伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし     (メジカ釣り②)

メジカ釣り②ジュラ紀前より引用)

 空がすっかり明るくなり、やがて日が昇って海が青くなるころまで、ほんの1時間前後であったろうか何度かの回遊訪問を受け、舟はずっしり重くなった。

 京都のいとこたちにとっては、まさに衝撃的な経験であった。

その後、子供たちだけで何度か来た。それがきっかけで釣りが趣味になったらしい。出会うたびにその話題ばかりで、また行きたい、また行きたいと目を輝かせた。ずーと長い間いろいろな人に自慢して回ったに違いない。

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 メジカ釣りは私たちにとっても初めは感激であった。当然ながらわれわれもある人から教えてもらった。その人は復員してきたばかりの元漁師さんで、出征前から父は知っていた人だった。舟を持っていてもあまり使っていないことを聞かれたのであろう、釣りを教えてあげようと我が家に出入りされるようになり、舟をよく貸してあげた。どうせほとんど使わずに、もやっているものである。その人がお礼にといろいろ教えてくれた。メジカ釣りもその人から伝授されたものである。

 磯釣りなど一般的には先の細い竿を使うが、メジカ釣りは違う。太めで手元から竿先まで太さがあまり変わらず、ずん胴な感じの竿であった。竿先が指の太さほどもあった。ヤダケを使ったものが多かったと記憶している。

 ちなみにヤダケは真直ぐ伸び弓矢に使われるので矢竹、ヤダケという。しかしヤダケは分類上では笹である。いわゆる竹の子の皮に相当する鞘が、取れないで付いたままになっているのが笹、竹の子から成長するにつれて鞘が取れていくのが竹として分類されている。

 普段、岸からの釣りには布袋竹が重宝された。根元の節目が詰まっているうえに整然と並んでおらず、そのため竿にすると手元がむくむくとやや不規則に膨らんでいて、ちょうど握り部分がすべり止めになって具合がいい。さらにその自然の模様がなかなかおっであつた。メジカのような回遊魚は磯で遊泳している魚と違って高速で泳いでくる。それが餌にまっしぐらに矢のように突っ走ってきて食い付く。ぼんやりしていると釣り上げるどころではない。竿を握り締める間もなく引っ手繰るように持っていかれてしまう。当たりを鋭敏に感じ取るような繊細な釣りではない。引きつ引かれつの格闘をゆっくり楽しむのとは大分様子が違う。1匹にのんびり時間を掛けるようなものではない。

 群れがハイスピードでいきなりやって来て豪快に食い、引く。これを引きに負けないよう、剛直でしなりの少ない竿で食い付いたメジカが下を向いて逃げの態勢に入らないうちに、むしろ前向きのスピードをそのまま利用して、引き抜くように釣り上げる。従って先の太いずん胴で剛直な竿を使うのである。

 回遊してきた群れから、できるだけたくさん短時間で釣り上げねばならない。従って大勢が船べりに鈴なりになって釣る。竿がしなってもたもたしては糸が絡んだりしていけない。魚も敏感に感じ取って群れが逃げてしまう。

 というわけでメジカ釣りは、カツオ釣りのような豪快さ、忙しさを味わえる手ごろな釣りであった。

 さて、メジ力釣りの醍醐味を少しは理解いただけたであろう。

ここらで逆にこの醍醐味を味わうための、あるいは味わった後の、つらいところも紹介しておかないと片手落ちになる。

 当初は前述の元漁師さんが同行してくれた。そのおじさんがいなかったら、とても面白いどころではない。櫓がこげるのは、そのおじさんと次兄と私だけであった。

 クラスでいつも先頭に並んでいた小柄な私には、櫓こぎは重労働であった。小柄な私には櫓綱が長く櫓の取手は胸の位置にくる。脇を開けて腕でこぐことになる。とても脇を締めて腰でこぐなどと理想通りにはいかないのである。その図を思うと、むしろ痛々しくしか思い出せない。面白いが大幅に減点される。

近所のいとこたちには年上もいたし体格はずっといい。それがいくら練習してもうまくなれなかった。

たしかに櫓を操るのは簡単ではない。少々練習してもなかなかうまくいかないのがむしろ普通であった。大勢乗っていても特定の者だけがこぎ役を引き受けざるを得ない。いとこたちにとっては一生の良い想い出も、私にはしんどい、つらい分だけ割り引かねばならない。また行ってみたいと思わないのは、そのせいであろう。

 という訳で朝寝坊な私には早起きもさることながら、行き帰りの櫓こぎが大変つらかった。その重労働が待っているのだから面白いより行きたくないがリードする。日が昇ってくると暑さも加わり頭はがんがん痛む。1度メジカ釣りに行くと2、3日尾を引いた。

 直射日光に弱かったのであろうか、なにしろ海の真っ只中では陽を遮る物が何もない。

帽子一つでは間に合わない。帽子の中はすぐに汗びっしょりになる。その上、舟はよく揺れた。釣りに行くと頭が痛くなり、むしろもう嫌と思うことの方が多かった。

紫外線に当たり過ぎると良くないのは今では常識であろう。しかし当時は身体が鍛えられるという考え方が常識であった。海軍国の日本男児が海に弱くてどうするというのである。

 普段、釣りには父と二人で行くことが多かった。年とともに父と同行するのがつらくなった。父の方は歳を取ってきて、だんだん櫓こぎができなくなり一人では行けない。私一人でこがねばならなくなった。

 父は私が5、6歳のころから、私の体質を少しでも変えてやりたい、頑丈になってほしいという思いが強かった。釣りに行くのもその思いの現われであったようで、舟が手に入ってからは、ついて来い、つれて行けとよく強要した。

 やがて私が大学へ入学すると舟はほとんど繫がれたままになった。夏休みなどで帰郷するのを待ち構えて釣りに行きたがった。

 晚年は家でただ釣具の手入れをするだけで過ごしていた。休みが終わり上京する私を寂しそうに見送る姿が後ろ髪を引いた。その思いもあるからかどうか以後魚釣りに行きたいと思ったことはほとんどない。誘われてもいつも断っている。

***

 三瀬さんの実家は浜通り魚棚3丁目か?ブロガーの本町1丁目からほんの少し離れている所、しかしメジカは知らなかった。今川鮮魚店でナマリとかいうカツオの燻製は食べた事がある。櫓櫂で行ける距離にそんな漁場があったとは驚きである。

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし     (メジカ釣り①)

メジカ釣り①ジュラ紀前より引用)

 

 戦後間もなくのこと、ある日突然、前触れもなく釣り舟が引かれてきて家の裏につながれた。手こぎの木造和舟である。いわゆる伝馬船の部類に入る。当時、町ではエンジン付きの漁船は少なく、まだ手こぎのものが多かった。

 父はそれまで趣味に充てる時間をほとんど持てなかったし、ましてや釣りが趣味の様子もなかった。いったいどうしたのだろうと不審に思ったが、いいものが手に入ったと父はまんざらでもない風だし、子供の方も面白い遊び道具がてきたと喜んで、入手のいきさつに対する不審はあっさり消えた。

 やがて手入れが大変だし台風の備えがこれまた手間が掛かることが分かり、喜んでばかりいられないことになるのだが、とにかくしばらくは熱中した。f:id:oogatasen:20190219210134p:plain

                  (画:三瀬教利氏)

 さっそく次兄と櫓のこぎ方を習い、あっという間にこげるようになった。こげるようになるとうれしくて仕方がない。河口内をうろうろして喜ぶのはすぐ通り越し、河口から離れて湾内にこぎ出すようになった。それも日に日に航続距離を伸ばした。

 石井謙治著「和舟史話」㈱至誠堂、昭和58年発行、同じく石井謙治著「和船」(財)法政大学出版局、1995発行、でみる江戸の猪牙舟(ちょきぶね)、長吉舟、淀川の「くらわんかぶね」などの系譜に入るのであろう、小型、沿岸用の舟である。

 昭和2 0年ころの釣り舟だから猪牙舟、「くらわんかぶね」よりは技術の進歩が加わっていたと思う。小さい舟なのに帆柱も立てられるし「いけす」も備わっていた。舟べりには波浪よけも付いているし、釣り糸を操りやすいように細やかな細工も施されていた。軍艦に注力した造船国だけのことはあり結構丈夫で合理的にできていた。和舟のこぎ方はボートのオールと違い一本の櫓でこぐ。櫓で斜め後ろ上方に水を押しやりながら、いわば細かいジグザグの繰り返しで前に進める。

 前述の本では「櫂は水の抵抗を利用するものであり、櫓は浮力を利用するものである」となっている。そういえば櫓を前に押すときの感覚は、前方へただ押しやるというより前方にやりながらも櫓を下へ押さえつけて、その反動で舟の舳先を少し持ち上げる感じであった。入浴時に洗面器を湯船に浮かべ、片側をちょっと押さえるか逆に少し持ち上げるかして手を離してみれば原理が確められる。ただ櫓で水を斜め後ろへ押しやる効果もあるはずだから、あくまで浮力効果も加味される、というのが正確ではないかと思う。

 櫓の中ほど下面に深い穴がある。船尾の貫木に植え込まれた鉄のいぼ、「へそ」をこの穴にはめ込み、これを支点にしてこぐ。櫓の押し引きを交互にして水をかく。前に押すことを「おさえ」と言い、手前に引くことを「ひかえ」とい言った。このバランスをうまく取らないと舟はぐるぐる同じ所を回るばかりで前には進まない。慣れないとすぐ「へそ」から櫓が外れ肩透かしを食ってつんのめってしまう。ひどいときは舟から飛び出して、櫓と一緒に水に飛び込んでしまう。いくら稽古してもうまくなれない者がたくさんいた。

 舟が手に入った次の夏に京都から親戚一家、叔父さんと子供たち5人がやって来た。彼等を案内してメジ力釣りに行った。

 メジ力はやや小型であるがカツオそっくりの魚で、名はマルソウダ、学名 Auxisrocheiといい、スズキ目、サバ亜科、サバ科、カツオ類の魚である。地方によりスマ、ギボガツオ、コガツオ、テッポウなどとも呼ばれている。

 ちなみにサバ科はマグロ類、カツオ類、ソウダガツオ類、サバ類、サワラ類と分かれる。本によってはマルソウダをソウダガツオ類に入れ、スマはカツオ類と別けているものもある。

 ずいぶん前のこととて私たちが釣ったのはどちらだったと、はっきり言いきる自信はないが、ただメジカと呼んでいたことは間違いない。一匹二匹は種類の違うものも混じって釣れたが、これはサワラだったように思う。

 メジ力は新鮮な釣りたてをその場で刺身にしたりもするが、一般的には煮たり焼いたりして食べる。1度にたくさん釣れるので大部分は茹でて燻製にする。鰹節の代用になる。

本物の鰹節と遜色なく、燻べには松葉がよく使われた。たたきにして食べるときも松葉で軽く炙ると香りが良く、新鮮さも手伝ってなかなかうまかった。

 メジカは日の出前後に群れが回遊してきて、瞬く間に何10匹、何100匹と釣れる。カツオの一本釣りのミニ版といったところであろう。このメジ力は沿岸からそう遠く離れず、手こぎの舟で行ける範囲で釣れる。素人にも無理なく手ごろな釣りで興奮させるには十分であった。

 午前3時ごろからこぎ出し、まず餌にする「ちりめんじゃこ」を手に入れねばならない。イワシかなにか類似の魚の幼魚であろう、5センチ前後の大きさのシラス型幼生で、これを日の出前、まだ暗いうちに集魚灯をっけて投網漁法で捕る。

2艘の舟が半円づつを描くように、最初は離れるようにして網を入れていき、わっせわっせと全速力でこいで魚群を網の袋の方へ追い込みながら、最後は合流して2艘の間で網を挟むようにして引き上げる。

 この網上げに間に合うように早く出掛け、近くで待ち構えて捕れたてを海上で買う。網の中でぴちぴち跳ねているのを一升ますで何杯という取引である。これを撒き餌にし針にも付けて釣る。

岸からかなり離れて沖合い深い所に錨を下ろし、舟を止めて釣る。時々まき餌をまきながらメジカが回遊して来るのを待っのである。

 日の出前まだ薄暗いうちからメジカはやって来た。100メートル、数100メートルと間隔を取って散らばっている他の舟のどれかにメジカがやって来ると、たちまちその舟から、バタ、バタ、バタと威勢良く釣り上げた魚が舟板をたたく音が聞こえてくる。舟の人が立ったりかがんだり忙しく立ち回る姿が見える。少しずつ間をおいて一つの舟から次の舟へと順番に忙しくなる様子から、魚の回遊路が読めてくる。

 さあ、そろそろうちの舟だぞと高鳴る胸を抑えて待っていると、いきなりググッと竿を水中に引き込まれそうになる。

 さあ来た! 舟中の竿がいっせいに引き上げられ、釣り上げられたメジカがせわしく舟板をたたく。いやが応にも胸が高鳴った。

 新しい餌を針に付けて投げ込む作業がもどかしく、次から次と食い付く。短い時間にできるだけたくさん釣り上げるのが勝負である。つい気が急いて、慌てて釣り針で指を刺したりした。

作業しながらまき餌を適度にまき、群れを舟に引きつけておかねばならない。忙しいのと面白いので舟は興奮のるつぼになった。一回はほんの5、6分かそこらであったろうか、群れが去った後は、うそのようにしんと静まり返った。

 釣り上げた魚をいけすに入れ、一息ついて次の回遊を待つ。待っている間は、時々まき餌をまきながら待っしかない。餌が深紫色の海の只中をきらきらと漂い流れていくのを、ただ見つめているだけである。

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし     (餅つき)

餅つきジュラ紀前より引用) 

 暮が近づくと、あっちかもこっちからも正月の餅をつく音がぺッタン、ぺッタンと響いた。年末の恒例作業である。隣りに負けないようにたくさんつこうぜと競い合った。

 蒸篭や臼、杵、木箱、ざるなど一通りの道具・器具を洗ったり、あんこ作りやら何やらと数日間の準備作業も結構いろいろやらねばならない。もちろん餅つき当日は朝早くから夜遅くまで掛かった。

 餅米を蒸篭で蒸し杵でつき、つき上がったものを鏡餅にしたり小判に丸めたり、あんこ餅にしたりした。かき餅やあられ用には平たく伸して固め、1、2日置いてほどよく硬くなったところで切る。

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 ヨモギ餅、粟餅、キビ餅も彩りとそれぞれ独特の香りの競演でもり立ててくれた。最近は粟餅、キビ餅と疎遠になっているが懷かしい味と香りである。

地域独特のものであったかもしれないが、イモの餅というのもあった。

 サツマイモを角切りにしてもち米と混ぜて一緒に蒸し、それを杵でついたものである。イモの香りとあまみが出て、少し菓子っぽい柔らかな餅になる。ついでながら正月の餅は別に普段おやつ替わりに食べたもので、やはりイモの餅というもう一つ別のものがあった。これは前述の粉ひきのところで紹介した。

サツマイモでんぷんを水で捏ねて蒸したものである。サツマイモの味と、むちっとした歯ごたえが独特であった。おそらく今でも一つ二つ食べるとおいしいに違いない。実際に当初はおいしいおいしいと食べた。しかし米不足を補うため、いつのまにかふかしイモとイモの餅が毎日、毎日続くようになったから、またか!となつてしまつた。終戦直後の一時期以降、お目に掛かっていないのはそのせいであろう。久しぶりに食べてみたい気もする。

 餅つきの話に戻る。

 小判に丸めた餅は座敷いっぱいに広げた藁むしろの上に、ずらっと並べて形が納まるのを待つ。1、2日広げておいた後、平らな木箱に詰めて木箱を積み上げる。正月の三元日のお雑煮はもちろん、しばらくは餅尽くしになった。

やがてカビを取ったり、カチンカチンになったものを、柔らかさを取り戻すために漬物みたいに水桶に漬けたり、いろいろと工夫して始末しなければならなくなる。当然飽きもくるわけであるが、餅好きな家族であった。根気よく平らげた。

 寒い日には火鉢を取り囲んで餅を焼き、焼けた餅に砂糖醤油を付けて食べる。醤油の香りと砂糖の甘さが餅によく合った。また焼くときプクーンと膨らむのが愛嬌たっぷりで、キヤッ、キヤッと喜んだ。箸で突くとプスッ、ふにやーとしぼむのがまた面白い。

 五つ六つのころには三元日の雑煮餅を競争で食べた。兄や姉に負けまいと一生懸命食べた。忘れもしない、一度に七つ八つと食べて兄姉をしのいで誉められるのがうれしかった。兄姉も、おだててたくさん食べさせてやろうと弟に花を持たせてくれた。

 小判餅といっても今の四つが昔の二つか三つではなかったろうか。10歳前後以降は、少年期、青年期と成長につれてむしろ数は落ちる一方である。食材の種類、量が増えていった時代背景のせいもあるかもしれないが、幼少年児の胃袋の柔軟性には恐れ入る。

 餅つきには店の合間に父も加わるが主に青少年期の兄弟でついた。母と姉妹が餅米を洗ったり蒸したり、つき上がったものを丸めたりする方を担当し、杵を振るう方は男の受け持ちである。

 二人で臼を中心にして向かい合い、蒸したての熱いものを最初は杵で捏ねる。ある程度粒がつぶれて粘りが出てきてからぺッタン、ぺッタンとつく。捏ねを省略していきなり杵を振り上げたりすると見事に飛び散ってしまう。捏ねは熱いうちに、できるだけ素早くやらなければならない。つくのは粘りが出て一塊になりだしてからである。捏ねの段階の方が、どうしてどうしてなかなか力とこつを要した。

向かい合った二人が杵を交差させ、擦り合わせるようにして捏ねる。あら、よ! おら、よ!と、掛け声勇ましく、「なんだもう息が上がったのか」

「なにお、まだまだ」と兄に挑戦とばかり踏ん張った。パサパサとしていた米粒が互いにくっついて一塊になってくると、今度は杵を振り上げてぺッタンぺッタンとつく。いわばよりきめ細かくなるように丁寧に仕上げる。これもどちらがいい音が出るか競い合いながら、大上段から交互に振り下ろす。兄の巧みな誘導に乗せられて一生懸命ついた。

 今から考えると当時の都会ではいざ知らず、粉ひきから餅つきなど、まだまだ田舎では自製が多い時代であった。労力ももちろんであるが道具がそれなりに要る。これらの道具が全部揃っていたということは、それらが収納される場所がそれなりに用意されていたということになる。そんなに大きな家ではなかったし、いったいどう工夫されていたのだろう。建て替えられて古い家の設計の細部を忘れてしまったのは残念である。

昔はいずこの家でも屋根裏や床下など、無駄なくうまく利用していた。たとえば階段の段一つ一つが横に引き出す引出しになっていたりした。部屋と部屋の間仕切りは主にふすまや障子であったことは、ドアと違い空間の利用という面から大変合理的である。

(以下略)

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし      (粉ひき)

粉ひきジュラ紀前より引用)

  昭和20年終戦前後のことである。よく「はったい粉」を熱湯で練っておやつに食べた。

はったい粉」は麦を軽く炒って石臼でひいた粉である。「麦こがし」ともいう。これを茶碗に入れ熱湯を注いで練る。わずかに粘り気が出て塊になったところをスプーンですくったり箸でつまんだりして食べる。味付けは砂糖を少々加えるだけであったが、香ばしさが現代の午後のコーヒー一杯に通じるようだ。手びきだから粉が粗く、さらっとした舌触りが特長であった。

 また同じ石臼でイモの餅用の粉もひいた。この粉は水で練って小判型に丸め、蒸篭で蒸すと黒褐色、飴色をしたぴかぴかの餅ができる。歯ごたえは餅とプリンを合わせたようなものと思えばよい。ぷりぷりむちむちして、一つ二つは甘くてとてもおいしい。

 イモでんぷん餅といった方が分かりやすいかもしれない。サツマイモを洗って薄く輪切りにし、天日で乾かしたものを粉にして作る。

f:id:oogatasen:20190213213337p:plain この「はったい粉」とイモの餅用の粉を作るのに石臼を使った。自分たち子供のために何かと忙しいなかで母がひいてくれるのだから、いつのまにか手伝うことになってしまう。というより早く食べたいから自然に出しゃばることになる。ニンジンをぶら下げられた子馬みたいなものだ。

 小さな手びきの石臼の取っ手を持ってぐるぐる回すだけだが、これがなかなか腕力を要する。今でいえばボディビルのエクスパンダーみたいなものであろう。昔は幼少のころから自然と鍛えられていたことになる。

 石臼は上石と下石を重ね、その間で粒をすりつぶす装置である。下石の中心に取り付けられた鉄の軸を、上石の下面に穿ってある中心の穴にはめ込んで重ね、上石をぐるぐる冋す。上石の上面は皿状にへこませてあり、ここに粒を入れて上石を貫いて穿ってある孔から少しずつ粒を落としながら上石を回す。粒は石と石の間に挟まれ、そこに刻まれた波型の刃と刃で砕かれ磨られて粉になる。

 右手で石臼を回しながら時々左手で粒を少しずつ注入ロにかき込む。粒をばさっと入れると臼は軽く回るが、十分碎けないで粗い粉になる。

 はったい粉は、粉が粗いと湯で練ってもぱさぱさして粘りっ気が出ない。細かくひけばひくほど粘りも出て舌触りが滑らかになる。がんばって味の良いものにするか、食べるときの味の方を少々犠牲にしてひく労力を軽減するかは本人しだい。

 終戦前後の物資不足の時代にこの石臼がずいぶん活躍した。これによる腕力の養成鍛錬も成長盛りの年頃であっただけに、ばかにならないものであったろう。ほんの数年利用しただけだったのか、それ以前もそれ以降も記憶にない。物置にしまったままになったのであろう。先祖が残しておいてくれたものが非常時に活用できたということである。

 粉ひきは大掛かりなものでは水車で駆動したり風車を使ったりする。オランダの風車を知らない人はいないであろう。それに比べ、はったい粉用は各戸にあって人の手でひくのであるから、簡便なポータブルということになる。大量生産方式が発達する前の人々の素朴な生き方が見えてほほえましい。

 もし今も残っていたらコーヒーひきに使ってみたい。電動式の鋼のカッターで瞬時に砕かれるのと違って穏やかにひかれる。微妙な自然の香と味が楽しめるに違いない。

 石臼だから熱容量が大きく、その上、手びきだから発熱はないとみていい。金属の刃が高速回転するカッター式より香り成分の逸散が少ないのではないだろうか。石の霊気も移り加わるかもしれない。

 あるいは逆に石臼を電動式にして、家庭での廃棄物処理に役立てる手だてもあるかもしれない。石の種類など工夫すれば触媒作用も加わっていろいろメリットが出てきそうである。

 しかし重い石を使うのは電力を食ってコストがかさむ可能性もなきにしもあらず、夢想が過ぎたかな。

 さて、はったい粉の「はったい」を昭和4 0年発行の広辞苑で引くと、米と臭、および麦に少ないを横にくっつけた合字が当てられている。

 「米または麦の新穀を炒り、ひいて粉にしたもの、麦こがしと」と説明されている。続いて「米臭」石(はったい石)は砂と鉄鉱と結合してできた黒褐色の円い塊状の石。内部は空で、白色または青白色の細粉が詰まっている。子持ち石となっている。

 そうゆう面白い石がある。実物を見れば自然の造形、偶然のなせる業の奇妙さに改めて感嘆するに違いない。新潟県北蒲原郡黒川村の鉱物博物館に展示されていたように思う。

 

***

 ブロガーは今でも芋の蒸し団子を食べたいと思うことがある。

 寒い冬は芋のカキ餅を火鉢の金網で焼いてよく食べたものだ。膨らんだ餅を押さえて煎餅のようにしても旨かった。

 家内に芋の粉を買ってくれと頼むと、そんなものは売っていないという。石臼はお袋が挽いていた様な、ぼんやりとしか覚えていない。

 

 

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし   (シャコ釣り、メジロ捕り)

 

 シャコ釣り、メジロ捕りジュラ紀前より引用)

  穴シヤコはヤドカリの仲間である。すしなどのネタになる食用のシヤコと違い、干潟に穴を掘って住んでいる。シヤコにくらべるとかなり小型である。我々が親しんだシヤヨはこの穴シヤコのことで、このことは「家から釣りができた」の項でも紹介した。 

  ここでもう少し詳しく紹介しておきたい。以下、穴シヤコと言わず昔呼んでいた通りシヤコと呼ぶことにする。

  家の裏の干潟でゴカイを捕り、満ち潮時にこれを餌に釣りをする。子供のころの一時期のゴカイ掘り、魚釣りの占める割合は大きかった。都会と違って自然が近いことの特権ということもあるし、また逆にそうしなければ他にすることがないということもある。10年近くは楽しんだ。その反動か、以後、釣りにはあまり興味が湧かずほとんど行ったことがない。

 さて釣りの主な獲物はハゼやグーグーであったが、小鯛、チヌ、ウナギなどいろいろ釣れた。この釣りにはゴカイが最も魚信がよく、ひと夕の釣りで20〜30匹の小魚が釣れるのが普通であった。それ以上は飽きたのであろう、50〜60匹も釣った記憶は残っていない。

 餌さのゴカイは比較的簡単に捕れた。家の裏の干潟で、ひと鍬掘り起こした塊を小さくほぐすと10匹前後は捕れる。小さなコップに半分、5 0〜6 0匹くらいも捕れば十分である。この程度のゴカイは4、5回も掘り起こせばよい。

 このゴカイ捕りが目的で作業しているとき、少し深く掘ったときなどに、たまたまシヤコの巣を掘り起こしてしまうことがある。シヤコにしてみれば迷惑千万、巣を壊されてうろうろするところを捕まる。好き好んでうろうろするわけでは決してない。子供の方は不意の闖入者が現れ、ついついそちらに興味が移り、シヤコ捕りに熱中することになる。

 このシヤコの尻尾をタコ糸で縛ってシヤコ釣りをする。干潟には力ニの穴やらなにやら、いろいろな生物の穴が至るところに開いている。ここぞと思われる穴に頭を持っていってやると、やれやれ逃れたと思うのかどうか、あわてて穴に逃げ込む。糸を伸ばして逃げるにまかせていると、間もなく糸の引き込みが止まり、やがてその穴から水が湧き上がってくる。と同時に、今逃がしてやったシヤコが尻尾から後ずさりして出てくる。全身が穴から出てくると、爪の先に他のシヤコが絡んでいる。

 入れてやったシヤコの尻尾が出てくると、親指と人差し指とを穴の縁に伏せるようにして添えて待ち構え、この絡んでいる爪、2匹分の爪をまとめて摘まんで一気に引っ張り出す。

 穴の先住者がここは俺の棲み家だぞ出て行け、とばかり外まで追い払いに出てきたところを捕まえる。爪を摘ままれた先住者は穴から出まいと一瞬抵抗するが、もう手遅れである。入れられたバケツの中で狂ったように這い出そうとするが残念ながら逃れられない。

 こうして1匹で3匹くらい釣ることができた。タコ糸で尻尾を縛られているし、それを繰り返し引っ張られたりするから最初のシヤコは弱ってくる。5、6匹釣るのは難しかった。別の元気なシヤコに交代して釣る。10匹前後も捕れば魚釣りの餌として十分だし、シヤコ釣りそのものに飽きてくる。

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次はメジロ捕りについて

 メジロは若草色の身体に目の周りの際立った白さが目立つきれいな小鳥である。色鮮やかな南方系のものと違い周囲の緑にとけ込んで、いかにも自然に抱かれて生きているといつた感じである。目の周りの純白と黒い目がかわいらしく、上品な小鳥で、大きさは雀を少しスマートしたといったところである。ピーピーか、あるいはチーチ一と表現した方がいいのだろうか、透き通った適度な高さ、音量の鳴き声も心地よい。

 若葉の樹間でじっとしていると、どこにいるのか分からない。動きも素早く目にも止まらぬ感じである。活発に動くから慣れないと見っけ難い。しばらく見ていると動きに慣れて居場所が分かるようになる。こちらが物陰に隠れて静かにしていると安心するのか、ようやくうろうろするのをやめ、与えたミカンの輪切りをつついてくれる。

 見よう見真似で長い竹ざおの先にトリモチを付けて出掛けたが、どの辺りがポイントか分からない。竿を持ち歩いているうちに卜リモチがあちこちにくっ付いてべたべたするし、汚くなる。山道に入ると小枝や草や落ち葉やらを拾い上げ、ここら辺りでどうだろうと着いたころにはトリモチにいっぱいくっ付いていて役に立たなかった。残念ながらトライしたとも言えない状況であった。

 大人もノウハウを子供に教えると商売仇になるとでも思ったか、肝心のこつは教えてくれなかった。

 メジロはおとり作戦が多かったようである。1匹捕まえると、これをおとりにして2匹目を捕る。鳥かごに小さな卜リモチを付けた小枝を差して固定し、中にメジ口を入れて仲間が来てトリモチにくっ付くのを待つ。おとりのメジロが鳴くのを聞いて別のメジロがやって来る。近所のおじさんが1度だけ立会わせてくれた。

 2、3人で物陰に隠れてじっと待った。うまい具合に1匹掛かった。それ!とばかりおじさんの制止も聞かず私たち子供が走り寄ろうとした。2、3度羽ばたいたかと思うと、さっと飛んで行ってしまった。片足だけトリモチの上だったのかもしれない、まだ十分くっ付いていなかった。後に残されたかごの中のメジロが、いっそう哀しげに鳴いた。

 メジロを捕る環境に恵まれなかったこともあろうが、小学校低学年、中学年の子供には少々荷が重い。何よりもかごの中のメジロが哀れに思えて再挑戦の気が起こらなかった。以後経験がない。

 昨今、早春に我が家の庭にもよく メジロがやって来る。いつも2匹でやって来る。おそらくつがいであろう、仲良くやって来る。メジ口にしてみれば二人で警護し合っているのかもしれない。必ず2匹ペアでやって来る。

 庭木の小枝にミカンを輪切りにしたものを刺しておくと、いろいろな小鳥が来るが、メジロは必ず2匹で来る。本当に仲のよい夫婦だなあと、ただただあきれるばかりである。

 

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし     (米俵の防空壕)

 米俵の防空壕ジュラ紀前より引用)

 昭和2 0年の5月、ある日の昼過ぎ、グラマン戦闘機が宇和島市に急降下爆撃を加えるのを目撃した。ブーンと急に爆音が空から降ってきて丘の向こうに機影が消えたと思った一瞬後、ドカン!という爆発音が響き渡った。続いてブーンと急上昇する機影が再び視界を斜めによぎり、それを追うように入道雲のような黒煙がもくもくと丘の背の上に顔を出してきた。ちょうど家の前の路上にいた私は、思わず機影に向かって「ちくしょう」と心の中で叫び、こぶしを握り締めた。

 実際には隣り街に落とされたのであるが、直線距離にして4キロほどしか離れていない。丘の背は家並みのほんのちょっと上である。それに飛行機をそんな近くで見たことがなかったし、ましてや爆弾の爆発音なんて生まれて初めてである。一瞬、町外れに落ちたのかと錯覚した。表に立ちすくんでいる私を母があわてて家に引き戻した。

 以来、いずれ間もなくこの町にも空襲があるのではないかと住民の不安はつのり、子供をさらに田舎へ疎開させる家庭が出始めた。その後、宇和島市は何度かの爆撃を受け市内は焼け野原になった。いよいよ今度はうちの町にも落とされるのではないかという心配が現実味を帯び始めた。

 そうした時期、米穀配給所の宿直に父についていった。当時、米は自由に売買できず政府の統制下で配給制になっていて、町の米屋さんはみんな配給所の職員になっていて、夜も毎日交代で一人が宿泊し、盗難防止と万一の空襲に備えた。

 B2 9爆撃機が高空を行き来する頻度はますます高くなり、ラジオの戦果放送とは裏腹に空襲の心配はつのるばかりである。

家の裏手、川向の犬日城山に兵隊さんが大勢やってきて穴を掘り始めるし、長い軍刀を腰に提げた上級軍人の姿も目につくようになった。配給所は敷地の真中が空き地になっていて、これを囲むようにロの字型に建物が建っている。父が見回っている間、宿直室はシーンと静まり返った。

 就寝前の見回りを終えた父と私がうとうととしかかった時であったろうか、飛行機の爆音とけたたましく鳴り響くサイレンに跳び起きた。

 空襲警報だ。人々が往来をあわただしく駆け抜けていく。消防車の鐘やサイレンの音が、あちこちから聞こえてきては表を通り過ぎる。父は跳び起きるやいなや防空頭巾を私の頭にかぶせ、抱き上げるようにして倉庫に転がり込んだ。私を俵の山の隙間に潜り込ませ、自分は傍らに屈み私の頭を抱えた。

シューシューシュー、バリバリバリ、ドン、ドン、ドドン。爆弾とは少し違う破裂音、落下音が続いた。俵の下から倉庫の軒下の細長い窓を通して、花火のような明るい光の塊が何個もゆっくりと落ちてくるのが見えた。

 町が薄明かりに照らされ家々の屋根のシルエットがはっきりと浮かび上がる。俵の隙間でシュルシュルシュル、パリパリパリパリ、ドン、ドン、ドン、シューシュ—という音を聞きながら息を殺した。倉庫の窓越しに南の空が明るくなり町が燃え始めているのが分かる。相当に近い。

 父はどうしていいか分からなかったのであろう、凍ったようにじっとしていた。みんなのための米である、職場放棄はぎりぎりまでできない。直撃弾さえ食わなければ助かる。落ちてきてからその時の状況で対応するしかない、と腹をくくっていたのかもしれない。かなりの間ただじっとしていた。

 南の方向、桟橋の辺りに落ちているらしいことは判断できた。しかし小さな町である。港と配給所のある町の中心とは5 0 0メートルくらいしか離れていない。配給所にまで及んでくるかもしれない。その上、配給所も町では目立つ方の施設であり狙われる可能性は十分考えられた。来ないように来ないようにとただ祈っていたに違いない。

 どのくらいの間だったかじっとしていた後、爆音は遠ざかっていった。1度2度旋回する程度、ほんの5、6分くらいのことだったのかもしれない。しかし、それがずいぶん長く感じられた。

 やがて門の戸をたたく音が間こえた。同僚が駆けつけたのであろう。父は俵から離れ玄関の方へ行った。同僚が町の被害の状況を知らせてくれた。父がようやく普段の落ち着きを取り戻して引返してきた。私も俵の下から解放され思いきり背伸びした。

 とにもかくにも無事に朝を迎えることができた。まぶしい朝日を浴びながら家路につくと、みんながぞろぞろと桟橋の方へ桟橋の方へと向かっていた。

 家に着くやいなや私も近所のがき仲間に加わって現場へ出掛けた。現場に近づくにしたがってプーンと油のにおいと煙のにおいが強まってくる。現場では硫黄のにおいも混じって漂っていた。

桟橋前の倉庫群と周辺の民家が被害を受けてまだくすぶっていた。これまで経験のない、えたいの知れないにおいに気分が悪くなりそうなのをがまんし、鼻をつまみながらまだくすぶっている現場に入った。そこら中にゼリーのようなものが散らばっている。焦げた筒状の焼夷弾の残骸に混じってカーキー色の不発弾も見られた。今にして思えば危ない限りである。

 大人に制止され追っ払われるまで、ゼリー状物を棒でつついてみたり興味津々である。追っ払われながらもまだ見ていない方へ見ていない方へと逃げ、ほぼ被害地を見回ることができた。

 青年、壮年の男子はほとんど出征していて、人口構成も女子供に老人が主であった。いろいろ指揮したり統制したりするには人手が足りなかったことであろう。跡地の整理もなかなか進まず、その後しばらく現場はそのままになっていた。

 当時、宇和島市はもうすでに焼け野原になっていた。もう落とすところがなくなって広島、呉辺りを襲った帰りに残りを捨てて行ったのだろう、また来るかもしれないと憶測が飛び交った。豊後水道を通って上陸してくるつもりではないか、との憶測も流れた。水道に面した町は大小を問わず徹底的に破壊するつもりだろう、と妄想は広がる一方である。

 それから間もなく広島に原爆が落とされた。何かしら新型の爆弾が落とされたらしいという噂に、父母はいよいよ本土決戦かと心配し、居ても立ってもいられなくなったのであろう、私と妹たち3人が山村の農家に預けられることになり疎開したのは、その後すぐのことである。戦後しばらくの間、沿岸漁の網に不発弾が掛かったニュースが続いた。

 後年、大阪へ出てきてからこの空襲の話をしても誰も信用しなかった。なにお寝言を言っている嘘だろうと言う。都会の空襲が本当の空襲で、おまえとこのなんか空襲ではないと頭から相手にしない。自分たちが一番すごい経験をしたと自負していて譲らないのに驚いた。むしろ田舎の人に空襲の怖さを話して聞かせてやろうと思ったのに、なーんだおまえも知っているのか、つまらん、と不服顔である。

 被害の広さ空襲の回数で比較すれば、むろんその通りである。しかし原爆はいざ知らず、焼ける、爆発する現場に変りはない。焼かれる蚊にとってはローソクの火も焚き火の火も同じである。人間の心理の非合理さ不可思議さに考え込んでしまった。

 ついでながら、当時防空壕は家の前、道路脇にも学校の校庭にもあった。町中あちこちに作られていた。その壕作りの手伝いもしたし、訓練では何度も入った。

しかし私が現実に使った壕は俵の壕であった。あの湿っぽい地下の壕ではなく、米俵の脇で済んだのは幸いであった。

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし      (レータの浜)

レータの浜での磯遊びジュラ紀前より引用)

 

 町は入り江の奥にある。U字型の湾の両岸は岩場と砂浜が交互に並ぶ綺麗な渚が連なっていて、左岸側にはほとんど集落がない。自然のままの渚が続いていた。

 リアス式海岸特有の岩場に挟まれて、所々にちょっとした砂浜が何本か数珠つなぎになっている。この数珠つなぎの岸辺をレー夕の浜と呼んでいる。

 岩場は岸から急斜面で落ち込んでおり水はいつも青く澄んでいた。大きな木の枝が岩の上に覆いかぶさり、海面すれすれまで垂れ下がっている所もあって風景画から切り取ってきたようであった。

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  このレータの浜では海水浴をしたり貝殻を拾ったり、釣りをしたり巻貝を集めたり、磯遊びを楽しむことができた。岩に着いた海藻をかき採ったりもした。

岩と岩の間を跳んだり、登ったり下りたりして岩場を巡り、海藻の林を泳ぐ大小色とりどりの魚の群れを眺めることができた。ちょっとした岩場の深みに潜ると海綿やトサカノリのような色鮮やかな海藻にサンゴも垣間見ることができた。海藻の林を小魚たちと戯れいると、一メートル足らずのフカに出会ったりすることもある。びっくり慌てて岩によじ登ったりした。フカはシロサメの子、アカブ力であったと思う。

 干潮時には岩場のくぼみや潮溜まり、小さな池の中で、いろいろな生物に出会える。ヤドカニを捕まえたり、ちょっと変った形、大きさの巻貝を見つけて喜んだりした。岩間に着いたイソギンチヤクをつついたり、アナアオサやウミウチワなどの海藻の陰に隠れた小さな魚、ギンボの類を両手で追ってすくったりした。

 また砂浜では、打ち上げられたいろいろな海藻をこれは何々、あれは何々、あっ珍しいのを見つけたなどと言いながら、ひと泳ぎのあとの自然観察もできる。ホンダワラの豆をプチン、プチンとつぶしたり、漁師が打ち棄てた赤天草、白天草など深場の海藻の断片を手に取って喜んだりした。

 岩場の先端ではベラやグレ、カワハギ、力ゴカキダイやメジナチョウチョウウオなど色鮮やかな魚も視界をよぎる。ウミウシアメフラシ、ナマコにウニ、ヒトデ、イソギンチヤクなど色も形もさまざまな生物が見られた。数センチしかない小さなフグの子が足元までやって来ることも珍しくない。そのかわいらしさにつられて手を伸ばし、すくい捕ろうとすると、ぱっと逃げてしまう。人懐っこい割にすばしっこく簡単には捕まらなかった。

ゴンズイの一群が小さな竜巻のように岩陰から突然涌き出てきて、慌てて足を引いたりもした。ロひげ生やしたドジョウ顔と鮮やかな黄色の縞模様がちょっと薄気味悪い群舞であった。

ミズクラゲやタコクラゲは海中見通せる範囲にくまなく広がって群舞を見せてくれる。

 これらのクラゲは満ち潮に乗って湾内奥深く町の河口をも遡って、家の裏の川がクラゲでいっぱいになることも珍しくなかった。時には毒触手を長くたなびかせた赤い筋模様入りの透明なアカクラゲが混じっていることもある。

《中略・筆者の三瀬氏は、クラゲ、海藻、魚のスケッチを丁寧に描かれたり、学術研究の分野まで詳しく記されているが、紙面の都合で省かせて頂きます》

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 朝早く、大人の大きさ以上もあろうかと思われるメバチを1匹乗せた大八車が、重そうに引かれて行く姿もよく目にした。オー!と思わずみんなが声を上げた。私たち子供が車について走ったものである。

 このメバチ(Thunnus obesus)の頭のあら焚は、大家族向けの大鍋からもはみ出さんばかりであった。その目玉は大きくて、周りの脂肪・タンパク質はとろっと口の中でとろけて、とてもうまかった。

 レ一タの浜へは後年、家に釣り舟が手に入ってからは海路も何度か採用した。これは私にとっては大変な労働で自然観察の楽しみが半減した。櫓が漕げるのがうれしくて仕方がない間は長く続かない。兄たちはもう若菜摘みなど付き合う年ではない。いとこたちも近所の同年輩の参加者も、ほとんどの者が櫓を漕げない。私一人であった。とても大勢乗せて何度も行けるようなものではない。

 考えてみると母の度胸も大変なものである。舟が手に入った時には私は10歳を越えてはいたが、やせっぽちで小柄な私一人が漕ぐのである。それに女子供総勢10人近くが乗って、小さな狭い湾内とはいえ海を渡るのである。5分や10分ではない。往復だと時間単位の間、私一人の細腕に託すのである。現代の親子ではとても考えられない。

***

 ブロガーは、中学時代だったろうか、一度、友達とボートを漕いで吉田湾の中央付近まで行った覚えがある。しかし知永の浜辺をレータの浜と呼んでいたとは知らなかった。

日頃、小船で沖の方まで行くことは無いので、危険を感じ引き返したと記憶している。

 今年の始め、松山市に行ったとき同級生の清水君に聞いた所、レータの浜へはよく船で行った!というので間違いないのである。