『欧米独断』第三篇 欧州編 (第一章 老大の英國)2

***これやかれや***6月16日セントポールス寺院及び絵画館ウエリントン墓
  柩載せし千曳の車今も猶きみが名重きしりしなるらん
17日緣威天文台
  倫敦の雲霧はらふすべあらば日毎夜毎に日生も見るべく
  降りしきる雨宿りすと立寄ればあるじの女我友知れり
18日観劇
  光るもの色濃きものと飛びつ跳ねつをんなの踊るほかなかりけり
19日ハンプトンコート宮キウ植物園キングストン公園
  僧正の腹の黒さよ花いばら
  勅使門を青葉埋めて南京塔
20日グラスゴー行き
  槲青葉牧場にあきて山に来し
21日帝国名誉領事及び市役所を訪ひ貧民宿舎を視、河を下りて両岸の造船所を概観す
  崖上は元帥像(ロバート)石楠花
  一日三船作りしといふこの河に艤ひするは五つ六つ
22日エジンバラ
  古城やつはものどものよそほひもむかしながらを今に傳へて
23日倫敦に帰り浅田博士夫妻らとオックスフォード大學へ
  鱒の舎(ツラウトイン)に鮭の旨さよ高話
25日市役所を訪問し26,7二値は小学校を参観す
  人の上に人ある如く学び舎も二た色なりき富める貧しき
28日荷造り
  はつか居て荷かさ高くぞなりにけるつととならずも船積みにせん
  ここに来て御国の財買ひにけり流れ出でたる黄金のぜにを
29日朝日蝕、雨降る、巴里へ渡る
  曇り気のイギリス去りてフランスのはればれしたる空をしぞ見る

(第一章老大の英國)の最後に吉次郎はこう記している旅行中に於いて倫敦の宿は愉快であった。各種の研究者が入り代わり立ち代わり、各所見を闘わして補い合う所は他では得られぬことであった。多くは日本禮讃者で故国の為に万丈の気焔を揚げた。就中面白いのが、思想の左傾を憂へ学生などを裁判に付するよりは、旅費を與へて南北米の田舎だけを歩行かしたが宜しかろう。資本の勢力が如何に旺盛で且横暴であるかを認めたら帰朝後に実在せぬ階級打破論や職業闘争論を熄めて祖国崇拝者になるであろう安いものではないか、資本主義の大本山英国は複雑で我々にさえ了解し兼ねるから、自国さえ充分に知らぬ学生などには解らぬ、永く置きよると英化してしまって益々分らなくなるであろう、諸君は如何に思われるや、賛成、賛成といふ調子であった。また諸君は此の偉観を見ずや、稲垣満次郎が東方策を書いて世界は英露の争いで日本の加擔を得た方が勝つと論じた頃は英露武力の競争で露が印度を覘ひ亦極東に手を伸ばさんとすれば英は巨文島を占領して之に抗し、露がルシア號を浦鹽に常派すれば英はターライブルとインビンシブルを以ってこれに対し、遂に日英同盟となり日露戦争となり世界大戦となったが、両大国の競争は今猶昨の如し。唯露が武力闘争を熄めて第三インターナショナルの言論宣伝を以って支那より印度に及ばんとする戦略を新たにして居るではないか。
倫敦の商務官事務所捜索と為り国交断絶に及んだ。勿論対岸の火災視も出来ぬ。英国も却々のことだ。同盟破棄後の吾々に何の責任もなければ無交渉ではありはするが、大なる注意と興味を以って観るべき大相撲に違いない、面白いではないか。片屋資本山に片屋無産峠がなど他愛もない談話さえ興じられた。