村井保固伝  財界巨頭伝:立志奮闘 1

 昭和5年11月29日、実業之日本社から発行されたタイトル『財界巨頭伝』に
「八十六囘太平洋を膻斷して貿易界に奮鬪した森村組相談役 村井保固氏奮鬪傳」
という題で20ページにわたって記載がある。本の保護期間満了でインターネットに公開されているので一部引用させていただく。因みに本の定価は一円五十銭だった。

 この本には28名(台湾銀行/森廣蔵、三井鉱山/牧田環、三菱銀行/串田萬蔵など)の財界巨頭が描かれているが、編者はこのように記している。
  …現代日本の財界を動かす巨頭連を、次々に紙上に拉し来たって、先ず彼等の人物を道徳的批判にメスを揮って解剖し云々、 彼等巨頭が如何にして名もなき一介の青年から光輝ある今日の地位に登り得たか?ここに彼等の歩んだ足跡を尋ねる必要が生じてくる。
希望に燃ゆる若き読者が、彼等の奮闘伝におりこまれたる教訓と暗示とに培われ、日本の次の時代の財界を発展せしめ発達せしめ得る人士たり得れば、本書の今一つの目的が達成されるのである。…
 ☜村井保固翁(出典:国立国会図書館デジタルコレクション)

村井保固氏奮鬪傳
(慨然四方の志士と交はる)氏は今年75歳になるが、過去50年間外国貿易に従事し、その間太平洋を横斷すること86回に及んで居る。
氏は伊豫の士族の家に生れたのであるが、明治10年慶応義塾に入學する目的を以て、郷里から神戸に上陸して常盤楼に投宿すると、折から西南戦争が勃発して、官軍の血にまみれた負傷兵が蒸気船から宿屋の女中に依て担ぎ上げらる、と云ふ惨憺たる場面が演ぜられた。
当事明治天皇は京都に大隊を進め、大阪には天下の有志が集まって国事を論じていた。
氏もそれらの有志と交わり、酒を飲み腕を巻くして国事を談じた。そうして熊本城が陥落して上、事を揚げんことを企てていた。
ところが熊本城が陥落しないうちに、早くも自分のポケットが陥落してしまった。当時宿屋は1泊12銭5厘位なものであったが、大阪中の島のたけしきは、1泊1円も取った。そういう高い宿屋に貧乏書生の癖に宿泊して、四方の有志と交際して、盛んに痛飲しているのだから、忽ち金も無くなる道理である。
(発奮笈を負うて上京す)
かうして天下の大勢も定まり、自分のポケットも怪しくなつて來たのに気の付いた氏は、いよいよ笈を負うて上京する決心をした。懐には旅費の外に、少し位の金しか持っていなかつた、神戸から船に乘つて上京した。それは明治10年の5月で、氏の24歳の時であつた。
早速慶応義塾に行って塾官の渡邊熊八氏に面会した。そうして氏に向かって『實は自分は
銭がないのじゃ。内の銭を使って勉強するには1年半ぐらいしか続かない。――銭の範囲内で卒業したいのだから、一つ助けてくれやれ……』と、田舎言葉全出しで、自分の内情をかくさずに正直に話した。そうしてその時分慶應の学級は、一等から7等までありその一等に入れてくれぬかと頼んでみた。
すると、渡邊氏は今暫く三等に入って居るがよい。直ぐ試験があって、二等になられるからと言われるので其の如くした。
(つづく)