伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし(祭り料理)2

(祭り料理)2

お祭りで子供の楽しみは、やはり各家に伝わる郷土料理などの御馳走である。
三瀬家の料理は評判だったのでしょう、親戚縁者など来客の話も面白く書かれている。

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ところで料理をするにはいろいろな器具や道具が要る。普段は使わないそれらを引っ張り出して、洗ったり拭いたり、こちらの準備も大変である。当時は現代のように電気機器やら何やらと便利な道具が揃っている時代ではなかった。まず水道が無いガスが無い。水くみ炭火起こしも子供の担当、ぼやぼやのらくらしてはいられない。ぐれたりすねたり、わがまま言っても誰も相手する暇がない。それどころか下手をするとゴツンやパチンを食らいかねない。せいぜい放って置かれるだけである。不満は自分で消化するしかなかった。現代の恵まれ過ぎた子供がかわいそうに思えてくるのは、あながち嫉妬からだけではないであろう。
料理の話に戻る。
寒天料理は少々地域色が出ていたからか、あるいは母独特の味だったせいか、その後、同じような味のものに遭遇していない。見た目ほどの感激がなかったせいかもしれない。
少なくとも子供向きではなく、卵焼きに比べるとスターと脇役に位置していた。しかし祭り料理には欠かせない一品である。
まず寒天を水に入れ加熱して溶かす。かつお節や新鮮な魚のだし汁で適度な粘度に調節しながら塩、その他で味付けをする。そこへまだ熱いうちに卵を何個か割ってかき混ぜながら落とす。金属製の平らな容器に流し込んで静置すると、綺麗な大理石模様、琥珀色の寒天が出来上がった。
羊羹の味付け、小豆の潰し加減は各戸で微妙に違い、それぞれが独自の味を出していた。わが家ではいつも羊羹の出来が悪いと父がクレームを付けていたのが今となっては懐かしい一こまである。
町では料理の評判もいつのまにか行き渡っている。誰さんとこの出来がどうのこうのと噂が飛び交い、自慢の料理を小皿に載せて隣りの奥さんの評価を仰ぎに行く。隣りも自分の料理の味見、批評を強いに来る。いずこの母さんたちも、それをいちいち気にしている暇もないのがむしろ救いであったろう。忙し過ぎて自己満足していなければやっていられない。座敷で味わう客の方も、作る方の期待に反して少々の味の良し悪しなど気にしない。みんな喜んで食い荒らして行った。
今にして思えば、あの小皿に乗せて隣近所を回っていたのは、味の評価を気にしていたことさることながら、一種の付き合い、味見交歓、気心を通じ合う手段の一つになっていたのであろう。
さて、こうして出来上がった料理は座敷用テーブルを二つ三つくっつけて、その上に並ベる。尻尾を跳ね上げ容器からはみださんばかりの鲷の生け作りや姿焼きをメインデイツシュに、大皿、大鉢、深皿など焼物や漆塗り、いずれも自慢の容器に盛って見栄えよく飾り、配置する。バイキング料理の和風版である。振り返ってみれば何のことはないバイキング風はこちらが先輩ではないか。まして戦後の一時期のバイキングブームは、一昔前の日本への回帰でしかなかったように思えてくる。
食器の準備も大ごとであった。お銚子におちょこ、小皿にお椀、取り箸に箸、スプーン、小物の準備も数が多いだけに並大抵ではない。食器棚やら納戸の奥から容器を取り出して洗ったり、ふきんで拭いたり乾かしたり、代々伝えられた物の中から選んで使うから、あの皿はどうの、この鉢はどうのと父と母の講釈も入る。自慢のものを割っては大変と一生懸命になる。まだぎこちない妹たちも加わってこれらを手伝った。
ところがである。ところがこれらの料理がなかなか口に入らなかった。
青年期の兄、姉たちの同僚や仲間、隣り町など近郷の親戚縁者など、早い人は昼食も終わり切らないころからやって来る。その後も入れ代わり立ち代わりやって来て夕方暗くなるまで切れ目がない。客の方は祭りを当てにしている。3 0人や4 0人では収まらなかった。それがどっと押し寄せて来て、ご馳走を食い荒らして行く。
姉妹、弟たちはお酒の燗と座敷への運び役で手いっぱいになる。大勢の来客に一升瓶も次々と空になる。その上に酔っ払って水だお茶だと騒ぐのに対応しなけければならなかった。当日はいずこも同様だからお手伝いさんも当てにできない。家族総出の応対になった。
母は祭りの前後ほとんど台所に縛り付けられた。
当時の奥さんたちは大なり小なりみんな同じような状態であった。化粧にもあまり構っていられない。
むしろ髪を振り乱して活躍という状態になる。
祭りに限らず母の晴れ着姿の記憶が少なく、人生の真中を戦中戦後に過ごした父母の時代の「あわれ」をついつい思ってしまう。
祭りの前後は母を手伝って助けねばならないと、外をうろつきたい気持ちが自然と抑えられた。祭りの日に町を歩き回った記憶があまりない。
 さて、来客の続きである。姉、兄たちの仲間に加え父母の仲間も挨拶に立ち寄る。日ごろのご無沙汰のお詫びにちょっと挨拶のつもりが、主に男どもはそのまま上がり込んで客の輪に埋まってしまう。わが家にもぜひ来てもらいたいと誘いにきたつもりが、ミイラ取りがミイラになりドンチャン騒ぎに加わって訳が分からなくなる。そこへ、またまた思わぬ珍客も加わったりして上を下への賑わいになった。
玄関は店も兼ねていたから一般家庭よりはまあまあ広い方であったが、履物と人との雑踏になった。うろうろ自分の履物を探す人、挨拶を交わす人などが入り乱れ、もみ合ってごった返す。
牛鬼が来たとき、みんながそちらに気を取られるからやっと一息つく。
二、三の酔客を残して店先や二階の窓、道路側に鈴なりになって牛鬼をはやし立てた。
それに潜り込んで、やっとわれわれもお祭り気分を味わうことができた。
日暮れて酔客が引き揚げていくころには、ほとんどの大皿、大鉢、深皿は空になっていた。見事な鯛の丸焼きは頭と骨だけになる。それでも料理の種類が多いから人気不人気の差でかろうじて残る料理にありつく。とはいっても子供たちも、いろいろ手伝いながら味見も手伝うから結構賞味していたことになる。
お酒もどさくさに紛れて口にした。祭りの日には子供のくせに結構いい気分になった。
父もどうゆう訳か酒にはおおらかで、子供がおちょこを手にしても、にこにこするだけでとがめたりしなかった。むしろ幼児のころから父にお酒を飲まされたくらいである。正月の朝に、めでたい日だしめでたいものだから、お神酒を飲めと注いでくれた。うまいと言うともういっぱい注いでくれたりした。その割には好きではあるが強くはない。
最後に郷土料理で忘れられない味を二つ三つ紹介したい。ぜひ一度卜ライしてみていただきたい。
一つは「まるずし」という。
小ぶりなアマダイ、小イワシやホウタレあるいは小アジの頭と内臓を取り、開いて骨も取る。これを酢に漬けて五分から七分くらいに漬かったところで二つ折りにし、間にさっぱりした味付けのオカラを挟んだものである。ご飯を握り寿しのように挟んでもいいが、特にオカラを挟んだものの方がうまかった。
オカラは軽く火をとおし、それにかつお節などのだし汁と三杯酢などで味付けし、細ネギを細かく刻んで混ぜる。オカラの湿り具合がポイントで、火をとおし過ぎてからからになっては評価が落ちる。ベちゃべちゃと水っぽいのもいけない。水分の調整とさっぱりした味付け、魚のにおいの消し加減がうまくいくと何とも美味いものである。酒の肴にぴったりであった。
小ぶりで一口に頰張れる程度がいい。いつのまにか五つも六つも食べてしまう。大ぶりに作るとハンバーガーみたいに掴み食いになる。
最近はやりのハーブをうまく組み合せると新鮮味のある献立になるに違いない。ワサビ、紅しようが、シソ、サンシヨなどはむろん、すだちやレモンもいい。ミカンやユズの皮のみじんはよく使われた。
もう一つは、「さつま汁」といった。
鯛など上等の白身の魚を焼いて身をほぐし、ゴマと一緒にすり鉢ですり潰す。そこへ焼き味噌とだし汁を加えて味付けをする。魚の身をたっぷり使って、とろとろとした「たれ」にするのがこつである。あとは細ネギを刻み込み、炊き立てのご飯の上に掛けて食べる。ちょうどカレーライスのようなものだ。ご飯には少し麦を加えると、どうゆう訳かいっそう味が引き立つ。
いま一つ取っておきの味があった。「皮竹輪」である。これは自家製ではなく、おばあちゃんからの格別の贈り物であった。ハモやアナゴ、エソなどの皮をはぎ、この皮を笹竹に巻いて炭火で炙ったものである。たれを付け、こまめにくるくる回しながら炙る。手作だから余計に値打ちがある。
何よりもハモなどふんだんに手に入るものではない。皮だけ取るから残った身の方の値打ちが下がるのではないかと心配した。手間暇かかるしまさに珍品であった。めったに手に入るものではない。おばあちゃんの店に魚を買いにお使いしたとき、ご褒美にとアツアツを手渡してくれた。ふーふー吹きながら食べた。油が乗っていて掲色の艷と適度な歯ごたえ、それにたれの味が調和して、焼きたての絶品であった。


 (画・三瀬教利氏)

伊予吉田の歴史と文化 昔の暮らし(祭り料理)1

(祭り料理)1
三瀬教利氏の回想記「ジュラ紀前」には、お祭り料理の事が詳しく書かれている。
三瀬氏は大阪大学卒で大手製薬会社に就職された。文筆も達者で昔懐かしい料理の数々が細かく記されているが、今ではこのように手の込んだ料理を作る人はいないだろう。
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さて、祭りにはご馳走が付き物である。こちらは母と姉妹たちが主役であった。材料集めから新鮮な魚の手配、9人家族のうえに来客が多いから並大抵の量ではない。
当時はいずこも大家族が当たり前の時代である。1軒当たりの人数は現今に比べ圧倒的に多かった。おばあちゃんのうち、私のいとこは8人、母も弟妹合わせて7人であった。
長女である母は気丈な性格にならざるを得なかったであろう。サラリーマンに嫁いだ叔母さんたちとは雰囲気が違っていた。その性格は生れつきだけではなく置かれた環境から身に付いたものに違いない。普段の気丈さと一変した顔を見せることもしばしばあった。
それはさておき祭りのご馳走である。まず材料集めから始まる。
大きな里芋に小芋、ジャガイモ、サツマイモ、山芋、カボチャにナス、卜マト、キュウリ、ニンジン、ダイコン、イガウリ、フキ、カブ、白菜、ネギ、ワケギ、唐芥子、タマネギ、ゴボウ、レンコン、ズイキ、キクナ、キクラゲ、シイタケ、かんぴょうに干しダイコンなどの野菜類から、大豆に小豆、えんどう豆、白豆、トラ豆、黒豆、厚揚げに豆腐、コンニャク、高野豆腐、ソーメン、春雨、オカラ、コンブにワカメ、ヒジキ、海苔、寒天、卵、イカやタコに貝にエビ、魚などの魚介類。
それに塩、砂糖、味噌に醤油、酢などの調味料から、ゴマ、ショウガ、シソ、ワサビ、スダチ、ダイダイ、ユズ、サンショウ、七味などの香辛料、ミカンに柿、梨、ブドウ、栗などの果物など、手に入るものは片っ端から集める。
現代のように年中各地の産物が手に入る時代ではない。遠来のものは限られるし春と秋では手に入るものが微妙に違ったはずだが、ここでは春秋の記憶が入り混じっている。緑色の葉菜もまだいろいろあった。
ただ最近の状況と違い、いちごやリンゴの記憶が薄い。いちごは野山で食べるものという感覚であり、リンゴはまだ東北が遠過ぎたのであろう。キャベツの記憶もあやふやである。その代りワラビ、ツバブキ、竹の子、アブラナ、菊菜など、まだいろいろ有った。
また肉の料理の記憶も薄い。海に面した町であったこともあろうが、地方ではまだ肉がふんだんに手に入る時代ではなかったのかもしれない。
いろいろ集めた材料を洗ったり葉っぱを取ったり皮をむいたり、一から始めなければならない。調理前の作業もなかなかどうして手間暇かかる。現代のように綺麗に洗ってパックされたものや冷凍食品など、まだない時代である。加工済みのものは竹輪や蒲鋅、巻き焼き、ジャコ天など魚の加工品と饅頭、菓子のたぐいぐらいのものである。
皿鉢料理は外注することもあるが大部分は自家で賄うから大変である。洗い場と台所は各種の道具と相まって足の踏み場も無いという状況になった。
幸い魚の調理は母の得意であった。刺身作りは言わずもがなイワシや子アジなどの小魚も、頭を落とし内蔵を抜き取り、さっさと開いて3枚に下ろしたりした。その包丁さばきは素早く、私たち子供が取り囲んでその手馴れた手先によく見とれたものである。
キビナゴなどの小魚は指で器用に頭と内臓を摘み取ったり、竹の表皮の小片でスース一と一気に2枚の片身にする。タコ、イカ、ナマコも無造作に料理してしまう。
ナマコの酢漬けは日ごろから父の大好物であった。酒のさかなにぴったりで、晚酌のつまみに賞味していた。漁師さんの方も先刻承知していて、まとめて売れるよい引き取り先になっていた。子供にはなかなか馴染めない料理だが、私は比較的早い時期、子供のくせにいつの間にか好きになっていた。
横道にそれたが祭り料理に戻る。
魚の種類も多く、鯛、ヒラメ、ブリ、ハマチ、ヨコワ、アジ、イカ、これらは刺身にされたり焼いたり煮たり。サバはサバ寿し、アナゴは蒲焼、イトヨリ、イサギ、オコゼなど煮魚も多い。キスやコチ、エソなど底ものは主にすり身に使われた。
イワシ、ホウタレ(カタクチイワシ)、イカナゴなどの小魚は新鮮だから酢の物が合う。タコはさっと茹でて野菜と一緒に酢の物にしたり、こってりと煮込んだりした。イカは大小によって野菜と一緒に煮付けにもされる。
地域独特の料理としてフカの湯引きの人気が高かった。ぷりぷりしていて真っ白で、癖のない淡白な身が力ラシ酢味噌によく合った。特に酒飲みが喜んで食べた。
鯛は祭り料理の主役で、刺身、塩焼き、煮付け、すり身、あら炊きなど、あちこちに顔を出す。鯛の姿焼きや煮付けも大皿からはみ出さんばかりで、生け作りと並んでメインデイツシュをなした。
鯛の姿煮とソーメンを組み合わせた料理もうまかった。大きな深めの皿いっぱいに盛られた。取り皿に鯛の身をほぐし取り、卵の錦切り、味付けシイタケ、ネギなどを添えてソ一メンに乗せて食べる。「鯛めん」といった。
魚のミンチ作りは子供の手伝いの定番、味噌すり小僧よろしく鉢巻を巻いて取り組んだ。このミンチをハンバーグ風にフライパンで焼いたり油で揚げたり、お汁に浮かべたり、ゴボウやニンジンなどの野菜と混ぜてかき揚げにしたりした。
山芋すりは私の担当。自分が好きなものだから喜んで取り組んだ。山芋は現代のように皮を分厚く切り取るようなもったいないことはしない。よく洗って皮ごとすりつぶす。そのせいか色は少々茶色みを帯びるが粘りっ気が強烈であった。すり棒に絡み付くし一塊になって持ち上げられる。アミロぺクチン含量が多いのであろう。分子の架橋密度が高かったはずだ。糸引きというよりプチンと引き千切る感じで、だし汁で十分希釈してやらないと適度な粘度にならない。それでもまだ箸で持ち上げられた。のどを通るときの感覚も柔らかいお雑煮餅に近い。この山芋汁にはミカンの皮や細ネギのミジンを散らすと味がいっそう引き立つ。
赤飯や散らし寿し、巻き寿しも並行して作る。巻き寿しには「そぼろ」が付き物である。
鯛やキス、エソ、コチなど白身の魚を焼いてその身をほぐし、軽く火をとおしながら細かくし味付けと色付けをする,色はピンクに決まっていた。海苔を軽く炙り、その上にご飯を広げる。ご飯の上、中央に縦じま状に「そぼろ」を載せる。さらにその上に細長く切った味付けハモや干瓢、キュウリ、たくあんなどを寝かせる。あとはスノコで巻き締めて出来上がる。
海苔にご飯、そぼろ、具の順にリング模様が綺麗で、ピンクの「そぼろ」が各材料を引き立てた。
「福めん」と呼ぶ地域料理も結構人気が高く、「そぼろ」をたっぷり使った料理である。
うどん状にコンニヤクを千切りにし、深めの大皿に山のように盛り上げ、その上にピンクのそぼろと細ねぎ、ミカンの皮のミジンを彩りよく乗せる。祭礼や婚礼には欠かせない縁起物の料理である。これも大皿から取り皿にとって混ぜて食べる。
祭りの卵焼きは普段のものと違い、大きくて配合も工夫が凝らされる。卵焼きは子供の一番の好物、巻いて焼き上がる一部始終をジーと見つめて胸をときめかした。あの時のときめきは尋常ではない。
これら料理の手伝いは大変であった。しかし決してつらいものではなかった。なにしろ早く食べたいから一生懸命になる。ご馳走の良いにおいに包まれて姉妹たちに加わって熱心に手伝った。
祭りは、あれもこれもで智識の習得、手先の訓練、共同作業の体験にもってこいではなかっただろうか。最近の祭りのように、一部の人に任せっきりで見にも行かない人が多いという状況ではない。各戸がそれなりに準備し、自然と参加していた。
あとに楽しい行事やご馳走が待っているから励みになるし、不器用者でも普段離れているすね者でも何かしら参加しないでいられない雰囲気になる。周囲も人手が欲しいから受け入れやすい。また、いろいろなことがそれなりに身についてくる。智識の習得と技能実践を合わせた立派な現場教育である。町内の一致した興奮に参加して社会の意味を知らぬ間に体感していた。

伊予吉田の歴史と文化 吉田祭礼の行列絵巻(3)

御用練は粛々と、町方練車は情緒たっぷりに陣屋町へ繰り出す。
祭のクライマックスは、牛鬼や宝多、神輿さらに鹿の子で、おねりは静から動へと変化する。牛鬼は立間尻(元町、鶴間、浅川)の者が担い、神輿は八幡神社のある立間の者が担ぐ形になっている。


(練り唄で綴る吉田祭禮)

さて、母校(吉田高校)の先輩で、魚棚1丁目に住んでいた家藤量(りょう)氏から、従兄弟の三瀬教利(のりとし)氏が執筆された、ふるさと回想の「ジュラ紀前」という本を貸してもらった。
三瀬氏は戦争を挟んだ厳しい時代に生きたが、これは恐竜が栄えたジュラ紀の序曲と捉えている。21世紀がジュラ紀のように一層繁栄してほしいと願い、平成12年に幼少年期の情景を描いた本を作られた。
この本に牛鬼など吉田まつりの記述があるので紹介したい。
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(牛鬼)うしおに
私が生まれ育った町、愛媛県吉田町では毎年春と秋に恒例の祭りが催された。
秋祭りでは牛鬼が出て暴れる。口をカーと開け、首を振り、尻尾を振り回して暴れる。
この暴れる牛鬼からみんなが逃げ回ったり、柵の後ろや二階の窓など、離れた所からはやし立てたりした。それが楽しみで指折り数えて待った。
牛鬼が暴れだすと祭りはいやが応にも最高潮に達する。幼い子は泣いて母親にしがみついたり、子供たちは家に駆け込んで隠れたりした。
祭りの出し物といえば仮装して練り歩いたり、神輿を担いだり、飾った車を引いたり、八つ鹿踊りのように舞って見せたりするのが普通で、
参加している人と見物客との間に一線が画されるものだが、吉田の祭りでは、それらとは別に牛鬼が出て暴れるので近郷で人気の高い祭りであった。
参加自由というよりも、見物人もはやしたり逃げ回ったりして、いつのまにか引き込まれてしまう。
牛鬼は町の数ヶ所、主な交叉点を中心にして暴れた。一回10分か20分、間に休憩を挟んでトータル1〜2時間くらいであったろうか、暴れ回った。
スペイン、バンブローナの牛追い祭り、柵内に暴れ牛を放ちそこへみんながなだれ込んで牛を兆発して逃げ回るポルトガルのラルガーダみたいなものである。
今年の牛鬼は元気がいいといっては喜び、ひと暴れして動きが鈍るとはやし立てて牛鬼の尻をたたく。逃げるみんなを追いかけて家の方へ突進し軒の瓦をはぎ取ったりする。
すり傷、打ち身ていどの軽い傷を負う人はしょっちゅうで、多少のけが人が出たりするとかえって興奮がつのり、はやし立てる方も牛鬼の方もさらにいきり立ったりした。
牛鬼とはいったい何だと思われるであろう。大きさ格好はネス湖のネッシ一を想えばいい、そっくりである。種を明かせば作り物である。胴体はいわば大きな竹籠で、これに網を掛け、網にシュロの毛を植え付ける。角の生えた頭部を長い棒の先に着けて胴体の前に取り付ける。棒には長い竹かごをかぶせ、胴体と同じように網とシュロの毛で仕上げて首とする。あとは長い分厚い板をお尻に取り付けて尻尾にすれば出来上がりである。
こうしてできた牛鬼の胴体の中に10人以上であったろうか、人が入って持ち上げて走る。中から外は見えないから胴体の外側にも4、5人が張りつき、前だ後ろだ、横だ、回れ、下がれ、と力いっぱい操縦する。かなりの人数が一団となってどたどたと走るのだから、地響き立ててと表現しても決してオーバーではない。
暴れながら牛鬼は首を上下に動かしたり左右に振ったりした。首部の心棒を支柱から懸垂していたのであろう、棒のもう一方の端を持てばかなり自由に動かせる。ロもカーと開けたり嚙みついたりした。尻尾も動かせるように取り付けられていて時々上下左右に動かすのだが、こちらは角張った無垢の材木だし胴体の回転が加わって大変危険である。この尻尾の一振りをかいくぐるのが、これまたスリル万点の余興となった。これは打ち合わせされたパフォーマンスではない。たまたまの出来事、即興であるから観衆の驚き喝采もひとしおであった。
この牛鬼をみんなではやし立てては散り、逃げ回った。中に入って担ぐ方は薄暗い中で外が見えないから向きも何もあったものではない。重いのを持ち上げてただひたすら走るのだから、外側の付添役の思うようにはなかなかいかない。勢い余って家に突っ込んだりする。
交叉点に面する家々は家の前に柵を構築してそれに備えた。柵にぶつかると牛鬼も柵もメリメリ、バリバリと音を立ててゆがむ。これがまたみんなを興奮させた。女達はキヤ一キヤ一と賑やかに悲鳴をあげて盛り上げた。
私の家も交叉点から3軒目だから柵の構築が年中行事になっていた。直径10センチ以上もある丸太を1階屋根上までの高さに組む。丸太を立てるための穴を掘り、しまってあった丸太を持ち出してきたり持ち上げて組んだり、これを扱うのは簡単ではない。粗くても一応格子状に組むから2本や3本というわけにはいかない。父や兄たちの担当、近所の共同作業でまかなわれていた。
この祭りが近づくと子供たちばかりではない、みんながまだかまだかと待ち焦がれた。
この忙しいのにやれやれという気分も多少大人達にはあったかもしれないが、準備が始まると、そんな気分は吹っ飛んでみんなが集中した。
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(画・三瀬教利氏)

秋山好古生誕160年祭

ブロガーは今年1月6日、松山市の秋山兄弟生誕地で開催された、秋山好古陸軍大将の生誕160年祭に参加した。郷里吉田町から山下亀三郎翁を偲ぶ会の皆さん、東京からは山下家、秋山家のご親族が来られた。来賓の中村時広愛媛県知事の祝辞は「秋山大将は退任後、いろいろなお誘いがあった中で、北豫中学校長に望んで就任した。在任中は6年間一日の休みもなく馬で通い子弟の教育に尽くした。晩年はすべての遺産を松山常磐会に寄附をして何も残さず静かに逝った」と語った。
この生誕地は、旧松山藩主久松家の当主・久松定謨、山下亀三郎、新田長次郎らが資金を集め遺邸として残したもので、昭和12年7月、秋山両将遺邸保存會の井上要が石碑に刻んでいる。
 この会には松山子規会の烏谷照雄会長、吉田中学時代の恩師で副会長の渡部平人先生も出席されていた。正岡子規は好古大将がかつて監督をしていた常磐会寄宿舎に明治21年から24年まで在舎していた。子規は好古の弟、眞之と松山中学、東京大学予備門で同級だった。
松山子規会が正岡子規生誕150年記念として発行した「松山子規辞典」には、秋山眞之は、東京では子規と同室で、無銭旅行、寄席通いや徹夜の勉強を競い、共に青春を謳歌した。眞之は海軍兵学校で4年間首席をとおすが、海軍将校になっても子規との交友は続いた。明治30年、海軍大尉の眞之は異例の若さで米国留学が決定。子規に別れを告げる。子規は「君を送りて思ふことあり蚊帳に泣く」と詠む。留学中、根岸の子規に毛布を贈り、子規は生涯布団に掛けた。と記されている。
 この度「松山 子規辞典」が第34回愛媛出版文化賞の第一部門「研究・評論」で部門賞を受賞した。恩師の渡部平人先生ら会員が永年、ご友人の故・和田克司氏と執筆、編纂していたが、渡部先生は中高生ら若い世代にも分かりやすい文章にしたそうで、子規を愛する松山市民の熱い思いが伝わる。
それにつけても吉田三傑の一人、清家吉次郎翁が当時の海南新聞に寄稿した高知県柏島水産補習学校見聞記の事である。
子規が「病牀六尺」第一話に取上げたという、故・和田克司氏の遺稿は、今、渡部先生の手元にある。「せ、き生」という匿名で投稿した主が、清家吉次郎という確証を今後の子規研究者の手で明らかにされんことを期待してやまない。
 ブロガーはこの日、生誕祭に参加された母校の校長、同窓会長に秋山好古大将銅像の下で、昨年の豪雨被害カンパ金をお渡しした。ささやかなお年玉代わりだが、母校の生徒たちを元気づけられれば殊の外うれしい。

初春や明治をしのぶ昭和びと

松山行き

今年もよろしくお願いします

新年早々、松山市に行った。秋山好古生誕160年祭に出席した。
田舎から山下亀三郎翁を偲ぶ会20名、東京から山下家、秋山家関係者が来られた。
秋山好古は陸軍大将を辞め、松山に帰って来た。北豫中学の校長を6年間務めた。
中村知事の祝辞で「好古翁は元々学校の先生になりたかったが、家庭の事情で軍の学校に入った。
日露戦争では負けない戦いをした。軍を辞める時にはいろいろな所から誘いがあったが
自分の成りたかった教育の道を選んだ。学校へは威風堂々と馬で通った。
晩年は一切の財産等を常盤同郷会に寄付をして何も残さず静かに逝った」と話された。
好古翁銅像の前で、母校の校長に豪雨災害支援の寄付をした。
著書「トランパー」の売上金の一部と千葉等の皆さんのカンパをお年玉代わりに渡した。


豪雨被害の支援活動

11月12日のブログで支援活動の事を書いたが、その後朝日新聞柏支局の某記者から取材を受けた。
記事になるか分からないがダメもとでやりましょう、と熱心にその後も電話でやりとりした。
11月26日(月)に電話があり、明後日の28日朝刊に出ます!丁度散歩中だったが「今までトランパーは何冊売れましたか?」という確認だった。
「家に帰れば正確にわかるが51,2冊売れたと思う」と答え、急いで帰宅した。
初めて大きな新聞に出るのでこの影響が皆目分からないが、グッドニュースだった。
当日午前3時に目が覚め、朝刊を見ると第2千葉版に大きく載っている。夜が明けて近くのコンビニで数冊の新聞を買い、取合えずコピーを20枚。
帰りがけに同じマンションから駅に向かう住人たちにコピーを渡した。
最初に注文があったのは、9時前のfaxだった。その後は電話が鳴りやまない、というのはオーバーだがこの日は対応に追われた。
1日目で20冊の注文、1週間で50冊が出て行ったが、改めてマスコミの力に驚いた。
注文者は、山下亀三郎翁ゆかりの方、商船三井で機関長を務めていた親族など仕事関係。吉田高校卒業生で大先輩からの電話や、南予出身で豪雨被害に少しでも役に立ちたいと数冊の注文があった。やはり今度の甚大な被害が同郷人の心に残っているのでしょう。
またノンフィクション物が好きで(今の経営者に山下亀三郎翁のような人はいない、こう言う本を書いてもらい有り難う)と長電話になった方もいた。
近くに住んでいる方には、本を直にお持ちした。大洲出身の方は、実家が肱川上流にあり川面から30メートルの高さにある家が床上まで水が来たという。
その時の写真が貼付の通りでトラの置物が天井に張り付いた状態、ダムの放流で凄いことになっていたのを物語っている。
船橋の方は、実家(本町1)のとなり魚棚1丁目出身の吉田高校先輩だった。弟さんが同窓会の幹事で時々顔を見かけたが、お兄さんからのfaxだった。
お会いしていろいろ話を聞いたが、ご先祖は武家で火鉢などの家財を国安の郷などに寄附したとのこと。ここで耳寄りな話を聞いたが、従兄弟に昔の吉田町について回想録を書いた人がいるという。後日その本を借りたが、吉田まつりの牛鬼、お祭りの郷土料理など興味ある話が綴られている。今後了解を取ってこのブログにアップしたいと考えている。亀三郎翁の実家喜佐方(河内)出身の方は大阪からのfaxだった。ミカン産業の基礎インフラを創ったのは亀三郎翁で、もっと若い人に郷土の偉人を知ってもらいたいと書かれていた。
ボランティアからの注文もあった。9月に千葉に来られた方で、大分県日田市の出身、29年九州北部豪雨の時、日田市に宇和島市から救援・救護隊がやって来た。この人は一緒にボランティア活動を行った。7月の豪雨でいち早く日田市は宇和島にボランティアバスを出したが、バスに加わり吉田町でお手伝いをさせて頂いたと書いている。(今朝の朝刊を見て「トランパー 伊予吉田の海運偉人伝」を読みたい衝動に駆られました)というfaxに目頭が熱くなった。
この方は郵便振込で、代金以上の金額を払込され少しばかりの寄付にと通信欄に書かれていました。
年内のキャンペーンを締めると123冊が売れた。カンパ金も集まり、正月には田舎に「お年玉」代わりの寄付を届けることが出来る。
今年は「災」の1年だったが、人情の「厚」さを感じた1年でもあった。

肱川町の虎・大洲市某氏の写真を引用)

ゆく年

今年の漢字は『災』、振り返ると関東は6月梅雨明けして連日強風が吹き続けた。
当地白井でも10日ほど続いた南風は異常だった。
オカシイなと思っていたら7月の西日本豪雨だった。それから記録的な猛暑が続いた。
今年は田舎に3回も帰ったが、現役中にもないことだった。
リタイヤしていやに帰省が多い、実家が無いにも関わらずである。
***
著書「トランパー」販売のキャンペーンは朝日新聞の朝刊に載ったお陰で
目標の100冊を超えた。カンパ金も集まり、いいお年玉となった。
faxでの申込に感動的な1枚があった。
あのSuperボランティアと同じ大分県の人で、最近千葉に住まれている。
豪雨の後、豊後水道を越えて宇和島市・吉田町にいち早く駆け付けボランティア活動をされた。
29年7月の九州北部豪雨での宇和島市の救援・救護活動に感動、お返しのお手伝いをされたという。
朝日新聞朝刊を見て、吉田町偉人伝の「トランパー」を読みたいと注文を頂いた。
後日の払込金額が定価より多く記載されており、通信欄に少ないですが寄付しますと記されていた。
世の中捨てたものではない、こう言う方が居られるんだと眼がしらが熱くなった。
ブロガーはブログ本(非売品)の2冊目を製作中で、今年も各地に出かけた。
この旅行記をムービーにした。BGMは勿論作曲家の『ナガヤス』さん。

*NHKゆく年くる年で、吉田町の「大乗寺」が出るそうです。
 被災地・大乗寺の除夜の鐘を聞いていい年をお迎えください。
一句
  晦日災い転じ福となす