伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし       (家から釣りができた)

 家から釣りができたジュラ紀前より引用)

  吉田町は四国の西南部、豊後水道に面したリアス式海岸の湾内にある。対岸九州は大分県である。山また山の隙間を流れ下る細流の河口に、わずかな平地を造成して造られた。もともと葦の茂る沼地で葦田(あし、またはよしの茂る所)であったことから吉田となった。

 私の家は河口近くの川岸にあり、家の後ろ半分は水上に建っていて京都の鴨川の涼み床、南海の水上家屋の趣を呈していた。床の板張りの下は満潮時には魚たちの遊泳場となり、干潮時は干潟となる。

 昭和の10年代前半、私が物心ついたころにはまだ川獺が住んでいたらしく、床下でポチャン、シャブシャブと何かが動く水音がよく間こえた。敏捷なのか人目をうまく避け、その姿を見ることができなかったが、母が

「あっ!また川獺が来とる、ほら聞いてみなはい」

と仕事の手を休めて私によく注意をうながした。

 夏は海からの潮風が家の中をトンネルの中のように通り抜けとても涼しい。夕べはまた海へ向かう風が心地よい。よく近所の人が涼みに集まってきた。買い物客もついつい一休みしていく。米俵と格闘した父が汗取りに奥の居間へ入ってひとときの相手をする。なにしろ床下からも風が漏れ通るのである。暑さ知らずが父の自慢であった。

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 しかし難点もある、第一が台風。

川に面しているだけに風を遮るものが何もない。風雨が真正面に吹き付けてくる。普段散らかしているだけにそれらの片付け収納が大変であった。家はぐらぐら揺れるしみしみしときしむ。隣りの神社の太い松の枝が折れて飛んでくる。床板を潮水がたたく。ヒュ一ヒュ一、カタガタ、ゴトゴ卜、ミシミシと雨風による音と振動で眠れぬ夜を何度も過ごさねばならなかった。

 いま一つの難点は京都の涼み床と違い見栄えが良くないことである。

二階建ての建物が重過ぎるのか傾きかげんで、千潮時に対岸から見ると床下の杭柱と建物の柱がくの字に見えた。川に突き出ているから余計目立つ。

 だいたい家の裏手というものはがらくた置場になりやすく、いろいろな物が無秩序に散が近づくと雨戸の固定や屋外に置かれた雑貨など、散らばっていて他人には見られたくないものであるが、わが家は川に浮かぶ舟、対岸の道路に対して無防備である。いやでも応でも目についてしまう。

 対岸すぐ目の前には標高100メートルあまりの犬日城山が迫っている。その昔、砦か何かがあったのであろう、山上には礎石の名残らしい石がちらほら散在している。山塊が手ごろで薪拾いをしたり柴滑りしたり、みんなが身近に出入りできる。山じゅうが子供たちにとっては格好の遊び場であった。

この山が西日を比較的早く遮ってくれるから夏は暑さしのぎの一助にはなってくれたが、その山すそに密着して川岸に道路が通っているから、そこからわが家の裏手が手に取るように見える。

 終戦後、そのふもと河口に中学校が新築され、私はそこへ入学したから通学途上で家の裏を見ることになる。家財道具やら何やら雑多な物がむき出しになっているし、廃棄前の品物、燃料用の木切れなどが所狭しと散在しているのがよく見えた。とても鴨川の夕涼み床を連想させるような風情ではない。学校への行き帰りみんなと一緒に対岸を通るのがつらくなった。

「あれがおまえの家か」

と、尻丸出しのわが家を指さされるのが心の臓をちくちく刺した。その試練がある種の度胸を養うには役立ったかもしれないが、あまり楽しくない思い出である。

 しかし、そこは母の主戦場であった。

床の一部は炊事場と風呂場になっていて、残りのスペースは私にとって潮干狩りの戦果を整理する所、満ち潮時の釣り場となる。見掛けとは違い母と一緒の居心地の良い作業場であった。

水くみの手押しポンプにバケツやひしゃく、釣り竿や網、ゴカイ掘りのための鍬やら桶など、母と子供がいろいろがらくたを散らかし、心置きなく くつろげる場所であった。

 干潮時に干潟でゴカイやアナシヤコを捕り、潮が満ち始めるとこれを餌にして釣りを始める。ハゼやグーグーが面白いように釣れた。ハゼもグーグーも体長の割りに引きが強くたくさん釣れる。子供には手ごろで夢中にさせるに充分であった。

 (中略)

 さて、裏の川の恵みである。

釣りのメインの獲物ハゼは軽く焼いて乾かし、保存した。料理のだしに重宝された。どうしてどうしてなかなか味の良いだしが取れる。この保存ハゼに取りたて魚のだし、いわば自製調味料である。味噌も自製する家庭が多く、各家庭が独自の味を持っていた。

 春には干潮を利用してアオノリ採りしたりアサリを掘ったり、杭柱や付近の石垣に着いたカキを取ったりする。すべて自然の恵みである。

 栽培する、取る、捕る、採集する、洗ったり加工したり、煮たり焼いたり、インスタン卜食品などまだない。それに加えて掃除洗濯、着るものの仕立て、繕いなど、母の活動範囲は本当に広かった。買ったり頼んだりより自前が多い。ただ買いに行くのと違い、頭脳と手足の活動は種類も多く内容もどうしてどうしてなかなか高度である。

 特に田舎へは現今と違い変化の波が伝わるのが遅い。電気製品がドンドン普及するまでの田舎の暮らしは、明治の続き、いな維新前の続きではなかったかとさえ思ったりする。

隣りには老漁師さんとそのご子息夫妻が住んでいて、一本釣りで生計を立てておられた。

 釣りの原資は干潟で取れるゴカイやアナシヤコなどである。親子お二人で夜明け前に手漕ぎの釣り舟で出掛けられ、私の起きるころには立派な鯛の5〜6匹も釣り上げて帰ってこられた。

 あとは昼寝と漁具の手入れ、明日の用意。にこにこしながらゆったりとやっておられた。

 合間に親父さんと息子さんが交互に、しょっちゅう空をじ一と見上げて天気を占っておられた。それが私にはきわめて穏やかな静かな暮らしに見えた。米屋の喧騒とは好対照である。我が家の生活と比較して何かしらうらやましく、社会の、生活の多様さ不均一さを思った。

 ちなみにアナシヤコはシヤコではなくヤドカリの仲間だそうだ。泥っぽい干潟に数10センチ以上に及ぶ比較的深い穴を掘って住んでいる。

 まず干潟の穴の一つをぐんぐん掘って1匹を捕まえる。あとはこの1匹をおとりにして釣り上げる。

 最初に捕まえた一匹の尻尾を糸で結び他の穴に入れてやると、そこの住人がここは俺の家だぞ出て行けとばかり、爪と爪を絡ませて穴の出口まで上がってくる。糸を軽く引いてわざと負けさせ外までおびき出し、絡んだ爪が穴の外へ出た瞬間その絡んだ爪を一緒につまんで引っ張り出す。

 餌を捕るので釣りを楽しみ、この餌でまた釣りを楽しむ。生き物と人との知恵比べとはい今で和やかな風景ではないか。

 

 

 

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし        (闘牛)

闘牛(ジュラ紀前より引用)

 

闘牛も垣間見たことがあった。これもまだ幼児のころである。

家の対岸、山すそを通っている道路を川沿いに上ると、山すそがわずかにへこむでいて、ちょうど小さな闘牛場が一つ造れるくらいの平坦部があった。半周が山の斜面で自然の観覧席になっていた。川沿いの道路側を太い丸太の柵で仕切りると山側は柵なしでもいい。

当時はあちこち各町で闘牛が催されていたらしく、吉田町の闘牛もかなりの規模であった。横綱大関などは立派な絨毯ほどもあろうかという錦織物を胴に掛け、旗指物を高く掲げて家の前を堂々と行進するのが見られた。

大きな身体でトン近くもあったのであろう、前足が短い上に鼻先が道路をこすらんばかりに頭をぐっと下げて歩く。闘牛場へ向かっている段階ですでに闘志を現していた。粘っこいよだれを道路にまき散らし、荒い鼻息で路上の小石など吹き飛ばしながら通って行った。大きいのと鼻息の荒いのに怖れをなして家の軒下、後ろの方から晛き見た。

それぞれに(しこ名)が付けられ、どれが強そうだとか、今年はあの大関横綱を倒すのではないかとか、かしましく噂も飛び交っていた。

試合前はたっぷり栄養取って角を鍛えたりする。何日間か焼酎もたっぷり飲ませたりして闘志をかき立てるのだとも聞いた。迫力あるはずである。

柵の外をうろうろするものだから、子供は危ないと追い払われるが、なかなか言うことを聞かない。怖いもの見たさに数人で、かなりの間あっちの隙間からこっちの隙間から垣間見た。

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つき添ってけしかける勢子の掛け声と、牛の鼻息が聞こえるのとで緊張感はかなりなものであった。どちらかが押し負け逃げ出すと勝負あったで、人がくつわにしがみついて引きずられながら止める。

しかし2頭の実力が伯仲していると勝負は容易につかない。角を突き合わせたまま頭を低くし、あごを土に着けたまま押し合っていて、どちらも譲らない。ただ足に力が入っていて土にめり込んだり、ずるずる滑ったりで牛が真剣なことは伝わってくる。数十分ではなく時間にも及ぶことがあると聞かされた。

慣れてくると退屈にもなるのであろう、牛の真剣さとは裏腹に私たち子供の興奮とは掛け離れて、大人たちは酒と重詰弁当持参で、のんびり腰を据えて見物していた。年に何回かの楽しみであったのであろう。娯楽にしてはかなりな規模である。

私が見た一勝負は闘牛場の中央部で角突き合わせたまま、見ている間中ほとんど動かなかった。危ないからと追い払われるまで相当長い間、二頭は動かなかった。追い払われていったんは離れたが勝負が気になる。また別の場所に回って視き見した。

ちょうどその時、1頭が力尽きたのか一瞬の隙を突かれたのか、相手に潜り込まれてしまった。あっという間に横向きになり前足が宙に浮いて逃げ足がっかない、脇の下から突き上げられた。勢子が大勢たかって必死で引き離した。やられた方の状況は確認できなかったが、わき腹を角で突かれたらしい。珍しいケースだと聞いた。

後にも先にもそれ以来闘牛を見たことがない。

ほどなく戦中戦後の時期に入り、時代の流れに流されてしまったのであろう。その後、元闘牛場はミカン畑になったままである。

産業の発展と反比例して過疎化は進む一方だし、昔のようにあっちの町でもこっちの町でもというわけにはいかなくなった。今では隣り町の宇和島布に立派な屋根付きの闘牛場が作られていて、そこで興業されるだけになっている。

闘牛は豪快さ迫力とは裏腹に、時間感覚ものんびりしている環境でないと合わないのかもしれない。飼育や準備など環境整備の労力とコストの負担も大きいことであろう。楽しみ、趣味としては贅沢過ぎるのかもしれない。

昔は随分豊かで充実した生活だったのだなあと、新発見をしたような気分になる。物質的にはともかく、少なくとも精神的には、のんびりゆったりと豊かであったに違いない。

 

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし        (十日えびす、七夕)

 

十日えびす、七夕など(『ジュラ紀前』より引用)

 暮れの餅つきから正月と続いた熱気が、一段落する間もなく十日えびすが来る。大阪で言う商売繁盛で笹持って来いの日だ。

 私の家は1軒おいて隣りが住吉神社、えびす神社だから、みんなが家の前をぞろぞろ笹持って行き来する。それだけ笹飾りが身近であった。

 笹には小さな米俵や千両箱、金色の大判小判に桝、鍵など、今でいえばミニチュアが付けられている。かわいらしくて子供にはたまらなく魅力的であった。いやが応に収集心をそそった。

 神社に納められた古いものはまとめて海に流されるのだが、勝手知った近所の子供たちが投げ入れられた昨年のお返し笹の山から、これらのミニチュアを選り取り見取りできた。年に1度のうれしい日である。神社の傍ら岸辺に積み上げられた笹からちょっと頂戴するわけである。夢中で集めた。

 米俵が最も人気が高く、握りこぶしくらいの大きいものや親指ほどのものなど、大小を問わず奪い合った。近所の子供があちこちの物陰からさっと出てきて先を競う。同じものであれ構わず何個も集めて、両手で抱えるようにして持ち帰った。

 当年のものは神棚や玄関の脇などに飾られ、1年間眺めるだけで触ることができない。

 当然のように神社に納められた昨年のものが目当てになる。杭と縄で仕切られた返納飾りの置き場に積み上げられた笹の山が、おもちゃの掘り出し場所となった。

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 現代のように店にも自分の家にもミニチュアや人形など、おもちゃがあふれている時代とは全く違う。いとおしさもそれだけ高かった。建前上は海へ流すことになっているものを、みんなに後れを取らないよう真剣に集め、宝物のように大事に大事にした。

 大人の方も先刻承知していて、あまりとがめたりしない。子供の方も散らかし放しにはしなかった。現代の感覚からすれば、子供だから同じ物をたくさん集めれば飽きもくるはずであるが、飽きて捨てた記憶はない。捨てるころには興味も失い忘れてしまったのかもしれないが、とにかく異常に興奮した。いったん神社の片隅に積み上げられた

 去年の笹飾りは、ある程度たまると一斉に海に流された。そのころには飾りのミニチュアは子供たちに取られてあまり残っていない。それが引き潮に乗って沖の方へ流れて行くのを、惜しいものを見送る気分で見送った。

 笹も現代のものに比べると何倍も大きい。ときどき川底に引つかかったりして転がると、水面下に隠れていた取り残しのミニチュアが現れたりして悔しがった。

懐かしい光景の記憶である。

 十日えびすのミニチュア飾りを集めて喜んでいたころのことだったと思う、祭りの夜店を出したことがある。その光景が脳裏の底からむくむくとよみがえってきた。

 町では毎年春と秋に大きな祭りがあり、秋祭りでは牛鬼が出て暴れる。このことは先に書いた。春祭りもこの秋祭りに匹敵するような賑やかなものであった。お神輿は言うに及ばず、たくさんの山車や八つ鹿踊りは春の主役だったかもしれない。町の各所に夜店が並び、近郷近在の人が大勢出てきて賑わった。

 ある春祭りのことだったと思う、家の前がメイン通りの一つだからと、どこかの誰かに頼まれて夜店を家の前に出したことがある。子供の訓練になると両親が思ったかもしれない。戸板を木箱の上に乗せ臨時の台にした。その上に商品を並べた。何か張子か縫いぐるみのような物だったかもしれないが、全く記憶に残らなかった。

 電灯線を軒下まで延ばし、戸板に載せた商品を前に同じく木箱を逆さにして座り、

「いらっしやい、いらっしゃい」

と通りがかる人に声を掛けた。

兄だったか姉だったか、二人で並んで座ったことをうっすら覚えている。恥ずかしがり屋だったから相当に勇気を出したつもりであった。

 残念ながら一つも売れなかった。早々と店をしまい親からは意気地なしと叱られ、商品を提供した人にはあきれられた。うっすらとあやふやな記憶であるが恥ずかしい思い出である。

  同じころ、七夕祭りで赤、青、黄、ピンクなどの綺麗な短冊に墨で字を書くのがうれしかった。墨をすり毛筆を持って、ちょっとばかりお兄さん気取り、一人前になったような気分が何となくうれしかった。「あまのかわ」と書いて、少し曲がったかなとか、墨をつけ過てにじんでしまったとか、一喜一憂しながら書いた。ほとんど「あまのかわ」と同じ言葉ばかりであったが、やった!今度は上手に書けたと喜んだりして一枚一枚に感動が伴っていた。

 また、漢字でも書けるぞと「天の川」と書いたりもした。覚えることに最高の喜びを味わえる年頃であったと思う、一生懸命同じ字を繰り返した。

 また笹に吊るす紙縒り作りも母から教わりながら取り組み、やっと1本うまくできたと喜んだ。

 紙縒りはお習字に使う半紙を細長く切り、親指と人差し指と中指の3本を使って端から螺旋に縒っていく。時々指先を舌に当て湿らせながら縒る。

 半紙は鋏で切るよりも、折り目を付けてそこから破くように切るのがよかった。切れ目に微細な繊維の毛が生えて縒るのに都合がよい。それが舌の微妙な湿りっけを含みアンカ一になったのであろう、螺旋がずるずると解けるのを防いでくれた。

 紙縒りは最後の少しを縒らずに残し止め部とする。短冊の上の方に開けた穴に紙縒りを通す。あとは笹の枝に紙縒りを結び、吊るせば笹飾りができ上がる。

 笹には短冊の他に、網も作って吊るした。網は半紙を織り紙のように折って、はさみで切れ目を入れて広げると、裾広がりのドレスのようなシルエットの網ができた。単調な短冊の長方形に混じって白い網が繊細に広がった姿は笹飾りに大きなアクセントを付けてくれた。

 細長いクラゲの糸のような白い流しもあった。ただ網に比べると記憶が薄いのは折り紙作りの網の印象が深かったためであろう。

 こうしてできた笹飾りを二階の窓の手すりにくくりつけた。涼風がさらさらと鳴らす笹の葉の音はなかなか涼やかなものである。

 短冊飾りは小学校低学年生くらいがふさわしいのであろうか。字を覚えたうれしさ、字が書けたうれしさが印象深い。少年になってからの記憶はむしろ薄い。

 小豆独特の色をした甘いあんこでくるむぼたもちや、月見団子が食べられるのもうれしかった。ぼたもちができるのを待つあいだ、母が話してくれた牽牛と織姫の伝説に同情し、神妙な気分になったものである。ぼたもちを食べながら、星の二人も一緒に食べているかな、と思ったりした。夕闇がやって来て星が輝きだすと、しっとりした二人の話しがいっそう輝きを放つようであった。

  夜空の星はまさに空いっぱいに散らばっていた。降るようなという表現はぴったりであった。

f:id:oogatasen:20190201105523p:plain(画・三瀬教利氏)

 

 

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし(お節句のお弁当)

 亥の子の次はお節句の話し、ブロガーの家は長女が居ったせいか、ひな人形があった。男4人兄弟になっても何故かお袋は、ひな人形を引っ張り出して飾っていた。
男の節句は旧暦で4月、馬の背という小高い山の雑木林に入って、旗をめぐらし陣地を作った。チャンバラごっこの様なものである。町内の犬尾城山、石城山にも旗がひらめいて皆な、戦国時代の合戦気分で盛り上がっていた。

 節句のお弁当(『ジュラ紀前』より引用)
 旧暦三月のひな祭りには、漆塗りの小さなお弁当箱にご馳走を詰めてもらうのがうれしかった。近所の子供たちが思い思いにひな壇の前に集まって、弁当箱の引き出しを開け、見せ合いながら一緒に食べた。
皿に乗っていても折り詰でも中身は同じではないかと思うのは大人の感覚、金銀色の金具の取っ手が付いた引出しが3重、4重に重なっている弁当箱に詰めてあるのがうれしい。
普段と中身が少々違うばかりではない。味付けが同じであっても違った味に感じられた。
海台巻、卵焼き、ゆで卵が人気のメニューであった。蒲鉢のピンクも、いつもよりひときわ目立つ。魚の焼き身や煮つけのイワシ。ニンジン、ゴボウ、コンニャク黒豆などの煮つけに、ダイコン、ニンジンの酢の物一つまみが添えられる。これらの小さな一切れ二切れが入るだけで箱はすぐいつぱいになった。たくあんや梅干も海苔巻に囲まれて鮮やかに彩りを添えた。

 こう思い出しながら並べてみると、当時の食材もなかなかバランスが取れていて結構なご馳走である。弁当箱はひな壇にでも飾れそうな、おもちゃのようにかわいらしいもので入る量はしれているが、いっぱい詰まっているのがうれしい。そこえ多段の引出しに光る金具、これがまた気分をかき立てた。
金銀色の金具の取っ手は細工もしっかりしていた。かわいらしくて子供の指でないと入らないような代物であったが、このかわいらしさが幼児にはぴったりくるのであろう。みんなで弁当箱と中身を見せ合った。
自分の箱にないものが隣りの子の箱にあったりして、見せびらかしたり侮しがったり、やがて交換し合ってわいわいがやがや食べた。
ひな壇の前でひとしきり食べた後、近くの野辺に出掛けて食べることもあった。桜の花びらの散る下で、ござを敷いて座る。みんないつもと違う服装で、女の子たちは綺麗な着物に着替えている。髪も綺麗にといて髪飾りの一つも付いていると、男の子も妙に浮き浮きするから不思議なものである。
幼児から小学校低学年くらいまでの記憶しかないのは、多分それくらいまでの年齢の子供が、ままごとごっこよろしく一緒に食べたのであろう。10歳にも近づくと食欲も一段と高くなり、小さな弁当箱では物足りなくなるし、ことさらひな壇にこだわらなくなる。
当時はまだ男女3歳にして席を同じゅうせず、だとかなんとか言った時代である。そうした時代背景も助長していたのかもしれない。お互いだんだんと避け合うようになる。ひな壇の前など照れくさくってというところであろう。
 最近は給食といってみんなに同じ物が配られるが、私たちが子供のころの弁当はそれぞれ独特の母の味であった。ちょっとずつ違うところが良かった。大人の良し悪し、近年の高級料理志向の感覚とは違い、たとえたくあんであろうと自分が好きなもの、母が作ってくれたものが一番。だいたい卵焼きがいつもランクのトップであった。
もちろん家庭の事情も影響し、無益な競争心や気の毒な引け目の芽生える怖れなしとは言い切れないが、各自それぞれが独自の弁当持参の良いところもいろいろあるような気がする。
あっ、あの子のあれいいなあ僕もあれにすればよかったなあと、ひとときのうらやましさがよぎることもあるかもしれない。しかし、次はお母さんの言うことをよく聞いて僕もあれを作ってもらおうと、むしろプラスの効果の方を見直したい気がする。
恵まれ過ぎて、あれはいやこれは嫌いと偏食したり残したり、粗末にする子が多い昨今の状況よりも、より好ましい不満の経験ではないだろうか。

 五月の端午の節句では武家人形や弓矢・刀剣の飾りが主で、さすがに男の子向けである。
出世を願う気分が前面に出され、男気一色であった。華麗さ賑やかさより勇ましさが目立った。人形や兜甲胄も大きい方が喜ばれ、大きさを競い合った。鯉のぼりも大きさ比べ一色である。
最近のミニチュアのような小さいものでは恥ずかしくて友達を連れてこれない。
都心のマンションの片隅にやっと場所を与えられる近年の状況とはまるで違った。弓矢の飾りなどは、そのまま子供が引いても、ふすまくらいには突き刺ささる立派なものであった。
不思議なもので男の子の節句になると、ひな壇の前でおとなしく弁当食べる雰囲気にはならない。勇ましい飾りに誘われて、いつのまにか物語の中のヒーローになったつもりでチャンバラごっこに引き込まれたりした。普段、ひな飾りは大きな箱に入れて天井裏や物置などにしまってある。この箱を収納場所から引っ張り出し、箱からひなを取り出して飾る。箱は子供の二人や三人は入れそうな大きな木箱で、一人では取り出せない。兄弟、姉妹2、3人で苦労して天井裏部屋から取り下ろした。
ひな壇の組み立てから飾り付けまでやるから結構時間が掛かる。主に子供の担当、胸ときめかす楽しいひとときであった。
封を取りふたを開けると、かすかな古のにおいを押しのけるようにナフタリンのにおいがほのかに立った。少しずつ増える人形で箱はぎっしり詰まっており、箱も一つではない。日家のひな壇などは、ふすまを取り払った座敷いっぱいを占めてなおはみ出さんばかりで、ひなの数も大層な代物であった。
それでも取り出すときは苦労というよりむしろ楽しみである。しまう方が大変であった。
大小さまざまなひなを一つずつ顔に綿を当てて鉢巻し、顔を隠してから個箱に入れ、大きさのまちまちな個箱を入れ子よろしく組み合わせながら詰めていく。順序よくうまく詰めないと入り切らない。いいかげんに詰め込もうとしたり、面倒くさがって急いでも決してうまくいかない。かえっていらいらするばかりで余計に時間は掛かるし苦労することになる。
何度も何度も入れたり出したり組換えを繰り返してやっと納まる。無事ふたができることが分かると、ふーと大きく息を吐いたりした。かなりの時間を要した。
代々受け継ぐから虫やカビからの防御も欠かせない。ナフタリンを適度に分布よく入れ、箱の稜線をきれいに新聞紙で目張りして来年まで保管する。屋根裏の物置など湿気の少ない場所を選んで優先して収納した。
最近の工場で大量に組み立てられる電子機器付きのおもちゃとは違い、同じものがいつでも手に入る状況ではない。親からは大事に大事にするようにくどく言われ、いくばくかの緊張感を覚えながら扱ったものである。買った日、一日で飽きてぽいと放っ散らかすようなことはまずない。与えられ過ぎる、恵まれ過ぎるということも考えものである。

ところで、テレビで国家予算のニュースやら何やらいろいろ見ていると、どうゆう訳か子供のおもちゃに思いが行ってしまう。
そして人間は本来保守的なものなのであろうか、と考え込んでしまう。
確かに現状によほどの不満がない限り、現状が変ることへの不安の方が先立つのはごく自然なことかもしれない。若くて前進、探求、冒険に意欲を燃やせる時期は長い人生からみれば限られるかもしれない。とすると今は若い人が少ないから、その若い人たちが一応満足できる庇護下で育っているから、改革前進というものへの無関心、慎重さが目立つのかもしれない。
ではなぜ一方では陰湿な犯罪や、本来正の権化でなければならないはずの公の不祥事が目立つのであろう。平穏無事に飽き足りない何かがあるのではないだろうか。平穏無事に落とし穴があるのだろうか。平穏無事に見えるのは幻に過ぎないのだろうか。
自分も老人になった今となっては保守的になりがちだし、老人を大事にしてもらいたいのは人情ではあるが、それと革新的、前進的とは座標軸が違うと思えてならない。むしろ両立すべきものだと思う。
予算の配分は時代の転機に立って、もう少しめりはり付けてもいいように思えてならない。老人の愚痴、無責任な感想である。
 

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし(亥の子)

吉田まつりの話はここまでにして、三瀬教利氏の回想記「ジュラ紀前」から懐かしいエピソードを掲載させてもらいます。

いのこ(亥の子)
旧磨の10月、亥の日に子供組みの行事があった。14歳以下の男の子が、その年お宿を勤めてくれる有志の家に集まって収穫を祝い無病息災を願う祭りである。「いのこ」「おいのこ」「おいのこさんと」といった。石で作った「いのこ」を亥の子唄を歌いながら自丁内、各戸の前の地面をついて回る。石に生産の呪力を込め悪霊を鎮めるのだという。
「めでたいな一めでたいな一めでたいものはお杯、中には小判の渦が巻く エー卜ヤッサイ 卜一ヤ」と歌いながらつく。各家は「いのこ」をついてもらったお礼に心づくしを渡す。ミカンや菓子など現物支給の場合もある。
「いのこ」は下側を丸めた円柱状の石の胴部に溝を掘り、この溝に鉄輪をはめ、鉄輪には鉄環を付けて引き綱を結んだものである。この「いのこ」を中心に放射状タコの足のように広げた引き綱に一本につき数人が取り付いて、息を合わせて石を吊り上げ打ち下ろす。
みんなが息を合わせると20キロ前後もあろうかという重い石も軽々と宙を舞い、地響きたてて地面に打ちつけられた。亥の子唄のリズムに合わせて「いのこ」は何度も上下し、地面にきれいな丸いくぼみができる。
綱の前の方、石の近くを年長組が持ち、その後ろ残りの部分に数人が並んで配置し綱引きの格好で腰を落としてつく。綱の端には幼子が位置し、ただ綱を握るだけで興奮した。

この「いのこ」祭りは町の各町、各丁目ごとに組みを組んで行なわれる。戸数によって複数の丁目が一緒になることもある。
祭りの前の数日間は夕食後に「お宿」に集まり、みんなで亥の子唄の練習をする。毎年だから主に年少組みが覚えるためであるが、唄の合間に年長組みの者が何かと指図して威張る。年長組みにとっては得意満面というところである。
「お宿」は有志が引き受けてくれるが、男児誕生の家が祝いを兼ねて引き受けることが多かった。
祭り前夜お宿は表戸を開け放ち、ひな壇を組みたて、軒下に大きな提灯を下げて飾り付けをする。「いのこ」には裏白の葉を着けてダイダイやユズを載せ、雛壇の前に並べた。
雛壇には鏡餅や稲穂、ダイコンや果物、餅や饅頭、お菓子などを供え、ロ一ソクをともしたりした。これら供物は解散時みんなで均等に分配して土産に持ち帰る。これがまたうれしく楽しみであった。
また前夜祭ではみんなが「お宿」で雑魚寝して一夜を明かした。年長組みの者が知ったかぶりしていろいろな話しを聞かせて得意がる。聞き覚えの怪談をしたり近所の女の子のうわさをしたり、あやふやな知識で男女の違いを聞かせたりもする。幼少年期の社会教育の一つにもなっていたのであろう。
みんなが寝込むのを待って、いたずらっ子が寝ている子の顔に墨を付けて回ったりして面白がる。幼少組みは一週間近い緊張と興奮で疲れ果てていて、墨の冷たさぐらいでは目を覚まさない。翌朝、寝ぼけ眼で起き上がってみると隣りの子の顔が真っ黒。下半身には紙縒りが結び付いていたりして大騒ぎする。
祭り当日は朝から前夜飾っておいた「いのこ」を裏白を着けたままついて回る。何軒かついて回るうちに裏白は少しづつちぎれて取れていく。くぼみ周辺にこぼれ散った裏白の端切れが、妙に神聖な雰囲気をかもし出した。
「お宿の神様ごめんさいチンチンカラリヤマンカラリ鳴るは滝の水の音エートヤッサイトーヤ」
これが最も頻繁に歌われた唄である。子供には訳の分からぬ呪文のような文句であるが、意味などどうでもよかった。ただみんなに負けないよう覚えっこするだけであった。
自丁目の家々をこうして順番について回った。一つの丁といっても路地裏まで丁寧に回るから、戸数にすると100軒近くあったと思う。一つのいのこ石だととても続かない。
2個あるいは3個で分担してついた。むろん戸数は多い方が志も多くなるからいい。疲れ知らずの子供に任せるわけである。現今と違って子沢山の時代ならばこそというところであろう。
ついて回っている途中で、ほかの町内あるいは隣り丁目の組みと出会ったりすると、その場で、あるいは神社の境内など身近な広場に立ち寄って、つき合いをする。他流試合である。どちらが元気か、より大きく深いくぼみができるかを競った。組みの中で一番大きい「いのこ」を受け持っているのが代表してやったり、数個の「いのこ」で団体戦をやったりした。
ちなみに各組には「いのこ」は一個だけではない。たいがい大小数個が寄贈され代々伝えられている。わが三丁目の一番大きいものは町でも一、二を争うものであった。見事な御影石で、上面には銘の大きな字が彫り込まれ研きが掛けられていた。20キロ前後はあったと思う。
「お殿様のご紋は三段梯子にひよの鳥、笹の葉に飛び雀エートヤッサイトーヤ」
吉田町は伊達家三万石の城下町であった。伊達政宗の長男秀宗が、関が原合戦の戦勝褒美(?)として仙台から遠く伊予宇和島に十万石で移封され、のち秀宗の五男宗純が三万石を分封されて吉田に居館を置いた。かの忠臣蔵で有名な浅野内匠頭長矩とともに朝使の饗応役を仰せつかり、吉良上野介義央の指南を受けた伊達左京亮宗春(村豊)は三代目である。
吉田藩は明治4年まで9代続いた。
小さい町ながら御殿内とか焔硝蔵、北小路、東小路、西小路、本町、元町、大工町、裏町、お舟手、魚の棚などの町名が付けられ、桜町、横堀、浜通り、川口などの呼び名もある。近郷には鶴間、白浦、法華津など綺麗な地名もあり、南君(なぎみ)、君が浦など、何となく ロマンチックな地名もある。何かロマンチックな言い伝えにより名付けられたのかもしれない。
「男の子ー 男の子 男の子よ忘れるな、君には忠義、親に孝 世界(社会)奉仕は人の道 堕落は世間の笑いもの 大きくなったらそのときは 人の鑑となるように いのこついて祝いましょう エー卜ヤッサイトーヤ」
これは当時としては新しい歌詞であったであろう。当時の教育訓示的な風潮が出ていて、男児の心構え、理想像が読み込まれている。特に男の子が生まれた家でよく歌われた。
ところで5 0数年も経った今でも不思議と当時覚えた亥の子唄がすらすら出てくる。三つ子の魂百までとは、このようなことも指しているのだろうか。

「お正月の初日出に 白きネズミが三つ出でて 口には小判をくわえ込む 庭には蓬莱宝船 エートヤッサイト一ヤ」
亥の子唄も結構いろいろあった。中には「おお頼むぜ、めでたいのをやってやんなはいや」と注文をつける家もある。
「高い山かーら 谷底見ーれば」
「エイコラコラ」
「ウリやナスビの花ー盛り面白や」
「ヒヨーノヒヨータン ヨーワヨイ卜ヤツセ」。
「舟が出て行ーく 煙がのーこる」
「エイコラコラ」
「のーこーる煙は雲ーとなる面白や」
「ヒヨーノヒヨータンヨーワヨイトヤツセ」。
この唄はゆっくりしたテンポで歌う。腰も落とさずほとんど突っ立ったまま、綱を引くときだけ力を入れて石を持ち上げ、下ろすときは綱をただ緩めるだけといった調子である。
「いのこ」祭りの間、大人たちはにこにこしながら子供たちを取り巻いて、わが子の振る舞いに目を細めたり気をもんだり一喜一憂するが、子供たちの自主性に任せ積極的にはかかわらない。一歩引いて子供たちを支えてくれた。
祭り当日は町内のおばさんたちが「お宿」に集まって、子供たちの食事やらなにやら何かと世話をしてくれた。白い割烹着に身を包み、にこにこしながら赤飯炊いたりおにぎりを握ったり、魚を焼いたり盛りつけをしたり子供たちのご馳走の用意をしてくれる。おばさんたちにとっても楽しい賑わいのひとときであったろう。
私の母は家事と子守り、家業の手伝いの掛け持ちで余裕がない。こんなときおばさんたちの仲間入りがなかなかできなかった。さぞ覗いて見たかったことであろう。むろん当時は余裕のある家庭の方がむしろ少ない時代であった。似た境遇の子が多く、子供の方からしても、もたもたしているところを覗かれると困る面もあった。
「いのこ」に限らず父兄会や運動会など、父母が何かと顔を見せる家庭もあるにはあつたが、わが家ではそれがほとんどなかった。やむを得ず教育方針にしたのかもしれない。
子供の方も先刻承知していて気楽でもあった。またある種の鍛錬になって今となってはむしろありがたく思える。「いのこ」は昭和20年前後一時中止になっていたが、戦後いち早く復活したので私は数度経験した。
平成11年帰郷したとき復活していることを知った。女の子も一緒で大人が引率していた。