村井保固翁 最期のこと (吉田三傑2017最終章)

『凡ての者の僕』山室軍平編 昭12年救世軍出版
これは昭和12年日本救世軍の年報で、巻頭に前年亡くなった軍の最も理解ある支持者・村井保固翁のことが書かれている。
大要を掲載して村井保固伝の最終回とする。

(得難き知己又恩人)救世軍中将 山室軍平
慶應病院における村井保固翁の病室には、福澤先生自筆、書簡の軸物を掲げてあった。その文に曰く
 前略過日来御話いたし候此度の亜國行きは、誠に好機会、何卒御決意被成度、御國許北堂の御案じは万々御察し申上候へども、御帰省の上は必ず御相談出来可申候。近くは老生も今を去る二十年万永元年アメリカへ航行の時は、年二十六歳、母の齢は五十六歳、加之其前々年は家兄病死、遺る者は姉三人、男子は小生壱名のみ、甚だ六ケ敷事情なりしかども、江戸在留中國許の母へ相談もなく、日本開闢以来初めて外国へ航行と聞き、百方周旋奔走して、或人の従僕と為り、船に乗りて飛び出したる事あり。一度参れば之に慣れ、外国行きは浅草行きよりも易く、其の後欧羅巴に行き、復重ねてアメリカへも参候。此れに比すれば仁兄の如き、御國許にご令兄様ありて、北堂の御孝養に御差支えもなし。外国行きには最も御都合よき御身分とこそ上存候。(下略)
  四月二十二日  福澤諭吉
 村井保固様

これは明治十二年四月に認められたもので、当時翁は新たに慶応義塾を卒業し、森村組に投じて渡米せんとする所で、それには国許の両親の同意を得難き憂いあり、福澤先生は乃ち両親に見せて、その理解を得る助けにもと、この書簡を草せられたのであった。(中略)
翁は四十歳を越えた頃肺患に罹り暫時して明石の病院に静養し、幸いに癒えて再び健闘を続くることになった。翁が昨年救世軍療養所を訪ねられた時、その入院患者に向かひ、「私は中年にして肺病を患うた。そのお陰で今日八十二歳まで生きのびたのである」といはれた。肺病にかかったお陰で、爾来摂生を重んじ、神に任せて安心する様になり、そのため長生きしたといふ意味であった。その太平洋を横断すること、實に九十回に及んだといふ一事を以てするも、翁の不屈不撓の精神と捨身の奮闘を想像するに足るのである。翁は海外貿易の先覚者、又その偉大なる功労者たることを認めざる者はあるまいと思う。
 翁は公共に盡した。翁は専心、海外貿易に盡すと共に、その儲けるつもりでもなく、儲かった金を、神からの預物として、盛んに公益の為に用いたのである。その為財団法人村井保固実業奨励会を起こし、最近は又郷里吉田の為に財団法人愛郷会を造り、その郷里に対しては中学校と幼稚園とを経営し、別に貧困なる学生の為に学資金給与の道を開き、又南米移民の為に貢献するなど、極めて多方面に尽瘁する所があった。救世軍に対しては名古屋の会館新築のため、又学生寄宿舎村井奨学寮のためなどに、多分の資金を投じ、最近数年は救世軍の私に支払う食扶持を負担して居られたのである。しかもそれを、その曾て使用したる金銭の内、最も意義あるものとして、心からの感謝を以って支弁して居られたのである。翁は私共にとって眞に得難き知己また恩人である。(中略)
 去年の八月、慶應病院に入院せられて以来、私は幾らかでも、翁の平生の厚意に報いたいと、なるたけ都合して、三日に一度はこれを訪ね、共に聖書を読み共に祈をした。翁は聖書を讀む度毎に、おし戴いて之を開き、讀み終えると又、おし戴いて之を閉じらるる、その神の御言に対する敬虔の態度が、深く私を感ぜしめた。永眠の一週間ばかり前に、ゲツセマネの園に於ける耶蘇の祈のことを讀み、彼があらゆる人々に見放せながら、一切を神の御意にまかせて、十字架に向かひ給ふところを講ずると、翁は頻りに共鳴する所ある如く、若し必要なら、そうした覚悟で、死に直面すべき決心を示された。永眠の前々日は、詩編の第百二十一遍を讀み、リビングストンがこの辺を力に、アフリカの蛮地に向こうた事を物語り、殊にその第二節「わがたすけは、天地をつくりたまへるエホバよりきたる」の一語を深く味はうた。その翌日は病が大いに進んだ故、最早聖書を繙くことをやめ、詩編の第五十篇十五節、「なやみの日にわれをよべ、我なんぢを援けん。而してなんぢ我をあがむべし」の一句を、そらで唱え、之を慰めると、にっこり笑うて感謝せられた。愈々紀元節の当日となり、早朝最早これ迄であるとの通知をうけ、駆けつけて行ったのが午前九時であった。それから三十分枕辺にあり、息を引取らるる時、「天の父よ、今この兄弟の霊魂を、御手にまかせ奉る。うけいれたまへ。アーメン」と祈った。その家族、親戚、森村組、村井保固実業奨励会の諸君が、取巻いて居らるる中に、英霊の天に帰るを見送ったのである。村井翁は神に身を獻げた実業家であった。神の栄と人の救とを目的に、業務を営んだ聖徒であった。翁は又、財産を神からの委託物件として、如何に最も有用に之を社会公益の為に用いべきかと苦心しつつ、最善の努力をこめた人であった。固よりその時代に、身を置かれたのである故、翁が基督を知らるるまでの生活を、基督を知られた後の標準によって審いたら、甚だ心苦しく思わるる所があったかも知れない。然しながら、それ故翁は、二十余年前基督を信じ、その贖いによって罪から救われた一箇の罪人として、何処までも謙って神に事へられたのである。私はこの一箇の基督者、潔められたる実業家、真正の愛国者救世軍の恩人、個人としての知己、村井翁の昇天を惜しみ、その高貴な人格と事業とに対して、深甚なる敬意を払うものである。その米国にて病床にあり、親しく来たって翁の最後をみとる能はざりし令夫人に対して、切なる同情を表し、神の特別なる慰藉と祝福とを祈るものである。(青山斎場にて葬儀説教の大要)

 フィナーレ
 我が故郷の「吉田三傑」を追うブログもここに完結しました。
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   平成29年6月22日 

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 (ブロガー:宮本しげる