村井保固伝 「全力主義の村井保固氏」より 1

一昨年の秋、名古屋に行った。S38度卒吉田中学同級生が「大須観音」の近くに料理店を出しているので、其処に級友7名が集まった。翌日は、村井保固が創業の一役を担ったノリタケカンパニーの「ノリタケの森」を見学。工場跡の赤煉瓦が迎えてくれた。
ウエルカムホールにヒストリーが書かれているが、保固のことが載っていない。妙だと思い、係りに電話するとミュージアムの方にあるという。
4階の入り口のところに「ノリタケを創立した幹部」の写真にあった。係りの人に村井翁をご存知か?と聞いたら、太平洋を90回も横断した凄い人と縷々説明してもらった。
想えば山下亀三郎はトランパー時代に、「日々広小路から大須観音をぶらぶらし…」と自書に語っているが、名古屋の則武辺りを彷徨っていたのであろう。吾々後輩も先人の辿った道を歩いた。

(森村組大幹部:前列左から大倉孫兵衛、森村市右衛門、広瀬実英。後列左から森村開作、村井保固、大倉和親/ブロガー撮影)


森村市右衛門著 「全力主義の村井保固氏」
(福澤先生の商売論に感激す)人間万事精神一つといふことは村井保固さんに依つて之を事実に知ることが出来る。何事も心一つである。精神さへ茲にあれば如何なことでも押し通せる。村井さんを見て私はこの確信を得たのである。
村井さんは慶応義塾を出ると直ぐに私の店に来られた。丁度明治12年の5月であった。
私の店も段々発展して、米国の方でも私の弟豊一人では手が廻りかねるから、誰か一人寄越して呉れと言って來た。
米国へやるとなると多少教育もあり、語學の心得のある者が要るので、私は福澤先生の處に行って然るべき人物があつたなら御心配を願ひ度いと頼んだ。しばらくして先生が、『どうもお前の註文のやうな商売をするに適當な男といってはむづかしいが、茲に一人の大分面白い男がある。あの男なら丁度よからう』といふ話、その一人の面白い男と先生が紹介された人がこの村井保固氏であったのです。
村井さんは尾崎行雄さんや犬養毅さんなどと同窓で、その頃の塾生と言えば皆大臣になるのが目的で、商人になるなどいふ人は一人もない時代であつた。然るに独り村井さんのみは、福澤先生の商売論に大いに感じて、断然商家になる決心を抱いて居った。だからその学生時代も面白い。木綿前掛け小倉の角帯といふ服装で、墨斗を腰に差し町人風になって居られた。これが治国平天下を口にして豪壮の氣を尊ぶこと烈しい当時であるから、実に異数であつたのである。
尾崎行雄氏曰く「實に可哀さうだ。」)福澤先生のお見込みで紹介になった方だけに實に偉いところがあった。けれども何分、その當時の私の店と言ったなら、貿易事業などといふと大変立派なやうだが實にひどいもので、それ程の決心を持つて來られた村井さんも驚いて了つたといふことである。店と言えば、狭苦しい小屋で、取扱う品物は神様の掛物、ショウカラ笛、舌出し人形、面かぶり、暖簾、すだれ、白木の箪笥に絵を描いたものなどと言ったやうなもので、それを縛ったり、荷造りしたりするのが一日仕事なのだから村井さんも驚かれたに違いない。村井さんが塾で想像されて居られた商売と私の店でやつて居った実地の商売とは實に天地の差であったのである。だから氏が私の店に来られてまもなくの頃、同窓の尾崎行雄さんが來られ、その様子を見るや『これは實に可哀そうだ』といつたといふ事を後から村井さんに聞いたことがある。
今でも当事の事を語り合うと實に感慨無量で、村井さんはよくかういふ「自分は実際驚いた。併し何でも構わない。取りつい付いた以上はやり抜くより外はない、まあ五六年一心不乱に、目をつぶったつもり何事も言わず、人のいふことを聴いて、善悪を考えず、出来得る限りの力を盡してやり抜くという覚悟を固く決めたが、それが今日の幸をなしたのだ。」精神一つといつたのは實にことである。村井さんは直ちに店の塵芥にまぶれ乍ら、店の者が向こう鉢巻きで仕事をしている側に行って、荷造りの仕方などを一々きいては繁へられて居るのであった。馬鹿になって目をつぶったつもりで出来えるだけの力を盡してやり抜く覺悟があれば、外のことは心配せずとも自然に出来てくるものである。すべての事この覚悟がなければ駄目である。森村組の今日あるも畢竟同士の人々が皆この精神を以って一致団結し、艱難を艱難とも思わず、苦労を苦労ともせず、何処までもやり拔くといふ精神で奮闘された結果に外ならんのである。
それから給料のことだが、私は村井さんを雇入れる時に「森村は銭がないから月給は沢山出せない月六円だ。」と話したところ、村井さんは「月給などは要らない。営業を覚えるのだから、こちらから月謝を出さねばならん位だ。」といふのであつた。それで四円を下宿料二円を小遣いとして村井さんは何等の不満足もなく毎日毎日全力を挙げて店のために盡して呉れた。