忘年会でした

忘年会で東京に2回出張る
今年も残り1週間となった
長い1年だった、1,2月の事を思い出せない
3月松山、4月長野、5月松山、7月豪雨、10月松山
同級会、同窓会、生誕祭、葬儀、取材、キャンペーン
身近な人が3人亡くなった
新聞掲載で多くの人に対応した
田舎出身の知人が増えた
豪雨被害を見た
酒を呑んだ、カラオケに行った、飲み会も有った
田舎に3回も帰ったのは初めて
4倍速で走馬灯は回る
F1レーサーみたい
ナガヤスさんのBGM(Suzuka130R)でムービーを創った
題して、超高速鉄道の旅だあ〜

一句
一年のすすを払うか古稀の人

伊予吉田の歴史と文化 吉田祭礼の行列絵巻(2)

 お祭りは、御家中のお練りに続いて、町人町のお練りとなる。威風堂々から町方の行列へと時代絵巻は移ってゆく。
まず山草や竹で飾り付けた「塔堂車」が町方の先頭に立つ、別名「左義長」という小正月の火祭りは、餅を焼いて息災を願っていた。
次は裏町三丁目幟に出し飾り(壺に枝垂柳)の「御神餅」「懸け鯛」で、絵巻には当時それぞれ二人が担いでいる所が描かれているが、現在は猿田彦大神の後に練車でおねりに加わっている。
以下、本町壹丁目幟に出し飾り(軍配)の三国志で有名な「関羽雲長」練車、裏町壹丁目幟に出し飾り(月か日輪)の神功皇后重臣武内宿禰」練車、「神功皇后」は本町三丁目幟に出し飾り(瓢箪)だが、老朽化のため無くなった。
続いて、魚棚三丁目幟に出し飾り(花)の「七福神」は恵比寿だけ練車に乗っているが、吉田には住吉神社や漁港があり、漁業の神様・恵比寿さんを屋台に乗せたのではないだろうか。
更にパレードは続き、裏町弐丁目幟に出し飾り(笠)の「楠木正成」練車、魚棚弐丁目幟に出し飾り(三つ巴に交叉する矢)の「太閤秀吉」練車、魚棚壹丁目は、幟に出し飾り(日の丸扇)の「八幡太郎義家」練車だが、現在国安の郷に保存していると聞く。
これらの町内八カ丁より繰り出す山車は、総漆塗りの二階建てで、飾り幕は西陣織の豪華絢爛なものである。
かつて吉田藩には御用商人の法華津屋を屋号とする、三引高月家と叶高月家の二家があった。
郷土史家・宇神幸男著/現代書館発行の藩シリーズ「伊予吉田藩」によると
『両高月家は藩御用の物資・物品を扱うのはもちろん、海運業、金融業、酒造業、不動産業などを商うほか、紙の専売という特権を与えられた吉田藩きっての豪商であった。高月家は代々、丁頭や町年寄として町人町の町政にもあずかった。
三引高月家は甚十郎を名乗って世襲した。宝永二年(1705)、天下の豪商淀屋廣當(こうとう)(五代目辰五郎)が奢侈(しゃし)を咎められて闕所(けっしょ)に処せられたが、その直前、蓄財した名宝・名器を法華津屋三引に頼んで吉田に送ったという。法華津屋三引の経済界での存在の大きさが窺われる。
魚棚一丁目に本店を構えていたが、宮野下(現・宇和島市三間町)、父野川(現・鬼北町父野川)に支店を設け、周辺の村々から和紙を買い付け、大坂に回漕した。
天明元年(1781)から寛政四年(1792)にかけての記録では、大坂の紙問屋平野屋と加嶋屋に泉(せん)貨紙(がし)、杉原紙、半紙などを販売し、銀一三〜四五貫目の利益を上げている。
藩への献金も莫大なもので、しばしば褒賞・恩賞を賜り、藩主とその家族が高月邸を訪ねることも珍しくなかつた。そのため、三引高月家は浜屋敷に藩主接待用の一室をしつらえた。また、屋敷の一部に物見(観覧席)を設け、藩主と家族は盆踊りや八幡神社祭礼のお練りを見物した。
叶高月商店の主人は与右衛門を名乗り、本町二丁目に店舗を構えていた。叶高月は酒造業、質商も経営していた。法華津屋叶も献金怠りなく、帯刀を許されたり、伊達家家紋の三段頭を着衣に使用するのを許されたりした。叶は吉田藩ばかりでなく、隣接する大洲藩にも献金、用立てをしており、その財力ははかりしれぬものがある。』と記されている。

 両高月家など豪商は八幡祭禮に多額の寄付をしたのであろう、絢爛豪華なお練りには莫大な経費が掛かっていたものと推測される。
さて、お祭りのガイドブックに各町内の幟の上にある「出し飾り」を紹介しているが、その由来については記載がない。ブロガーの生家は本町1丁目で横堀に面している。本町壹丁目は、(軍配)を出し飾りとして掲げているが、商売繁盛の神様「関羽」に関連するものなのだろうか。その山車の見返り幕は「紅葉狩」で鬼女の首の図柄で因縁の幕らしい。
今年(平成30年)10月に吉田に帰った時、本町1丁目の山車を組み立てている所を拝見した。町内の古い知り合いが一生懸命若手を指導していた。裡町1丁目は既に山車が完成して石屋さんの店の中に武内宿禰練車があった。この辺も7月の豪雨では水に浸かったと店主に聞かされた。

一句
秋空や幟はためく出し飾り

(吉田町おねり保存会・資料を引用)

支援活動が朝日朝刊に載る

毎日忙しい日々だった。マスコミの力が凄いものだとつくずく思い知らされた。
田舎の豪雨災害支援キャンペーンが、とうとう11月28日の朝刊第2千葉に掲載された。事前に聞いていたので午前3時過ぎに目が覚め郵便受けの朝刊を開くと大きく取り上げられている。
9時前には早速、faxや電話が相次いだ。この日だけで十数冊の注文があった。電話での応対も長話になった。何十年ぶりの吉田町の方、勤めていた船会社の元機関長の親戚から数冊送ってもらいたい等、反響の大きさに驚いた。千葉に住まれる方が、郷里の災害に少しでも援助しようという愛郷心が伝わった。
中にはノンフィクションが好きで、こう言う本を見たかったという方も多くいた。
特に感動したのは、昨年の北九州豪雨で被災した人のfax。その時一番早く救助・救護に駆け付けたのは宇和島市だったそうで、その方は7月西日本豪雨の時、恩返しの為、ボランティアバスに乗って宇和島市吉田町に手伝いに行った。此の度、千葉で新聞を見て吉田町出身の海運王に興味を持ち、「トランパー」を読みたい衝動に駆られたと記されていた。更に嬉しかったのは、この方の払込金が本の定価額に寄付金が足されていたことである。
取材した記者に大した寄付にはならないがと云うと、(額ではありません、いいお年玉になりますよ)と言ってくれた。母校生徒の家が全半壊で制服が流され、教科書が水に浸かったという、来年は母校にお年玉がわりの寄付を届けようと思う。今回の注文者の美談・エピソードも必ず伝えなければいけない。


朝日新聞11月28日朝刊から)

伊予吉田の歴史と文化 吉田祭礼の行列絵巻(1)

『先知録』に八幡宮祭礼の行列絵巻は、高月紫明・芝誠明・利根翠塢の描いたものが現存している、とあるが、平成2年発行の『伊予吉田郷土史話集』に著者の芝正一氏は、叶法華津屋の流れをくむ高月紫明が描いた吉田祭礼図絵に関して記述している。

月王高月晴之助ハ叶法華津屋ノ末裔
文筆ニ優レ殊ニ俳諧ヲ能クス
斯道ニ於テ太田音吉氏卜深交アリ
相携へテ吉田町文化ニ貢献スル処多カリシカ
昭和六未年秋病ヲ得テ再ヒ立タス
遺髪ヲ海蔵寺ニ葬ル
月王不遇ニシテ後嗣無ク
開藩以来ノ名家茲ニ廃絶ス
月王ノ家君紫明高月武太郎ハ
詩文ニ長シ彩管ヲ以テ擢ンス
其遺作ニ吉田祭礼図絵一巻アリ
太田氏縁ニヨリ之ヲ秘蔵セシカ
高月家墓所ノ荒廃スルヲ嘆キ
図絵一巻ヲ資ニ換へ
以テ其ノ菩提ヲ弔フコトヲ計ル
佐川重敏氏亦高月家ト宿縁アリ
太田氏ノ芳志ニ賛シ
欣然資ヲ投シテ供養ヲ俱ニセラル
佐川氏ハ予テヨリ
吉田町文化遺産ノ保存ニ志厚ク
其途ニ寄与サレル処多シ
此度紫明筆吉田祭礼図絵ノ表装ヲ改メテ二卷卜シ
永久保存ノ道ヲ講スル為
之ヲ吉田町文化協会ニ託サル
吉田町文化協会ハ
佐川氏ノ志ヲ承ケテ之ヲ保存シ
以テ郷土文化ノ向上ニ資スルコトヲ約セリ
依テ茲ニ其由来ヲ記シテ之ヲ
後世ニ伝フ
昭和四十九甲寅八月佳日
吉田町文化協会長
芝 正一
(昭和四十九年八月吉田祭礼図絵の卷未に記之)
***
利根翠塢(とね すいう)は元吉田藩士で大正6年(1917)に、天保6年(1835)の祭礼絵巻(全長9m、幅20cm)を着色し模写を遺した。
絵巻は藩政時代の華やかな祭りの様子が描かれているが、後世に伝えるべき文化遺産と感じその絵を模写し、絵巻物としてこれを遺したのであろう。
吉田藩の発足が明暦3年(1657)、その7年後の寛文4年(1664)に南山八幡神社神幸祭が始まった。「落葉のはきよせ」「先知録」などから想定されるお練りは壮大なもので、「御用練り」は足軽20人が小銃を肩にし、鞆付の弓矢を持つもの20名、鳥毛の長柄を肩にする者の傍に裃姿の小頭などが付く。引馬二匹に口取り、小頭が付添って、その長い行列が威風堂々と進む。その次に御船が続き朱塗りの船に吹抜き旗、弓矢小銃で飾り立て、御船手組の面々は船謡を唄いながら陣屋町を練って往く。
今年で平成最後の祭りとなった「吉田おねり」は、7月の豪雨被害にめげず開催された。何と355年目となったお祭りは此の後も連綿と続くのだろう。
伊予吉田藩3万石の藩祖・伊達宗純が新天地でお祭りを始めたのは、領民との絆を深めるために考えたのか、やがて町人町の者も参加する山車、牛鬼、鹿の子などで官民一体となる一大イベントに仕上がった。
一句
粛々と徒歩(かち)や御船の秋おねり

富士山とスカイツリーを撮る

千葉ニュ―のアルカサール横の陸橋から富士山が見える
木枯らし1号が吹くというので出掛けた
暫く予定がないので暇つぶしに11月のムービーを編集した

一句
木枯らしにスッキリ富士の姿かな

豪雨支援キャンペーン取材

ブロガーは豪雨で甚大な被害を受けた郷里伊予吉田に何かしなければと考えていた。
9月頃から著書「トランパー」を売って1冊500円を寄付しようとキャンペーンを始めた。
10月20日―21日に「白井市ふるさとまつり」があった。その折、地元情報誌の取材を受けた。
「月刊千葉ニュータウン」と「ほおじろ」の女性記者だった。
それを見たある新聞社の記者が取材したいと云ってきた。ダメもとで記事に出来ればとの事だった。
本の代金の一部で大した額にはならないが、このキャンペーンで田舎に少しは面目が立つという気持ちもある。
今まで50冊が売れた。ほとんどが義理で買ってもらったものだが、中には歴史好きな方がいて二日で完読したと
云われ嬉しかった。手前みそだが本書は読みごたえがあり、座右の書として時々読み返している。
更に地元高齢者クラブの例会では、善意のカンパ金が1万円近くあった。感謝感激である。
吉田町の応援には文化面で貢献できた。といってもブロガーの力ではなく、書家「中澤京苑先生」の書が好評なのである。
10月14日の母校吉田高校関東同窓会で、吉田を励ます書を書いていただきたいと先生にお願いした所
直ぐに快諾された。書展でよく書かれるという恩師坂村眞民先生の「これからだ」という詩が送られてきた。
眞民先生作詞の校歌も書いて頂いた。吉田から来賓の校長に作品を学校に飾ってもらえばと思いお渡しした。
10月29日に愛媛県下の先生方が集まる研究会が本校であり、図書室に飾ってある「これからだ」を見て
先生の皆さんは感動されていた、と校長先生から知らされた。
吉田支所の屋上から垂れ下がっている懸垂幕には「復興」の一文字が書かれている、京苑先生の筆である。
11月3日に開催された「吉田お練り」ポスターの筆字も先生の筆によるもの。
先生の最新作「浅草の威勢をかつぐ熊手かな」は銀座はちみつで有名なビルでの書展作品。

一首
人の世の情けに触れて澱みなく国安川の水の清きよ

(眞民先生の心、これからだ)

(まつり開催に町民は👏)

(伊澤市長談ベストセラーになるといいですね)

(風になびく懸垂幕、吉田町復興だ!)

(今年は三の酉まである、最後は25日)

嗚呼、秋深し

11月も半ばを過ぎた。平年より暖かいと云うが齢のせいか寒く感じる。
市高連の作品展にHO会書道部の二点が入賞し、印旛地区展に出品することになった。
昨日は小春日和となり久々に花の丘公園を散策。台風の塩害なのか、紅葉がパットしない。
いつもならモミジが綺麗なのだがなあ。
3年前HO会に招いて頂いた恩人が一首を遺して旅立った。(合掌)


追悼一首
この実はねピラカンサよと云いし老女(きみ)風雲となり秋月に去る
一句
桜葉が赤く染まりし一葉散る