津で浜でよく遊んだことを思い出した。今では道路が出来て浜が無くなった。昭和30年代は吉田横堀から法花津に行くバスでよく車酔いした。

玉津の上が法華津峠で展望台があり、トンネルがない時代は峠までのくねくね道をバスで越え、宇和町八幡浜に行った。

 筋に山下別館と有るのは山下亀三郎が母敬の為に建てた「鯨御殿」で、親孝行の亀三郎は、大正船成金時代に母に鯨の潮吹きを見せると云って茅葺の立派な家を建てたが、母は長く住むことはなかった。その暮、89歳で大往生した。

 立間役場の上に大乗寺がある、臨済宗妙心寺派の禅寺で伊予吉田藩主のお墓がある。

八幡神社は吉田藩創設頃から始まった「吉田祭禮」の本拠地。吉田秋祭りは今でも連綿と続いている。周りにみかん山の字があるが、立間はみかん栽培の発祥地で昭和初期は生産量日本一だった。吉田は、春にはみかんの花が咲き、甘い匂いが街を漂う。秋は周りのみかん山が黄金一色になる。

 大観案内には「東京始め京阪神及び大陸地方まで嘖々の名声を馳せている宇和蜜柑は我街の特産で早熟と甘味で海内一と称せられ、年産額五百万貫、秋収穫期の繁忙と盛況は丘から街へ街から船へ!埠頭に黄金の山を築く。宇和蜜柑出荷組合の組織成り益々販路の拡張を計っている。蜜柑の熟した頃の山々の美観はまた格別で地方人士の秋の行楽の尖端を行くもの、豫南の一名物である」とある。

   燕子  

    短夜や伊豫と豊後の水の道

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吉田名所大観(昭和19年)小林朝治の56景画帖

 

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 小林朝治は昭和2年信州須坂からやって来た。吉田病院眼科医長として昭和6年退任するまで吉田名所56景を版画に遺した。

吉田名所大観が出る13年前に朝治は「吉田風物画帖」を出版した。朝治はその絵にモダンな詩を添えた。

 例えば「幼稚園」

お門は

おてんとふさまと 開いた。

朝の風が

藤棚の奥から出て

ポプラの葉ごとに

葉笛を吹けば、

光の子等は集って

藤の房をめぐつて

メイポール。

そして

おてんとふさんが

滑べり臺をすべれば

藤の房の影は伸び

伸蔓には夕雀、

お門は

垣の紅バラの蕾に閉ぢた。

***

 11月3日の吉田秋祭りが近づいた。おねり巡行は、八幡神社5時の卯の刻相撲から始まって8時半神輿宮出しとなる。山車などの「おねり」は御殿前から11時出発、家中町から町人町まで町内を賑やかに巡行する。

 河東碧梧桐が吉田祭禮を詠む。

   祭酒 牛鬼がむれてなだれて尾を角を

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