清家吉次郎伝 2

(吉次郎の教員時代)
吉次郎が師範学校を卒業したのは明治22年7月、翌23年4月大洲尋常小学校の訓導となった
大洲は盆地で風光明媚、愛媛の京都と言われている、いま肱川の鵜飼が有名である
吉次郎はここでも論客ぶりを発揮、講演会があると真っ先に飛び出していった
立論が奇抜で話柄が耳新しく、しかも滔々とまくしたてるので聴衆には歓迎されたという
この頃からすでに何処までも雄辣な政治家肌の快漢であった
大洲時代に正式に謡を習い始めた、持ち前の豊かな声量が謡を一層引立てた
無逸会発行の「無逸清家吉次郎伝」によると、
(縣會に於けるあの怒號咆哮、県会議員や衆議院議員選挙に於て、連日にわたつて一日何回
となく繰返される政見発表演説、欧洲を一巡して歸つた時の八時間にわたる大演設等をやっても
少しも屈する所なく、あの大聲に變化のなかつたと云ふ事は、此の天分的声量に謡曲
鍛錬が加へられた賜である事を逸してはならぬであらう)と記している
明治25年10月吉次郎は北宇和郡喜佐方尋常小学校の訓導として郷里に帰ってきた
実に8年ぶりに故郷に錦を飾った、村は小学校の偉い先生を賞讃し大いに歓迎した
吉次郎は十分に故郷の香りをかぎ、明るく朗らかに児童を熱心に訓育したのである

一句
ふるさとの子らを相手の桜かな

(清家吉次郎・吉田三傑資料室から)